勝利者誌 一九一一年 三巻 六月号 掲載。「真夜中の叫び」から。
「避け所に逃れてきた私たち……」(へブル六・十八)。
神は恵み深くハバククに命じられました、「ビジョンを書き、板の上にはっきり記し、走りながらでもそれを読めるようにせよ」(ハバクク二・二)。これを十分に理解するには、故意ではなく血を流してしまった人々のためにモーセの経綸下で定められた取り決めに戻らなければなりません。故意に流された血に対しては、復讐者からの避け所はありませんでした。しかし、全く故意ではない場合、避け所が提供されただけでなく、それに至るためにその殺人者にあらゆる便宜が図られました。六つの町が定められました(民数記三五・十)。それらの町には容易に近づくことができ、山の上や大きな平野の中に位置していました。修理の行き届いた道が備えられ、川には橋が架けられ、他の道が交わったり、道が分岐する所には、その町への正しい方向を示す、「避け所」と記された標識が掲げられました。こういうわけで、その殺人者は、速度を落とさずに、走りながらでもそれを読むことができたのです――これは、特に旅の終わり近くで、血の復讐者が遠く離れていない場合は特に、きわめて重要なことでした。
おそらくこれまで、この予型的施設の全き意義に関する理解は遅々としたものでした。しかし、これは神に対する罪人の真の立場を私たちに予型的に示しているのです。福音の恵みの時代に生きている私たちは、彼は裁きの神であること、そして、復讐の日が彼の御心のうちにあること(イザヤ五六・一、二)を忘れがちです……神は血の復讐者という型の本体なのです。彼は来て流血に報いられます(詩篇九・十二)……。
誰の血を、神は来て取り調べられるのか?と問うてもいいでしょう。第一に、私たちの世界で無残に殺された御子の血です……。
神の愛する御子は私たちの世界で殺されました。私たちはこれを個人的に行ったわけではありませんが、それは私たちのただ中でなされたので、もし私たちが自分の両手を信仰によって神に定められたいけにえの上に置いて、あの潔白な血を流した問題をことごとく洗い清めなければ、あの恐るべき行為の咎に対して責任を免れません。
しかし、このひとりの偉大な犠牲の血以上に、取り調べられるべき血がさらにあります。地上はあまねく墓場です――広大なアケルダマであり、そこには、罪を導入することによって「最初から人殺し」だった者やその手先どもの犠牲者たちが隠されて横たわっています。私たちはまさにこの真っただ中に生きており、この犯罪の咎の中に巻き込まれています。これを取り除く唯一の方法は、その扇動者との関係をいっさい断つことです……。
しかし、この偉大な避け所の施設の備えから、サタンと人との実際の違いがわかります。その犠牲者とその手先との違いが直ちにわかります。サタンは最初から人殺しです。彼は人を殺すこと、魂と体を殺すことを入念に計画しました。それを成し遂げた致命的一撃は、直接神ご自身を狙ったものでした……。
人の天然の状態は今や、この恐るべき立場にありますが、人はこの立場に故意に立ったわけではありません。騙されてこの立場に立ったのです。ですから人のために一つの避け所が用意されています。そこに人は逃げ込むことができ、故意ではない行動の結果から逃れることができます。逃れるためのこの備えを活用しそこなうなら、人は確実にこの血の復讐者の犠牲になります。まるで、避け所が全く備えられていなかったかのように……。
彼が再来してそうされる時、その時までにキリストの中に避難した人をみな、彼はご自身と共に連れて来られます。他方、地上に生きていて、終末の時代の増大する不法の中で苦闘している者たちはみな、突然空中に引き上げられて彼と会うでしょう。これに加えて、かしらと肢体たちのからだは完成され、失われた主権は回復され、他の人々に渡ることのない王国が設立されるのです(ダニエル七・十八~二七)。