いかにして預言は成就されるのか……

「賢い者は悟るでしょう……」(ダニエル十二・十)。

E. マクハーディー

勝利者誌 一九一四年 六巻 十・十一月号 掲載。「真夜中の叫び」からの引用(p26~27)。

「事実の収集と検証が、それらを説明する諸原理の発見に先立たなければならない」と言われています。そして、諸々の事実を注意深く学ぶことにより、いと高き方がそれに基づいて常に働いておられるように思われる一つの原則を私たちは垣間見ます――つまり、将来起きる出来事の予測は、繁栄であれ破滅であれ、神意の通常の行程・働きにより、出来事の自然な流れの中で実現されるのです。

預言の成就である出来事は途方もない大事件であるにちがいない、と私たちは想像しがちです。言わば、おのずと明らかなものであり、それが意味するところを万人が理解するにちがいない、と想像しがちなのです。これは事実からかけ離れており、むしろ、自然な出来事の通常の行程で成就されなかった預言を一つでも見つけることの方が難しいのです。

例として、初臨をあげましょう。それ――これまでに起きた世界で最大の出来事――に関して預言書中に多くの予測が散りばめられています。それらの予測はこの上なく仔細に、文字どおり、全く成就されました。それでも、とてもさりげなく、静かに成就されました――通常の、日常的な形で成就されました――そのため彼は世におられましたが、世は彼を知りませんでした。「彼はベツレヘム出身でなければなりません」。それで、ローマ帝国は、すべての臣民に課す税について、ある勅令を発しました。その勅令の結果、ある貧しい女性とその夫がベツレヘムに行かなければならなくなりました。そこにいる間に、彼女は息子を生みました。おそらく、彼女はそこを早々に立ち去って、二度と見なかったでしょう。おそらく、群衆の間でほとんど気づかれることもなかったでしょう……。それでも、主の御言葉の中の預言は成就されました。預言者ミカが数百年前に預言したように成就しました。「しかし、ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの数千の間で小さいが、あなたから私へと、イスラエルの支配者となる者が出る」(ミカ五・二)。

彼――その方が出るのはいにしえから、実に永遠からであり、その方のためにユダヤ人と異邦人の世界は四千年以上用意してきたのです――の来臨に関するこれほど偉大な預言が、こんなにありきたりな形で成就されるとは、誰が想像できたでしょう?ユダヤ人はこれがこのような形で成就されようとは予期していませんでした。この方がモーセと預言者たちが記した方であることを、彼らは信じようとしませんでした。そして、国家としての彼らは彼らの不信仰の中で滅んだという恐るべき事実を、私たちは持っています。彼らが不信仰だったのは、彼らが期待していた華やかさに欠けていたからでした――彼の出生や、もしくは地的状態に関する諸々の出来事に超自然的要素が欠けていたからでした。彼らの地位を占めている私たち異邦人は、彼の再臨に関して、彼らの過ちに陥って、不信仰の同じ例に倣って滅びないように注意しなければなりません。

預言の超自然的要素は……すべてではないにせよその多くは、様々な期間――二、三日から数千年まで――の間に起きる出来事の詳細な知に限られています。その予知をよく知っている人々で、それが通常の成り行きで実際の事実となる時に生きている人々にとっては――神の御手は、まるで天からの力強い天使たちがそれを成し遂げたかのように、その目に映ります。これは同時に性格と報いの試金石でもあります。「賢い者は悟るでしょう」(ダニエル十二・十)。「すべて賢い者はこれらのことを熟慮して、主の慈愛を悟れ」(詩篇一〇七・四三)。もしすべてが明快で人々が必ず理解できるものだったなら、彼らはあらがえない力によって動かされるたんなる機械のようだったでしょう。信じざるをえないから信じていたでしょう。こうして、神の御旨を台無しにしていたでしょう。

もう一つの自明な原則は、神は――たびたび専制的であると言われることもありますが――専制的な方法で衝動的に御業をなさることはないということです。彼が成就されたどの大変化にも、準備期間がありました。ユダヤ人の経綸が始まった時がそうでした。また、異邦人の時が始まって、異邦人が預言された計画に基づいてユダヤ人に取って代わった時もそうでした。……そして特に、私たちが「終わりの時」と明言されている時に近づくにつれて、これは明らかになるでしょう――この終わりの時は「彼の備えの日」(ナホム二・三)であり――王の来臨に備えるためのものなのです。