「このしるしにより打ち勝て」

F. B. マイヤー

勝利者誌 一九二八年 九巻 十月号 掲載。

十字架が中心です。ほふられた小羊は御座の中央におられます。彼の周囲に、輝かしい、不屈の、光の軍勢が同心円状に整列しています。外の円は、天と、地と、地の下と、海の、すべての被造物から成っています。ヨハネの油塗られた耳によると、彼らは祝福と、誉れと、栄光と、力を、小羊に帰しました。内側の次の円は、無数の天使から成っています。彼らは大声で、小羊はすべての権力と、富と、知恵と、力と、誉れと、栄光と、祝福を受けるのにふさわしい、と叫びます。しかし、最も内側の円は、キリストご自身の血によってあらゆる部族、言語、民族、国家から買い取られた人々から成っています。素晴らしいことに、私たちがその円の中に立つことは可能です。ただし、それには罪の力の解放の何たるかを知る必要があります。肉体において苦しんだ者は罪をやめました。つまり、罪と縁を切りました。そして、今後の地上生活の行程の間、その人は人の子の前に立つのにふさわしいと見なされます。そうです、確かに、私たちはここで今、パウロが彼の最後の手紙で引用した、教会の昔の詩歌にあずかって、それを得ることができるのです(二テモテ二・十一、十二)――

私たちが彼と共に死んだなら、彼と共に生きることにもなる。
私たちが忍耐強く痛みに耐えるなら、彼の王職にもあずかることになる。
私たちが彼を否むなら、彼もまた私たちを否まれる。
たとえ私たちが不信仰であっても、彼は真実であり続ける――彼はご自身を偽れないからである。
(ウェイマス訳)

「彼と共に死んだ」がパウロの手紙の常套句です。それはコロサイ人への手紙中に反復句のように鳴り響いています。「あなたたちはキリストと共に死にました」……「あなたたちは死にました」……「あなたたちは彼と共に葬られました」。これは神の御旨ではそうだっただけでなく、当時、神聖なバプテスマの儀式が示していたように(ローマ六・四、コロサイ二・十二)、個人的取得によるものでもありました。もちろん、この個人的な取得の行為は、いかなる外面的な行為や儀式にもよりません。外面的な行為や儀式は、せいぜい、内なる意志の決断の象徴やしるしにすぎません。こだわるべき主要な点は、使徒ペテロが述べているように、同じ心もしくは決意で、自分自身を武装することです(一ペテロ四・一)。私たちが対処するように命じられているのは、罪(複数形)というよりは、むしろ、私たちのすべての不幸の源である罪(単数形)なのです。

自己の命を私たちは対処しなければなりません。私たち一人一人の内には、しつこい、深く根を張った、自己主張がかなりあります。自分自身の計画を立て、それを自分自身の力で実行しようと試み、ますます熱心に、なされたことに対する神の称賛よりも、働きを行う自分のやり方に対する人の称賛を得ようとします。こういうわけで、私たちの計画は失敗し、私たちの努力は不毛な収穫の黒ずんだ穂のようになってしまいます。私たちは死んで生きなければなりません。自分自身の終焉に至らなければなりません。それは神の開始に達するためです。自分にはできないことを告白する時はじめて、自分は彼にあってなんでもできる、と言うことを私たちは教わります。

天然の人はとても多くの形で表れます。自己がキリストに取って代わられるには、とても長い時間がかかります。皮相的な魂がより深い魂によって、天然の人が霊の人に取って代わられるには、とても長い時間がかかります。どうして自分がこの肉の重荷を負うようになったのかを理解しようと努めても無駄です。その現実で十分です。それについて少しも知らない人は、私たちの間にだれもいません。その重みの下で呻いていない人はほとんどいません。政治、商業、社会の領域で支配的な兆候は、多くの形を取って表れる自己の利益です。常に肉の欲が霊に逆らいます。地的なものが天的なものに、「私」が「私ではない」に逆らいます。古いアダムが第二の人、天からの主に逆らいます。

キリストのパースンにおいてこの旧創造は十字架に釘付けられたことを見ること、旧創造を十字架につけたこの行為を是認すること以外に、解決法はありません。私たちは、一人一人、くじによって選別されなければなりません。それは、ザブジの子、カルミの子であるアカンが取り去られるまでです。私たちは、めいめい自分で、自分の悪い自己がキリストにあって十字架に釘付けられたことを見なければなりません。そして、喜んでそれをそうしてもらわなければなりません。人が人生の初期に、主を見る習慣を身につけて、自分を十字架上に見るようになるなら、それは素晴らしいことです。それ以降、この世がその人の感覚を通して肉の情愛や欲望に訴えたとしても、その人は十字架を指さして、「成就した」という主の御言葉を繰り返します。その人はこの事実を象徴的行為によって示すかもしれませんし示さないかもしれません、どちらにせよ、自分はキリストと共に十字架につけられたことを知っています。また、今後自分が肉体にあって生きる命は、神の御子を信じる信仰を通して天から受けた命であることを知っています。

この死を理解するようになるにつれて、私たちはますますキリストの永遠の命にあずかるようになります。彼と共に死ぬなら、彼と共に生きるようにもなります。この死の中に深く下れば下るほど、ますます高く昇って命の中に入ります。聖霊によってこの死の面に配慮するなら、主は命の面に配慮してくださいます。「私たちは彼と共に生きるようにもなります」という輝かしい約束を、あなたが死ぬ日や永遠と結び付けてはなりません。むしろ、それを、「あなたたちは死んだのであり、あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されています」という他の御言葉と比べなさい。この御言葉が、私たちの現在の日毎の経験にあてはまらなければなりません。あるいは、それをローマ五章の尊い御言葉と比べなさい、「豊かな恵みを受ける人々は、一人の人、イエス・キリストを通して(ここで今)命の中で支配します」。勇気を出してこの経験にあずかりなさい!彼の杯から飲み、彼のバプテスマでバプテスマされなさい!地に落ちて死になさい、それはもはや一粒のままではなくなるためです。そして今後は、幸いな絶え間ない交友の中でイエスと共に生きるためです。

もし「忍耐強く耐えるなら、彼の王職にもあずかるようになる」。これは、さらなる麗しさと助けを示しています。「耐える」と訳されている言葉は、へブル十二・一、二で、私たちの主に関して使われている言葉と同じです、「彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架に耐えられました」。時として私たちは戦いの中に投げ込まれて、罪の厳然たる要塞を強襲する一団を率いるようにされます。しかし、それ以上に困難な試練は、なんらかの辛い重荷の下で絶えず忍耐し続けることです。あるいは、長い年月の間、痛ましい十字架に耐えることです。バラクラバ(クリミア戦争中の古戦場として有名、訳注)で六百人がそうしたように、死の谷の中に突撃するのは比較的容易ですが、ワーテルローの激しい戦火の下で一日中立ち続けるのはきわめて困難です。耐えなさい!女よ、酔っ払いの、冷酷な夫に。耐えなさい!少女よ、作業場や工場での、嘲りや冷笑という無情な火に。耐えなさい!私の兄弟よ、仕事の圧迫の重さの下で。たとえそのほとんどが他の人の家族を物乞いから救い出すためのものだとしても。これらのことはみな、忍耐と彼に対する信仰をもって担うなら、救い主の十字架の一部になりうるのです。

しかし、彼の十字架を耐え忍ぶなら、彼が御父と共に御座に着かれたように、私たちは彼と共に彼の御座に着きます。私たちはデボラと共に、「私の魂よ、力強く進め」と叫ぶことができます。忍耐強く耐えてきた魂の中には、忠誠、勝利、豊かな命があります。それがイエス・キリストの王職であり、御座です。主権者たちや権力者たちは、キリストの十字架に支配されるようになった信者によって支配されるようになります。義のために迫害されている人々は幸いです、天の王国は彼らのものだからです。生活の中でひたすら忍耐強く苦しみを耐え忍んでいる人々は、実際には自分の周囲の人々にどれほど影響を与えているのかを、なんと少ししか理解していないことか。だれも彼らに感謝しません。少数の人しか彼らに注意しません。世人は彼らについて決して耳にしません。しかし、御座の生活は彼らのものです。気づかぬうちに、他の人々は彼らによって陶冶されつつあります。無意識のうちに、彼らは他の人々を陶冶しつつあります。話をしたわけでも、言葉を交わしたわけでもありません。彼らの声は聞こえなくても、彼らの生活が家族全体に影響を及ぼし、彼らの言葉は時が終わるまで影響を及ぼします。

私たちが彼を否んだり否定したりするなら、彼は私たちを否まれる」。ペテロは彼を否みました。彼は言いました――「私はその人を知りません」と。私たちが自己の命――彼の敵であり私たちの敵です――に対して維持するよう主が望んでおられる姿勢は次のようなものです、「次にイエスは弟子たちに言われた、わたしについて来たいなら、自分自身を否み、自分の十字架を取ってわたしに従いなさい」。私たちは次の両者の間にあります。自分自身を否んで、キリストに認めていただくか、それとも、自己を王位につけて自己に仕え、キリストがご自身の栄光と御父の栄光と天使たちの栄光の中で来臨される時、キリストによって否まれるか、です。あなたが自己を否むたびに、あなたはキリストを王座につけることになります。あなたがキリストを王座につけるたびに、あなたは自己を否むことになります。キリストに対する「はい」は、自己に対する「いいえ」を意味します。キリストに対して「はい」と言わないかぎり、自己に対して「いいえ」とは決して言えません。告白により、あなたは願いを表明しました、神の御旨において真実であるものを習慣的に経験したいという願いをです。今、聖霊の力の中で、それは事実であると認めなさい。あなたが自分の分け前として選んだものを、神は実際に経験させてくださる、と認めなさい。直接的にどんな訴えがあなたの感覚に対してなされたとしても、そして、それらを通してあなたの自己の命に対してなされたとしても、そう認めなさい。直接的にだれかが、ペテロが私たちの主に対して言ったように、「ご自愛ください、そんなことはあなたに起きません」と言ったとしても、直ちに振り向いて、そのような示唆に対して自分を否み、「退け!十字架につけられた重罪人を誘惑するのをやめなさい!私のこの肉は決して十字架から降りてはならないのです!私はキリストと共に十字架につけられているのです」と言いなさい。これを認めることが、キリストをあるべき地位につけることであり、十字架につけられた方は王であり主であることを認めることです。いつの日か、彼もまた、御父と聖なる天使たちの栄光のただ中で、あなたを認めてくださるでしょう。彼の十字架だけをあがめて、十字架につけられた贖い主を告白することには、今生でも来世でも無限の益があります。

たとえ私たちが不信仰であっても、主イエスはご自身を偽ることはできません。私たちが不信仰になる時もあります。ぼんやりと見える大きな恵みを自分は信じられない、と感じてしまうのです。「それはあまりにも高望みしすぎです」と心の中で思ってしまいます。「神は天からパンを与えてくださる、なんて望みすぎです。神は海を干上がらせ、巨大な川を通り抜ける道を造ってくださる、なんて大それたことを期待する権利はだれにもありません」と心の中で思ってしまいます。私たちはキリストの刺し通された足下に伏して、「主よ、私の信仰は尽きました。私は信じます、不信仰な私を助けてください。あなたご自身の御名のために御業をなしてください」と言います。すると、私たちの主は私たちを諭し始めてくださいます。私たちに教えてくださいます。私たちの救いが始まったのは私たちによってではなく、彼ご自身によってだったことを。彼の恵みが原動力を供給したのであることを。彼は、立ち返れるよう私たちを助けるために、長い道のりを行かれたのであることを。たとえ退却できたとしても、彼にはそうする願いも望みもないことを。これには彼の品性がかかっているのであることを、そして、彼は私たちの事例を、天上の主権者たちや権力者たちを教えるための、一つの見本とすることを切望しておられるのであることを。

以上の示唆はすべて、「彼はご自身を否むことができない」という御言葉の前提に基づきます。彼は決して「然りであり、否である」とは仰せられません。彼の約束はすべて「しかり」であり、「アーメン」です。彼には移り変わりも、回転によって生じる影もありません。私たちには、自分の諸々の罪を取り除いてもらうのは不可能に思われます。それらはあまりにも深く根付いており、あまりにも長い間支配してきました。私たちに対するそれらの支配力を強めるものが、私たちの環境や私たちの遺伝的傾向の中にたくさん見つかります。その力に打ち勝てる、あるいは、アマレクを征服できる、とは思いもよりません。私たちは打ちひしがれ、絶望して地面に横たわります。まるで、カナンの連合軍を前にして、アイの災厄によって落胆したヨシュアのようです。その時、主は言われました、「あなたたちのためにわたしはこれを行うのではない、あなたたちの信仰に応えて行うのでも、あなたたちの祈りのために行うのでもない。わたし自身の栄光がかかっているから行うのだ。わたしはあなたたちを敵の力から救い出し、あなたたちには手ごわすぎる敵の手の下からあなたたちを連れ出す」。その時、私たちは、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となります。十字架は私たちの心の経験の中心です。そして、私たちはこのしるしにより勝利者なのです。