魂か霊か?

F. B. マイヤー

勝利者誌 一九二九年 十巻 十月号 掲載。一九二八年の「勝利者」集会でのメッセージに関する覚え書き。

今日の大きな必要は、教会とクリスチャンは「御霊にある」生活というより高度な水準に経験的に立ち返らなければならないということです。これはとても注意深く教わるべき事柄だと思います。実際、私は自分の後半生を、この一般的主題を絶えず繰り返すことに費やしています。

「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神によって城塞を破壊するほど強力なものです」という使徒の言葉を思い出してください。「肉」という言葉は、肉体とその情欲を意味するものとして用いられることがしばしばありますが、実際には魂の命エゴego)の水準を意味します。ローマ七章はかなり明確な定義を私たちに与えています。それは、自分自身の性質との戦いでパウロが受けた尋常ならざる啓示によってです。彼は、「私の中には、すなわち、私の肉の中には、なんの善も宿っていません」と述べています。あなたと私の中にある「私」、エゴが問題なのです。「flesh(肉)」という綴りから "h"を取り除いて逆から読むと、SELF自己)になります。これはラテン語で肉(flesh)を意味する「肉的(carnal)」という言葉を、使徒がどのように用いているのかを理解する鍵であることがわかると思います。パウロが肉について述べる時、それは必ずしも私たちの性質の嗜好ではなく、エゴ自己の命を意味するのです。

さて、私たち自身の性質の三つの区分を理解しないかぎり、ローマ七章の葛藤を理解することは決してできません。全能の神が一(Unity)にして三(Trinity)であられるように、私たちも一(unity)にして三(trinity)です。パウロはこれを認識しており、一テサロニケ五・二三で「私は祈ります、あなたたちのすべて……」と述べています。

「魂」によって、あなたはいまあるとおりのあなたになります。魂の水準が個性の明確な特徴を決めます。それは良心から始まり、知的目標、想像力、実務能力、天然的愛情を経て広がっていきます――これらすべてにより、あなたは生ける魂となります。あなたの体が形造られた時、神は魂――それはあなたの個性です――を用意して、それを体の中に置かれました。それゆえ、あなたは「生ける魂」であり、あなたのような人はただ一人しかいません。魂が遣わされたのは、あなたの人生の大問題を解くためです。その問題をあなたは一人で解かなければなりません。

魂から二つの「階段」が伸びています。一つの階段によって魂は上に昇って霊の中に入ります。そして、他方の階段によって魂は下に降りて体に至り、過ぎ去り行く物質的世界に触れます。世とその欲の水準か、それとも、御霊――御霊はご自身の霊の力を神から引き出されます――の水準か、どちらの水準に基づいて生きるのか、魂は絶えず選んでいます。あなたも私も、見えない現実と見える非現実との間に置かれています。ほとんどの人は蜃気楼に捕らわれており、その残照のために生きていて、魂の衝動が体を通してこの世へと下っていくがままにしています。しかし私たちは、自分の魂を上なる霊へと向けて、霊で神と交わるよう、教えられてきました。

あなたは自分の魂の水準に基づいて生きているのでしょうか――どうやってこのことやあのことを行うのかを考えつつ、キリストの真似をしようとしているのでしょうか?それとも、キリストの真似をする水準より高く昇って、霊の中にある生活に入ったでしょうか?その生活では、あなたはキリストを吸収して(ヨハネ六・五七)、キリストがあなたを通してご自身を生かし出されます。あなたの家になにか不慮の困難が生じたとしましょう。あなたはそれに対してどのような姿勢を取るのでしょう?他のだれかのもとに駆けつけて相談することや、あるいは、私のような人に助言を求めて手紙を書くことを、多くの人は常としているのではないでしょうか?もしあなたがそうするなら、私にはあなたが魂の水準に基づいて生きていて、神の子供として、世の群衆になんら優るところのないことをしているように思われます。しかし、もしあなたが霊の中に生きているなら、あなたの霊は直ちに神のもとに静かに昇って言います、「父よ、あなたはこれについて熟慮されました。あなたはこれを私の生活に臨ませました――その意義は何でしょう?私はそれから何を学ぶべきでしょう?あなたは私のために何をしようとしておられるのでしょう?」。こうして、あなたの霊は神の永遠の霊に近づき、神は直ちに応えて言われます、「子よ、これが臨むのをわたしが許したのは、あなたが自分自身の活動や人の助けから転じて、わたし自身に向かうようになるためだったのです」。そして、神はそれをあなたのためにすべて片付けてくださり、どう行動するべきかをあなたに示してくださいます。あなたは彼を静かに待ち望み、まさに神の御心を垣間見て、あらゆる理解を超えた神の平安に包まれて、下って行って事に当たることができます。神の平安がどのように臨むのかあなたにはわかりませんが、それは理解力を超えています。あわれんで同情するためにやって来る人々は、「こんなに安息しきっている人は見たことがありません」と言います!「私の魂よ、ただ神を待ち望め(中略)彼こそ、私の岩、私の救い、私のとりで。私はいたく揺り動かされることはない」。静かにして、駆けずり回るのをやめるとき、神がなにかをされるのをあなたは見ます。とても多くの人は、あわただしいせいで、自分の生活から神を締め出しています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことを気遣って、心配しています。しかし、無くてならないのは、ただ一つです……」――それはイエスの足下に座して、絡まった紐を彼にほどいてもらうことです。

また、敵に立ち向かう、近代主義などとの今日の戦いもみな、魂の水準にあります。この戦いについて私はあまり心配していませんが、私は、それについて神に話すことのできる霊の水準に昇りたいのです。あなたはあてもなく議論するかもしれませんが、神の教会がペンテコステの力に立ち返りさえするなら、すべての問題は解決するでしょう。ウェスレーはある人々についてあまり心配しませんでした。彼はよく、「真の宗教を復興しようではありませんか!」と言ったものでした。直接あなたがこの高い霊的水準に触れるなら、近代主義者は「かやの外」です。あなたが神の力を行使する時、近代主義者はあなたがどこにいるのかわかりません。私たちの性質の永遠の泉――神――に触れることによってのみ、あなたは「勝利する」ことができます。近代主義を対処する唯一の方法は、リバイバルの力によって、その上に溢れ流れて圧倒するほどの、神の命の奔流を求めることです。

ああ、「良くなろう」とする内なる戦い!みなさん、私自身それを通りました。しかし、唯一の道は、霊にしたがって、神の御霊と共に歩くことです。一度その水準に達するなら、決して滑り落ちることはない、とは言いません。しかし、それに届いていない時は常にそれがわかる、と私は断言します。そして、あなたは立ち返ります――「彼は私の魂を回復してくださいます」。

さて、ローマ七章で、パウロは自分のエゴと戦っていることがわかります――そして、それを御することができません。彼は言います、「自分の望む善を私は行えません」――彼はさらに続けて、「キリスト・イエスの中」にある者たちは罪に定められることがない、と述べます。肉、エゴにしたがってではなく、霊にしたがって歩く者たちは、自分を罪に定めること、あの恒常的な罪悪感はありません。彼らは、良くなろうと努力することによってではなく、神の霊の促しによって生きます。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。これが信者の真の生活です。

大西洋を渡っている時、私は、船の軌跡の後についてくる海カモメ――素敵な鳥です――を見るのが好きです。重力の法則に身を任せていたら、飛ぶのは不可能だったでしょう。鳥は力なく海に落ちていたでしょう。しかし、鳥の中には命の霊があります。小さな心臓が命で脈打っており、その小さな心臓が羽を動かし続けます。そして、鳥は下に落ちないだけでなく、上に向かって進みます。それで、空中を突き進みます。たんに宙に浮かび続けるだけではありません。鳥の中にある命の霊が、鳥に重力の法則を超越させます。そのように――「キリスト・イエスにある命の霊の法則」は、私たちに罪と死の法則を超越させます。地上におけるキリストの生活は、悪魔に勝ち得て余りがありました。そして、私たちの内にあるキリスト・イエスの命は、今も、サタンに対して勝ち得て余りがあります。ですから、私たちは彼にあって、また彼を通して、「圧倒的な勝利者」なのです。私の生ける救い主の命を、なんとかして自分の内に得られさえすれば、荒野で勝利したあの命、ゲッセマネの園で、そして十字架で勝利したあの命は、下に引っ張る私自身の古い性質、この重力の法則から、私を解放してくれるでしょう。

ですから、私には「命の霊の法則」が必要です。この命の霊はキリストの霊です。しかし、あなたが霊の中に生きていないなら、それはあなたに与えられることはありません。彼は自己の命の中に、あるいは思いの中に臨んだりはされません。しかし、あなたが霊の中を歩み、朝から夜まで神と共にとどまって、なすべき働きのために毎瞬神の御顔を仰ぎ見るなら、聖霊、キリストの霊は、イエスの命をあなたの命の中にもたらして、下に引っ張る心配や騒動、そして、道徳的活動にすぎない一切のものから、あなたを解放してくださいます。

私はあなたにお任せすることにします。それは私自身の生活で最も深遠なものです――すなわち、この絶えざる神との接触、絶えざる神との生活、神の道からどいて彼に働いてもらうことです。これは受動的でなければならないということを意味しません。彼はあなたの協力を必要とされるかもしれません。しかし、神が私たちにあることをするよう告げられる時、彼が私たちに告げておられることが私たちにはわかります。神が私のために事を行ってくださる時もしばしばありますが、そうでない時は、彼はそれらを私を通して行われます。神の全教会が、神との接触により、霊の水準に生きるように導かれさえすれば、彼らの戦いの武器は肉のものではなく、実に「神によって城塞を破壊するほど強力」であることがわかるでしょう。