命を与える霊である第二のアダム

F. B. マイヤー

勝利者誌 一九一一年 三巻 九月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。

一コリント十五章四二~四五を通しで読みましょう、「死者の復活もそのようです。朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活させられます(中略)天然の体でまかれ、霊の体に復活させられます」。「天然の体」という句はギリシャ語では「サイキカルな体(psychical body)」となっており、サイキカル(psychical)という言葉はプシュケ(psuche)、魂に由来します――「サイキカルな、すなわち魂の体でまかれ、霊の――ニューマティカルな(pneumatical)――体によみがえらされます。ここでとても明確な区別がなされています。どうかこれを心に留めてください。それは魂の体でまかれ、霊の体によみがえらされます。「魂の体があるのですから、霊の体もあるのです。最初のアダムは生きた魂となりましたが、最後のアダムは命を与える霊となりました」。

次に使徒は一般的原則を告げます――「霊のものが最初で、次に魂のものが来るのではなく、魂のものが最初で、次に霊のものが来ます」。これはとても重要な問題であり、これについて私はあなたたちに話したいと思います――霊のものが最初で、次に魂のものではなく、魂のものが最初で、次に霊のものなのです。第一の人は地から出て、土に属し、第二の人は天から出ています。

四七節は欽定訳では、「第二の人は天からの主です」となっていることがわかりますが、この訳は支持できません。改訂訳ではより良い訳になっていて、「第二の人は天から出ています」となっています。ですからここに、神の被造物全体を貫く一大原則が示されています。すなわち、天然のもの、もしくは、魂のものが、霊のものに先立つ、という原則です。言い換えると、魂の発達は、そしておそらく宇宙の発達も、螺旋階段状なのです。その大きな特徴は、より高い地点から見た同じ光景に常に出くわすことであり、それゆえ、いっそう高い水準から見た同じ展望、同じ光景に出くわすことです。

自分自身の性質の中には三つの大きな水準があることを、もちろん、私たちは自覚しています。私たちの肉体という物質の水準があり、私たちの個性、私たちの自我というサイキカル(psychical)な、つまり魂の水準があり、神の霊に似ている*霊の水準があります。まさに昔の幕屋や宮が三つの部分――外庭、聖所、シェキナが輝いていた至聖所――から成っていたのと同じです。同じように、あなたの性質はこの同じ原則に基づいて構築されています。物質的性質という外側の部屋があり、サイキカルな性質という内側の部屋があり、シェキナの霊が再生された人の中に住んでおられる中心的な部屋があります。

* 霊なので、ただ「似ている」だけです。人の中に「発達」させられるべき神聖なものがなにかある、ということではありません。そうでなければ「新生」の必要はなかったでしょう。(編者)

そして、これは常に次の順番通りです――最初が魂のもの、天然のもので、次が霊のものです。この分析的話の目的である重大な問題は、自分がどの水準に生きているのかをあなたが知ることです。あなたは、これらの水準の中で最も低い水準である物質的な水準に生きているのでしょうか?それとも、これらの水準の中で二番目の水準であるサイキカルな水準に生きているのでしょうか?それとも、これら三つの中で最高の水準である霊の水準に基づいて生きているのでしょうか?

大いに注目すべきことに、体に五感――視覚や聴覚など――があるように、知性についてもそうであり、霊についてもそうです。神の御言葉に通じているあなたたちなら、「神の御言葉は絶えず、心の目に、異なる事柄を識別する嗅覚に、命のパンに対する霊の味覚等々に言及している」と私が述べても、私を支持してくれるでしょう。そして、「自分はどの受容器官を使っていて、どの影響力に関わっているのか」とすべてのクリスチャンが真剣に自問することがとても重要です。

あなたは、自分の体の欲求や情欲に駆られて、全体の中で最も低い水準に生きているかもしれません。あるいは、自分の魂という低い水準に生きているかもしれません。魂はあなたの自我、あなたの個性の騒々しい活動を中心としています。あるいはあなたは――私はそうであると信じていますが――この螺旋階段の三週目に達していて、人が到達しうる最高の水準に、聖霊によってのみ人に到達可能な水準に基づいて生きているかもしれません。

さて再び、最初が天然のもの、サイキカルなもので、次が霊のものである、という言葉があてはまる別の領域について考えてください。これは自然に言えます。子供だった時、私たちは一種の官能的な愛で自然を愛していました――陽光の感触、丘々の美しさ、夜中に示される天の栄光を愛していました。それは一種の子供じみた驚異であり、肉体器官の驚異であるかもしれません。その後、命が成長するにつれて、私たちは自然を知的観点から見るようになりました。それを化学者、植物学者、宇宙飛行士の観点から見るようになりました。もしかすると、私たちの中には最高の水準に達して、自然は自分にとって神の器官になった人もいるかもしれません。その人にとって自然は、それを通して私たちの霊の偉大な父が私たちと意思疎通を図られるものなのです。

あるいは、聖書からも例を挙げましょう。子供だった時、私たちは素敵な物語を求めて聖書に向かいました。その後少したつと、私たちは魂的に、つまり知的に、聖書に向かうようになりました。その後、偉大な古典を勉強するように、聖書を勉強し始めました。しかし、その後しばらくして、私たちはこの二つの低い領域を放棄して、聖書の霊を吸収し始めました。最初のものは霊ではなく、天然のものでした。その後、霊のものが来たのです。

あるいは、あなたの友人を例に挙げましょう。友情はこの同じ三つの局面を通ります。第一に、私たちは自分の友を知ります。その人が魅力的だからです。少したつと、知的共通点、あるいは魂的共通点――同じ本、同じ音楽を愛していること――に気づきます。その後、私たちの友情はさらに高い立場に、知性や魂の水準に上ります。しかし、しばらくすると、神にある魂の親族関係が明らかになります。今や私たちが愛するのは、身体的・知的・道徳的魅力のためではなく、二人が自分たちはイエス・キリストにあることに気づいたためです。

これは体にも言える、と使徒は述べています。私たちには、魂の欲求に応える現在の命の低次の体があります。しかし疑いなく、この現在の体の背後で、霊の体も形成されつつあります。霊の体は私たちの内なる衣であり、私たちが身に着けている内衣です。そして、いつか、神の高位の天使の呼び声で、この霊の体は私たちの性質の媒体となります。疲れたり、たゆんだり、悲しんだりすることのない、栄化された体です。夜のないその日に、私たちは神を礼拝します。

さて、こうした比喩が真実だとすると、この御言葉の意味がよくわかるようになります。創世記一章で、神が「アダムの中に命の息を息吹き込まれると、彼は生きた魂となった」ことを、もちろんあなたは覚えているでしょう。アダムは神を知っていたことは、きわめて明白です。彼は生きた魂であり、パラダイスの園で神と会いました。そして、夕方の穏やかなそよ風がその地に吹く頃、アダムとエバは神と共に歩み、園の中で神と交わりを持ちました。私たちの宗教もすべて、全くこれと同じような水準で始まる、と私は思っています。それは大部分、魂の活動の結果です。神を畏れなければならない、悪をすべて避けなければならない、神を求めなければならない、と私たちは考えます。そして、私たちの説教の大部分は、兄弟の奉仕者たちよ、魂的な説教です。私たちは天然的に魅力的な説教術から開始します。デモステネス、スポルジョンやビーチャーといった偉大な模範を学びます。自分の説教を、正確さに注意しつつ、考え抜きます。真理を描写して示す方法をなんでもすべて用いて、人が知性でそれを受け入れられるようにします。しかし、しばらくすると、私たちはこの低い水準を離れるのではないでしょうか。

ウェールズの偉大な説教者たちを考えてみてください。彼らの説教は(もちろん、いくつかの例外はありますが)――さしあたって世界中でよく知られているクリスマス・エバンスの説教について考えることにします――絵画的であり、美しいのですが、その中に知的に強力な力があるとは言えません。それらは明らかに神の霊の力の中で告げられました。霊的な発言であり、霊で浸透・飽和されていました。疑いなく、いま私の話を聞いている多くの人々はこうした段階を通ってきました。かつての説教は知力の行使にすぎませんでしたが、あなたが神の御前でひざまずいてひたすら待ち望む時が来ました。それは説教するためではなく、メッセージを受けるためです。知性によって造り上げられた説教と、神の口から発せられたばかりの説教との間のこの違いから、まさに私の述べたいことがわかると思います。

しかし、私は今、特にこう問いたいと思います。あなたの宗教生活は魂的な段階を過ぎたでしょうか?宗教生活が魂的な段階にあっても、アダムがパラダイスの園で神と交わりを持ったように、神と交わることは可能です。このような宗教生活は、正義感や悪に対する恐れ、個人的活動や自分自身の性質の衝動から発します。他方、使徒が明確に「第二のアダムは天からです」と述べていることがわかります(特に、私が示した変更を受け入れてくれるなら、これがよくわかります。疑いなく、これこそもともと使徒の念頭にあったことであり、彼が記したことなのです)。

さて、心して聞いてください、最初のアダム――人は生来このアダムから生じます――は生きた魂であるアダムですが、再生により、新生により、私たちは、命を与える霊とされた最後のアダムであるイエス・キリストと接触を持つようになります――まるで彼は私たちの霊をご自身の素晴らしい性質で浸透してくださったかのようです。それは私たちが、自分自身の活動からなる宗教生活から出て、彼の息吹き込みから、彼ご自身の神聖な存在の衝動から発する生活に入るためです。

ああ!ですから、「第二の人(the second man)!」というこの壮大な句から閃く、素晴らしい意味を見てください。この句はキリストに言及している、とは私は思いません。最後の、第二のアダム(the last, the Second Adam)は確かにキリストであり、彼は死と復活、そして昇天により、またペンテコステにより、命を与える霊となられた、と私は考えています。しかし、この「第二の人(the second man)」は天からの第二の人のように私には思われます――つまり、かつては地の影響と衝動からだったけれども、天の影響と衝動の下にあるようになった私たちの人性のように思われるのです。この第二の人は、地的水準に基づいて自分の仲間たちに近づくだけでなく、神の御顔を仰ぎ見て神の御心の愛情を感じている者として彼らの所に下って行きます。

さて、これがそうだとすると、自分がどこで失敗したのかがわかるのではないでしょうか。あなたが失敗してきたのは、魂の命を生きてきたからです。他方、イエス・キリストはあなたに息吹き込むこと、あなたをご自身の霊で満たすことを願っておられます。その後も、あなたはなおも人であり続けます――というのは、私が宣べ伝えている福音は、私たちの人性のなんらかの特質を根絶するものではないからです――あなたはなおも自分の子供たちと一緒に笑うでしょう。なおも、きわめて陽気な人、夏の遠足向けのきわめて快活な人、ロビンソン・クルーソーが無人島で捕らわれの年月を共に過ごして大いに幸いに思う人のままでしょう。あなたは全く完全に「自然」でしょう。もしあなたに芸術への愛があるなら、それは清められて高尚なものになるでしょう。もしあなたに音楽の才能があるなら、それは確実に強化されるでしょう。もしあなたに知力があるなら、知性よりも偉大な光で輝くようになるでしょう。もしあなたが詩人なら、あなたの詩は一変して詩篇の域にまで高められるでしょう。あなたの天然の命が、その諸々の特性に関するかぎり、現存していますが、その原動力は、もちろん、もはやあなたではありません。それはもはや下からではなく、上からです。あなたはもはや地に属する人ではなく、天に属する人です。そして、あなたは絶えずイエス・キリストから彼の命の強力な力を引き出します。

さて、締めくくるにあたって、先日、大西洋を渡っていた時に示されたことを示すことにします。それは素晴らしい日でした。海は理想的で、空はセルリアンブルーでした。私たちは大洋の中心に向かって進んでおり、私は見事なカモメを見ていました。その大きさは羽の先から先まで五フィートでした。私が特に注目したのは、カモメには移動方法が三つあることでした。カモメをずっと見ていると、それは砂の上を歩いて、その足跡をそこに残します。次に第二に、カモメは泳ぐことができます。あなたたちはみな、とても多くのカモメが波と一緒に浮き沈みするのを見たことがあるでしょう。しかし次に三番目に、カモメは空を飛ぶ力を用いて、目に見えない大気に触れることができます。実に、そのカモメは羽ばたかずに、時速二十マイルで進む私たちの船についてくるほどだったのです。私はそれをこう考えて説明することしかできませんでした。すなわち、重力の下向きの力が、釣り合いを保つ翼の力によって、推進力に変換されたため、鳥を下に引っ張ったであろう力が実際には上に引き上げていたのであり、鳥はこの下降力を推進力に変換する以外になにもする必要がなかったのです。大気に対して羽ばたくことによって、カモメはこの地上の力を支配して、それを推進力に変換していることが、私にはすぐにわかったのです。

私の体は、カモメが砂の上を移動する時のように、下に向かいがちです。また、私の魂の動きは、せいぜいうねる波の上を泳げるだけです。それでも、私が生けるキリストの恵みによって、羽ばたく霊の力を行使する時、私は地に引き寄せる力に打ち勝って高く上げられます。少年の凧に働く力のように、紐の引っ張る力に打ち勝って高く上げられます。そして、霊の世界の目に見えない力に触れることにより、そうでなければ成し得ないことをなせるようになり、障害物を助けに変えられるようになります。

ああ!これは可能です。私の残りの人生の間、私は天からの人でありたいです――このような人、常にこのような人、常に強くて男らしく、常に起きているあらゆることに関心を持つ人でありたいです。自分の周囲を流れている人生の大きな流れから外れることなく、しかし、常に天からの人でありたいです。「から(ex)」という言葉は――「天から出て」を意味します。ああ!あなたと私があらゆる課題に「天から出て!」下って来ることができますように。

ああ、主よ、私たちはこうした事柄について話すだけでありたくありません。どうか、今日からこれらを現実のものとしてください。私たちは地的力に基づいて、地的水準に基づいて、知性の水準に基づいて生きてきました。私たちの中には魂の水準で聖別された人々すらいます。自分の魂によって私たちは、「善くなろう、聖別されよう、御霊に満たされよう」と言ってきました。ああ!救い主よ、この天幕にいるすべての人を天的水準、霊的水準に引き上げてください。それは、私たちを下に引っ張るすべての誘惑、すべての骨折り仕事、たびたび失敗を犯してきたいつもの家庭、いつもの部屋、いつもの学びを、私たちが飛行のための推進力に変換できるようになるためです。ああ!私の神よ、私たち全員を、永遠のキリストの霊の中に浸された人々として、そして、天から出て下って来て世人の必要と悲しみに応じられる人々として、いつもの場所に戻らせてください!