カルバリで裂かれた垂れ幕

F. B. マイヤー

勝利者誌 一九一一年 三巻 十二月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。

あなたたちに一つの節だけ読んで、その中のギリシャ語を強調したいと思います。その節は一テサロニケ五・二三です。人々が祈りの中でこの節をいつも間違って引用することに、私はしばしば注目してきました。それが正しく引用されるのを聞くのは、きわめて、きわめて稀です。「平和の神ご自身が、あなたたちを完全に聖別して、あなたたちの霊と魂と体を全く守って、私たちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださいますように」。

使徒が第一にしているのは、私たちの生活を聖別する神の個人的御業を強調することです。それは「神ご自身」「アウトス(autos)」で始まります。強調点は「彼ご自身」です。神はあなたの生活を聖別する御業を劣った何者にも任されません。それは彼ご自身の個人的責任です。神があなたの人生の中に入って来られました。そして、どんな代価をあなたが払うことになろうとも、神は手掛けた御業を決して放棄せず、ついにはそれを完遂されます。神があなたの人生の中に入って来られました。そして、気をつけてください、もしあなたが神に服さなければ、あなたは自分の家庭か自分の環境のいずれかの中で苦しむ羽目になります。あなたを良い人にするために、神はどんな苦労も厭われません。神がそれを容易に行えるようにしないなら、あなたは厳しい苦難に遭うことになります。もし神の銀のナイフでそうしてもらうなら、あなたは鉄の剪定ナイフから救われます。しかし、神はあなたを御子に似た者にすることに取り組んでおられ、あなたは干渉することも、神と戯れることもできません。

あなたはこの大会にやって来て、「自分は良くなります」と言いました。神はあなたがそう言うのを聞かれました。彼はあなたを良い者にしようとされます。火か、洪水か、陽光かによってです。それでも、御声はか細いです。人が「どんな代価を払っても良くなりたいです」と神に言うことは、とても厳粛なことです。神は直ちに取りかかられます。そして、あなたがその後、明らかに後退し、自分の誓いを忘れたり無視したりしたとしても、神はそれを決して忘れません。あなたの人生の環境はすべてあの瞬間を巡っており、あなたは正さなければならなくなります。そして、禁じられた道に沿って進んだ歩みを一歩一歩引き返して、血と涙の苦しみを通って元の道に戻らなければならなくなります。しかし「神ご自身」――神自らが、救い主を通して御霊により、魂を聖別されます。

また、彼は「平和の神」です――「平和の神ご自身!」。つまり、彼はあなたをご自身や宇宙と調和させることを願っておられます。宇宙には様々な中心があることがわかります。神という中心があり、悪霊という中心があります。もし悪と調和しているなら、あなたは神と調和していません。もし神と調和しているなら、あなたは宇宙と調和しており、至る所にいる聖者たちと調和しており、摂理の偉大な活動と調和しています。あなたは重要なすべてのものと調和していますが、この世とは調和していません。神と調和し、しかも、この世と調和することは不可能です。神と調和して、したがって、他方と調和しないでいるかどうか、あなたは選ばなければなりません。彼は平和の神です――もし神と調和しているなら、あなたは神から発する平和を世界中で得ます。そして、外側には嵐があるかもしれませんが、内側には無限の平和、永遠の静けさがあります。

あなたたちを聖くし」――これについては長々と述べる必要はありません。それは、「あなたたちを触れたり侵犯したりしてはならない聖なるものとして分離すること」を意味します。それはいかなる悪も触れてはならないものです。それは神のものです。神はあなたたちを分離しなければなりません。イスラエルが諸国民の間から分離されたように、安息日が週日の中から分離されたように、祭司たちが奉仕するレビ人たちの間から分離されたようにです。魂は神のために、全く神の御用のために、そしてまた神の享受のために分離されなければなりません。なぜなら、神は渇いており、愛を必要とし、魂からの応答を願っており、あなたからのなにかを欲しておられるからです。あなたは神からすべてを得たいと言ってばかりいますが、もしかすると、神はあなたになにかを与えることだけでなく、あなたからなにかを与えてもらうことを、大いに切望しておられるのかもしれません。彼は渇いておられます。「彼ご自身」、宇宙の中心である神が、「あなたたちを分離」されます。

次の「完全に」という言葉はとても重要です。それは全体を意味する「ホロス(holos)」と最後を意味する「テロス(telos)」の合成語です。これを「徹底的に」と訳せるでしょう。神はあなたをご自身のために徹底的に分離することを願っておられます。神はあなたを悪の爆薬から分離することを願っておられます。それは、神があなたと共に歩めない道があなたの生活の中から全くなくなるためであり、あなたの性質のすべての部分が彼に対して開かれて、暗い部分がなくなるためです。暗闇はものではなく、光の不在ですから、神が輝いておられる心の中に暗闇はありません。

そしてどうかあなたたちの全嗣業を」。欽定訳で「全」と訳されているこの言葉は、確かな嗣業全体を意味します。つまり、使徒はあなたの性質を地所と見なしており、イエス・キリストによって買い取られた地所全体、嗣業全体、あなたの性質が有するすべてのものを、イエス・キリストが相続することを願っているのです。次に、彼はこの嗣業をすべて列挙していきます。それは三つの部分から成ります。地所と同じように、地面があり、そこに木や山や湖があって庭になっています。次に、その下には貴金属があるかもしれません。さらにその下には石炭や鉄の層があるかもしれません。それと同じように、あなたの嗣業は三つの部分から成っています――体があり、体の下に魂があり、そして霊があります。そして、このような仕方でこの御言葉は通常引用されます。ここに示されているように引用されることはきわめて稀です。人々はほとんどいつも、、魂、霊と言います。しかし、全くそのような順番ではありません。神は「霊、魂、体」と仰せられます。あなたも私も、神の順序を受け入れないかぎり、決して正常にはなれません。

少しの間、この板は昔の幕屋の外庭を表すとしましょう。そして、その上に置かれている、新約聖書付きのこの開かれた聖書を、外庭の内側の幕屋・宮を表すとしましょう。さて、私の手があるこの場所に人が入る道は、この門を通って外庭に入ることであり、そこには大きな祭壇と洗盤などがあります。大祭司は外庭を通って聖所に入り、そしてまた至聖所の中に入ります。しかし、神はこれをそのようにはされませんでした。ここに至聖所があり、ここに聖所があり、そしてここに外庭があります――至聖所は私たちの霊であり、聖所は私たちの魂であり、外庭は私たちの体です。至聖所、聖所、外庭――霊、魂、体です。

幕屋や宮が最初に建てられた時、至聖所は暗闇でした。すべての男女には体があり、魂があり、霊的能力があります。しかし、私たちが再生される前、霊は暗い部屋のようです。再生されていない人にも霊的能力がありますが、それでも活気づける神の霊に欠けています。それは暗い部屋であり、神に対して死んでいます。しかし、この幕屋が立てられた時、シェキナが臨んだのは外庭を通る道によってではなく、至聖所を通る道によってだったことを、あなたは覚えているでしょう。そして、それは私の手がある契約の箱の上で輝いたのです。シェキナ、神の光が至聖所を満たし、垂れ幕を貫いて輝き、聖所に押し寄せたため、祭司はそこで奉仕できないほどでした。それは全き栄光の流れとなって注ぎ出たので、ついにはその場所全体が太陽の輝きよりも明るく照らされたのです。

さて、再生の意味はこうです。人が再生される時、暗い霊は聖霊の来臨によって明るく照らされ、その人の内にその人のものではなくイエス・キリストのものである命が生まれるのです。これをキリストはご自身の死と復活によって成就してくださいました。キリストの命は複合的な命であり、人性に偉大なあるものが加えられたものです。それは、世界が造られる前に彼が御父と共に持っておられた神性です。人が再生されると直ちに、聖霊は永遠のキリストの命を与えてくださいます。それは神性に誘惑の経験を加え、ゲッセマネの経験を加え、カルバリの勝利を加え、開かれた墓を加え、昇天の栄光を加えたものです。そして、これがみなこの一つの命の胚芽の中にあって、神の霊によって人の霊に伝達され、キリストがその人の中に形造られます。その後、内住するこの光の力がその人の魂の中に射し込むため、その人は新たな明確さをもって考え始めるようになり、以前は持っていなかった道徳的理解力を持つようになります。つまり、その人の良心は御霊の力をもって照らされ、魂――聖所――を通して、体全体――外庭――を支配されるようになります。

再生とは神の霊が人の霊の中に住まわれることであることがわかります。御霊は私たちの霊と共に証ししてくださいます。つまり、あなたの霊は、言わば吸収されるわけではありませんし、消滅するわけでもありません。あなたの霊は神の霊との能動的協力に召されます。私は今、私の霊は神の霊に服していると思っています。しかし、私の霊が神の霊と共に働く時が来ようとしていると思います。私は自動機械であってはなりません。霊の中におられる神の霊の動きと協力・調和しなければなりません。次に、それは魂を通して流れて、体を支配します。おそらく、これが健康の秘訣だと思います。霊的癒しについて述べるべきことがたくさんあることはわかっていますが、それはみなこの道筋によります。内なる満たしを得ずに、癒しを得ることは不可能です。これを得るとき、他方が大いにそれに続きます。しかし、私はこれについて述べることはできません。

要点は、クリスチャン経験には三つの段階がある、ということです。再生されていない人――魂と体である人――という第一の段階があります。この人は霊的能力を持っていますが、その霊は神の霊を植え付けられたことがありません。次に、第二段階が来ます。この段階では、あなたにはまた体と魂がありますが、今や神の霊があなたの霊の中でシェキナのように輝いています。これが再生されている人です。しかしこの段階では、重たい垂れ幕が至聖所と聖所との間に依然としてかかっているおそれがあります。この垂れ幕はとても重たいため、人は再生されているかもしれませんが――魂の命は霊の命から独立しています。

しかし、イエスが死なれた時、宮の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂かれました。そして、瀕死のキリストと一体化されたことをあなたが理解した時、あなたの垂れ幕は上から下まで裂かれました。垂れ幕が死ぬ行為によって、つまり、彼の死におけるキリストとの一体化によって裂かれる時、それが上から下まで裂かれる時、そのときはじめて、そのあいだずっと霊の中におられた神の霊は魂の感情中に輝き渡る機会を得、究極的に生活を通して輝かれます。このような大会での私たちの責務は、カルバリを提示して、垂れ幕が裂かれるようにすることです。というのは、垂れ幕を神の御手で裂いてもらう必要のある人が大勢いるからです。魂は自分自身の垂れ幕を裂くことはできません。神が見えない御手でそれを裂かなければなりません。そして、それが裂かれる時、あとのことはすべてそれに続きます。霊が聖霊と協力するのと同じように――さもないと私たちの霊的筋肉は衰えます――魂は真理の霊の照らす力の下で真理を求めて神と共に働きます。それでも、あなたは自動機械になるわけではありません。あなたの知性は神と共に働いて、聖書を調べ、御霊は聖書を通して輝かれます。体に関しても、体は常に従順に協力しなければなりません。それゆえ使徒は述べています、「私は神に祈ります。あなたたちの霊、魂、体が、責められるところのないよう守られますように」。つまり、人の全存在が、イエス・キリストに嗣いでいただく嗣業とならなければならないのです。

「ああ!神の霊よ、あなたが私たちの霊の中におられることを、私たちはあなたに感謝します。ああ、どうか、続く数時間の間、あなたの見えない強力な御手で、垂れ幕を上から下まで裂いてください。そして、御霊によって内住しておられるイエスの光で、私たちの徳性、知性、歌う力、話す力、私たちを人たらしめるものすべてを覆ってください。私たちの個性を保ちつつ、しかし、暗いところが全くない変容させる光をもって、それを全く照らしてください。」