勝利者誌 一九一一年 三巻 一月号 掲載。
「十字架の言葉は神の力だからです。」――一コリント一・十八。
ここで使われている「力」という言葉は積極的です。科学の概念の中には、潜在的力、余力、不活発な力といったものがあります。ここで述べられている力は活動中の力のことです。それは活動中の神聖な力であり、神聖であるので、このうえなく偉大である必要があります。聖書はそれを描写することにほぼ費やされています。それは輝かしく、力強い、優れた、至高の、偉大な、隠れた、威光ある、勝利の、効果的な、最高の、創造的な、永遠の、卓越したものです。ですから、「十字架の言葉は神の力・エネルギーです」と言うことは、十字架は霊の世界のすべての力の中心を占めていることを肯定することです。これを短く見ることにしましょう。
1.十字架は死を征服する命のエネルギーである
肉体に臨む死については、十字架はこの形の死と大いに関係していますが、ここでは主な話題として取り上げることはしません。それは最後の敵であり、そのようなものとして、それは最後に滅ぼされるべきものです――神に感謝します。しかし、誰が私たちのために魂の死について説明してくれるのでしょう?誰が私たちのために、「体を殺すことができるだけで、その後は何もできない者を恐れてはなりません。むしろ、体と魂の両方を地獄に投げ込むことのできる方を恐れなさい。そうです、わたしはあなたたちに言います、この方を恐れなさい」という私たちの主の御言葉を解き明かしてくれるのでしょう?肉体の死を前にするとき、美は衰え、力は失せ、健康は逃げ去り、王冠は落ち、王笏は折れます。肉体の死は賄賂を受け取らず、涙を気にとめず、苦しみを容赦しないで、人の虚飾と驕りをすべて打ち破ります。そうだとすると、霊的死はどうなるのでしょう?現代文明のあらゆる手段、薬、手術、公衆衛生、食品・薬・大気・水・光・熱等の性質に関する科学的研究が、肉体の死に対する恐れの産物であり、そして、解決法を見いだそうとする人々の熱心さの大きさを表しているとするなら、魂とその死についてはどうでしょう?この死に対して戦うべきではないでしょうか?人々は肉体の死に対する戦いに力と時間をすべて費やせばいいのであって、魂の死に注意を払う必要は全くないのでしょうか?人の性質と運命に永遠の問題がかかっているのではないでしょうか?肉体と同じように魂にも命がけの問題があるとするなら、どうやってそれらの問題を私たちは解決すればいいのでしょう?死が一時的勝利者であるだけでなく、永遠の勝利者にならなければならないのでしょうか?そのような考えにはぞっとしますし、福音がなければ耐えられません。しかし、福音があるのです。神からの「良い知らせ」は、肉体と魂に対する死はすでに戦いで征服されている、というものです。肉体に対しては、死からの復活があります。魂に対しては、永遠の命があります。では、この勝利者とは誰でしょう?主イエス・キリストです。どうやって彼は勝利されたのでしょう?十字架によってです。しかし、主イエス・キリストは何者でしょう?聞いてください!「この方は見えない神のかたちであり、全被造物の中で最初に生まれた方です。なぜなら彼によって万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も、主権も、支配も、権威も、創造されたからです。万物は彼によって、彼のために創造されました。また、彼は万物より先に存在し、彼によって万物は成り立っています。そして彼は、教会であるからだのかしらです。彼は始めであり、死者の中から最初に生まれた方です。それは万物の中で彼が第一位となるためです。第一に御父は、彼の中に全豊満を住まわせることを喜ばれました」。これは圧倒的な御方ではないでしょうか?被造物の仲保者であり、この方にあって万物はまとまっています。この方がおられなければ、どんな被造物も存在できません。この方の他に、宇宙には何の意味もありません。なぜなら、宇宙は隅々まで永遠に、彼によって、彼のために管理されているからです。しかし、なぜこれについて考えるのでしょう?宇宙のこの全能の創造者は、私たちのために死に対して戦って、勝利されたからです。もう一度聞いてください!「この方の中で私たちは贖い――罪の赦しをも得ています」。「彼の十字架の血を通して平和を造り、彼によって万物を、地にあるものも天にあるものもご自身に和解させてくださいました」。贖い、赦し、平和、和解、誰を通してでしょう?宇宙の創造者、命――すべての命――の源であり中心である方を通してです。そうです!ただ、十字架上ですべての人のために死に遭ってそれを味わわれた方を通してです。だれでも彼に信仰によって触れるなら、神格に固有の神聖な創造的力がその人の中で命に向かって働き始めます。その人に対する「十字架の言葉」は、「神は私たちに永遠の命を与えてくださいました。この命は御子の中にあります」です。私たちの心の中に十字架を通して流れ込む、無限の神の命のこの強力な力に、私たちは注意を集中しなければなりません。十字架でのみ、私たちは神の命の中へと高く上げられて、永遠の子たる身分を確立してもらえます。ただそこでのみ、次のさいわいな発見をすることができます。すなわち、このあわれな死で打ちひしがれた世界の遥か上には、彼の王国が広がっているのです。彼を信じるすべての人に対する彼の究極的言葉は、「恐れてはならない。わたしは最初の者であり最後の者である。死んだが生きている者である。見よ、わたしは永遠に生きている、アーメン。そして、ハデスと死の鍵を持っている」です。
2.十字架は敵意を征服する愛のエネルギーである
「神は愛です」は、今日の説教者にとって、ごくありふれた主題です。それでも、この言葉は人によって異なる受け取られ方をします。ある人はその説教者に、「神は愛であることを、どうやってあなたは知ったのですか?」と質問するかもしれません。「彼が愛であることを私が知っているのは、彼が私の魂を生かして新しくしてくださったからです」と言えば十分なのでしょうか。質問者がこう言ったとしましょう、「たしかに。でも、彼は私を生かして新しくしてくださいませんでした。彼が私を愛しているなんてことはありえません」。次はどうしましょう?もちろん、救いの経験からの答えには、ある特定の状況下では、それなりの価値がありますが、すべての人に応じられるほど一般的ではありません。「神は愛である」ことを示す、公の、永続する、恒久的証拠が必要ですが、それは十字架をおいて他に見つかりません。神ご自身が肉身を取り、私たちの性質をまとい、私たちの生活を送り、私たちの誘惑を共有し、私たちの悲しみを悲しみ、私たちの死を遂げ、これをすべて行うことによって、私たちの罪過を償い、私たちの諸々の罪を贖ってくださった時、その時、私たちは彼の愛を示す、積極的な、永久の、公の証拠を得たのです。十字架の死に直面するとき、地獄の憎しみは地獄さながらです。地獄的です。あのように神を憎めたのは、ただ悪魔だけでした。罪によって悪魔的になる程度に応じてしか、人々は実際に神を憎むことはできません。罪深い堕落した人々でも、ひとたび十字架が自分に対して明らかにされるとき、神の寛大な恵み深いあわれみに応答して憎しみが生じます。ここで、神の愛は、人が心に抱くこの敵意を征服する働きを開始します。それは神の愛のエネルギーであり、天然の人の敵意に対抗して働きます。しかし、愛のエネルギーなるものがあるのでしょうか?強制はありませんし、気乗りしない人々の上に神の権威を強いる燃える裁きの剣もありません。神は人々にご自身の心の中を見せてくださいます。惨めさ、不安、恐れ、罪の中にある私たちに対して、どれほど同情しているのか、神は告げてくださいます。神は私たちに対してどれほど大きな望みを持っているのか、そして、どれほど強く――死に至るまで――私たちを愛し、慕い求めて、私たちを救うために計画を立てて働いているのか、私たちに教えてくださいます。これが敵意を打ち破る愛です。これは信頼に値しうる愛です。遥か十字架にまで至る、疑問の余地のない愛です。ですから、教会が人々のために配慮すべきは、彼らに明確に十字架を理解させることです。十字架は教義、標語、象徴、観念、秘跡ではありません。それはひとりのパースン――キリストにある生ける神であるパースン――の啓示です。それは神の至高の自己顕現であり、これを知っている教会は、「わたしは、地から上げられるなら、すべての人をわたしに引き寄せます」というキリストご自身の御言葉は常に成就されるという確信をもって、十字架を宣べ伝えます。
3.十字架は暗闇に打ち勝つ光のエネルギーである
「神は命です」「神は愛です」「神は光です」。これが、その中で神が人々に啓示される三つの偉大な面・属性です。しかし、十字架は神の至高の自己顕現なので、続いて、十字架によってこの三つの属性を明確に啓示してもらう必要があります。すでに見ましたが、神の命と愛は人の魂を十字架を通して力づけます。今、神の光が同じ目的のために暗闇を征服することによって働くのを見ることにしましょう。私たちの魂が必要とするなんと多くの点に十字架が応じてくれるのかは、驚くばかりです。今日、科学は、光にできる偉大なことを、私たちに雄弁に教えてくれます。光は視覚を拡大して強化することができます。夢にも思わなかった力を示すことができます。大きさや自由に関する私たちの観念を拡張することができます。治療と健康という心地よい領域に私たちを連れて行くことができます。病を追い払うことができます。人々の心を新たな希望と喜びの洪水で満たすことができます。新たな思想と経験の世界を開くことができます。なだめ、刺激し、探り、救うことができます。だれもこれまで光を定義してきませんでしたが、光は絶えず同じまま存在します。それは途方もない、現存する、実際的力であり、すべての人がそれを自分自身で見て、知って、感じることができます。これは今日の科学の福音であり、だれも異議を唱えられません。それでも、これはみな、私たちの主イエス・キリストのより高度な光の福音のたとえでなくて何だというのでしょう?彼は「義の太陽」です。天の太陽がその物理的な熱と光を与えるのと同じくらい惜しみなく、ご自身の霊の光をすべての人に与えてくださる「世の光」です。「わたしを信じる者は」と私たちに主は仰せられます。「暗闇の中を歩くことがなく、命の光を持ちます」。彼を措いて他に、人々の魂のための真の光はありません。「毎日起きる時」と故アール・ケアンズは言いました。「神が私を愛して顧みてくださっているという甘い感覚を感じます。神はキリストのゆえに私のすべての罪を赦してくださいました。私は不安を抱くことなく、将来を楽しみにしています(中略)もしこれがすべて私の幻想であると私に確信させることができたとしたら……真っ暗闇だったでしょう」。たしかに、まことに「真っ暗闇」です!感知可能な暗闇です。幽閉と死を意味する北極圏の暗闇です。シムーンに先立つ暗闇であり、その時、どこに雷が当たるか、つむじ風が滅びの知らせを舞い込ませるかわかりません。この厚い暗闇の中に、神はキリストにあって最初に入られました。哲学、文化、文明、芸術、文芸、詩が、総力を挙げてこの暗闇を照らそうとしましたが、失敗しました。この世にあった光もまた、それ自体暗闇でした。そして、暗闇は前にもまして濃くなっていきました。しかし、キリストが来られた時、すべてが変わりました。そして、心の底から実際に人は「暗闇は過ぎ去って、今やまことの光が輝いています」と言えるようになりました――「この光はますます輝いて真昼に至ります」。今日、霊の光が世界にあるとするなら、それはすべて、その源であり力であるキリストの中にしかありません。彼が罪深い魂の中に入られる瞬間、暗闇は逃げ去ります。「あなたたちはかつては暗闇でした」と使徒は彼の回心者たちに言いました。「しかし、今や、あなたたちは主にあって光です」。「主にあって!」。どのような主でしょう?神の小羊、贖い主です。この方の十字架によって、罪深い人は罪と地獄のひどい暗闇から引き上げられて、永遠の日の中に入れられました。「さて、私たちが彼から聞いて、あなたたちに伝える知らせはこれです。すなわち、神は光であって、彼の中には全く暗闇がありません」。「彼が光の中におられるように、私たちが光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを清めます」。