Ⅱ.自分を否んで十字架を負う

アンドリュー・マーレー

「だれでもわたしに従いたい者は、自分自身を否み、日ごとに自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。
だれでも自分の命を救おうとする者はそれを失い、
だれでもわたしのために自分の命を失う者はそれを救うからです。」(ルカ九・二三、二四)

私たちは前の黙想で、弟子が十字架を負うこととキリストに従うこととの間には、なんと深く緊密な関係があるのかを見ました。ここではさらなる思想が示唆されています。「自分を否み、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」。十字架を負うことと従うことの最も深い本質がここで明かされています。クリスチャンがキリストに従おうと熱心に努力し、ある程度自分の十字架を負っている時でも、隠れた力があって抵抗し、反対し、妨げます。願い、意志、心を尽くして完全に従うことを祈り、誓い、そのために奮闘しているように見えても、その人の最も内なる自己は主が召しておられる十字架を拒んでいるのです。自己は人の存在の真の中心であり、統制する力であり、十字架を受け入れることを拒みます。十字架を負うことについて二度目に語られた時、キリストがペテロと私たちに教えてくださったように、自己を全く否むところから始めなければならないのです。

十字架は死を意味する

十字架を負うことは死の受容、死への降伏を意味します。自己は人の内なる実際的命であり、死ななければなりません。これから始めないかぎり、十字架を負うことにも、イエスに従うことにも、絶えず失敗するでしょう。自己を否み、自分の十字架を負いなさい。自分の命を失う者はそれを見いだします。

自分の命を憎み、失うよう、キリストは私を召しておられます。人生にしかるべき価値を与えるもの、私自身のしかるべき人格を否むよう――私自身を否むよう、キリストは私を召しておられます。ではどうして、この命をまず十字架の下に置き、それから十字架につけなければならないのでしょう?どうして、彼が私のために十字架上で死なれ、私のために命を勝ち取ってくださったのに、なおも私は死に、自分自身を否み、日ごとに自分の十字架を負わなければならないのでしょう?

なぜ十字架なのか?

その答えは単純ですが、それでも理解するのは容易ではありません。理解できなくてもイエスに従うことに同意する人に対してのみ、真の霊的答えが開かれます。アダムの罪を通して、人の命は高い状態から落ちてしまいました。堕落の前、人は神が御力と祝福とをその中に働かせるための器でした。しかし、人はこの世の力の下に陥ってしまいました。この世では、この世の神が統治支配します。そのため、人は奇妙で不自然なこの世の命に取り憑かれた被造物になってしまいました。神の御旨、天、聖潔のために人は創造されたのに、それらは人に対して暗くなり、失われました。肉の快楽、この世の快楽、自己の快楽はみな、悪霊の暗闇の呪われた働きであるにもかかわらず、自然で魅力的なものになりました。それらがいかに罪深く、惨めで、致命的か、人には見えず、わかりません――それらは神から離れており、みなそれ自身の内に地獄の種を宿しています。そして、この自己、この人の命の根幹を、人は大いに愛していますが、自己は神からではなく悪しき者から出たすべてのものの集合体にほかなりません。自己には天然的な美点や見かけ上よく見えるものがたくさんありますが、自己の力や高ぶりはすべてを堕落させ、自己をまさに罪、死、地獄の座とします。

ひとたび、人が自己を完全に否むこの生活に同意するとき、

十字架を歓迎し

愛するようになります。十字架は神に定められた力であり、私たちを悪の力から解放します。私たちが神の御子のかたちに同形化される上で悪の力は唯一の妨げですが、私たちはこの悪の力から解放されて、御子と同じように御父を愛し、御父に仕えます。自己を否むことは内なる精神であり、十字架を負うことはその現れです。

「自分自身を否み、日ごとに十字架を負い、わたしに従いなさい」。自己を否む意義を洞察するとき、なぜ日ごとに十字架を負わなければならないのかが明らかになります。それを要請するのは特別な試練や苦難だけではありません。平穏で繁栄している時でも、その必要性は依然としてさらに切迫しています。自己は常に身近な敵であり、常にその力を取り戻そうと狙っています。パウロは第三の天から下って来た時、高ぶる危険性がありました。自己を否んで十字架を負うことは、日々の心がけでなければなりません。パウロは「私はキリストと共に十字架につけられました」「私には十字架以外に誇ることがあってはなりません。この十字架によって私はこの世に対して十字架につけられたのです」と述べていますが、彼は自分自身のことを十字架につけられた命を毎瞬生きている者として述べています。

あなたは十字架を持つ手の図案を見たことがあるかもしれません。それには Teneto et Tenem という標語が書いてあります。この標語の意味は、「私は担い、担われる」です。もっと砕けた言い方をすると、「私は担ぎ、担がれる」です。キリストの十字架の前に語られた御言葉――「あなたの十字架を負って」――はよく知られており、前者の思想を表しています。あなたの十字架を受け入れ、それを担いなさい。十字架につけられた方が栄光を受けて私たちの命として啓示された後に、聖霊によって与えられた御言葉――「キリストと共に十字架につけられました」――は、どちらかというと後者の面を示しています。彼の十字架、十字架につけられた方があなたを担ってくださると信じなさい。この御業が成就される前は、「あなたの十字架を負いなさい」だけでした。今、成就された御業が啓示され、「私はキリストと共に十字架につけられました。私は十字架を担い、十字架は私を担います」に昇華されます。「私はキリストと共に十字架につけられました。キリストが私の内に生きておられます」。十字架の担う力によってのみ、私たちは十字架を担えるのです。

あなたの十字架を負いなさい

そうです、彼に従うために満たすべき条件として最初に述べられたことが、その幸いな成果となります。「わたしに従いなさい」という召しを聞く時、「それは自分にとって何を意味するのだろう」と私たちはもっぱら考えがちです。そうするのは必要なことです。しかし、それは最も重要な問題ではありません。信頼に足る指導者は、道中全責任を負い、すべての必要を備えてくれます。自己を否んで日ごとに十字架を負うことについて考える時、「自分はその意義をなんとわずかしか知らないのだろう、自分の知っていることをなんとわずかしか実行できないのだろう」と私たちは感じます。私たちは、十字架を負って従うよう私たちを召しておられるイエスに堅く心を傾ける必要があります。カルバリで彼はこの道を先立って行かれ、私たちのために道を拓いてくださいました。この道は神の御力の御座にまで至る道です。私たちの心を堅く彼に傾けましょう。彼は弟子たちを導かれたように、私たちをも導いてくださいます。十字架は奥義です。十字架を負うことは深遠な奥義です。キリストと共に十字架につけられることは贖いの最も深遠な奥義です。神の隠された智恵は奥義です。キリストに従いたいという真実な願いをもって彼に従いましょう。そして、彼のように御父の栄光のために生き、彼と共に死を通り抜けて、私たちの指導者である彼と共に充ち満ちた命に至りましょう。