Ⅲ.十字架は神への道

アンドリュー・マーレー

「キリストも罪のためにひとたび苦しまれました。
義なる方が不義な者たちのために苦しまれたのです。
それは彼が私たちを神にもたらすためでした。」(一ペテロ三・一八)

十字架は罪を示します。神に対する憎悪としての罪を完全に認め、罪の邪悪さの責任を負わない限り、人は神のもとに来ることはできません。十字架は呪いを示します。罪に対する神の裁きを示します。この裁きを正しいものとして受け入れ、認めない限り、人は神の臨在に回復される術はありません。十字架は苦難を示します。苦難の中で神の御旨を受け入れ、すべてを明け渡すとき初めて、神に結ばれることができるようになります。十字架を死を示します。人が今の命をきっぱりと完全に手放し、それに対して死ぬ覚悟ができたとき初めて、人は神の命と栄光の中に入れるようになり、神に完全に受け入れてもらえるようになります。これをすべてキリストは行われました。彼の全生涯は十字架の霊がその原動力でした。

彼が十字架を負って、神の聖なる臨在の中に入られたことにより、一つの道が開かれました。この道によって私たちも近づくことができます。彼が罪に対する神の裁きを負って死なれたことにより、罪は除き去られました。彼は罪の終わりとなられました。罪定めと呪いと死を負って、彼は罪を運び去られました。彼は死の力を持つ者の力を無効にして滅ぼし、その囚人だった私たちを解放して下さいました。キリストの十字架と血と死は罪人に対する神の保証です。この救い主を受け入れて自分を委ねる人はみな、ただちに無罪放免され、永遠に神の好意と友好を受けることができます。神の律法が私たちに突きつけていた要求、罪とサタンが私たちの上に有していた力、すべては終わります。イエスの死は罪と死の死でした。十字架の道はキリストが私たちのために開いて下さった道です。この道により、私たちは神に近づく完全な自由と力を持ちます。

十字架は人が神のみもとに行く唯一の道です。この道をキリスト御自身も歩んで、この道を私たちのために開いて下さいました。この道を私たちも歩みます。私たちが他の人たちを導くことができるのはこの道しかありません。

十字架の道

十字架の道は、イエスが人として個人的に全生涯を通して歩まれた道でした。彼は私たちの先駆者として、私たちのために中に入って神の御前に現れることができます。「彼は苦難を通して完成されたので、彼に従うすべての者たちに対して永遠の救いの創始者となられました」。イエス御自身にとって、十字架は神への道でした。

死による以外に、完全に命を明け渡す以外に、キリストが神に至る道はありませんでした。それならなおさら、罪人が神のみもとに来て神の命で満たされる道は、これしかないにちがいありません。そして今やキリストの死は成就された事実なので、私たちが彼にあって受ける死と命は、私たちの内に働くそのような完全な明け渡しの力となって、あの幸いな内住に至ります。この信仰により人は喜びをもって、「私はキリストと共に十字架につけられました。私は十字架を誇ります。十字架によって私はこの世に対して十字架につけられました」と言うことができます。この十字架の霊はこの世に反対し、この世から分離します。また、自己を喜ばせるものをすべて放棄させ、死に至るまでも神に対して絶対的に従順にならせます。この十字架の霊が全生涯と歩みを特徴付けます。日ごとに十字架を負い、それを誇るとき、十字架はまさに神への道になります。

祝福への道

この道で私たちは勝利を得、他の人々を祝福することができます。キリストは人々のために御自身の命を与え、十字架に付けられることにより、人々を祝福する力を勝ち取られました。ペテロが第一の手紙で述べているように、彼は栄光への道であるキリストの苦難を完全に受け入れることにより、主のために証しする大胆さで満たされました。パウロは彼の主の苦難に完全にあずかることを熱烈に願いましたが、この情熱が彼に使徒としての力を与えました。教会が自分自身を神にささげ、人々のための犠牲としてささげる時、その程度に応じて神の御霊の力は教会を通して働きます。十字架につけられたキリストが人々を救って下さいます。十字架につけられたキリスト、私たちの中で生きて呼吸している方は、私たちを救いの御業のために用いることができますし、用いて下さるでしょう。そして、彼が私たちの中で生きて働かれるということは、まさに次のことを意味します。すなわち、私たちも彼のように他の人々のために自分の命を与える覚悟がある、ということです。これが意味するのは――自分自身を忘れ、自分自身を犠牲にし、失われた人を勝ち取るためにすべてを耐え忍ぶということです。

死から出た命

最初、キリストと共に十字架につけられてその死を身に負うという真理の中に魂が入る時、もっぱら考えるのは個人的な聖別です。罪に対する死、この世に対する死、自己に対する死を、命の道、魂に対する祝福と見なします。しかし、このような願いは魂をキリストへの信頼に真に導くことはできません。キリストの中でのみ、死と死から出た命とを知ることができ、見いだすことができます。キリストと接触しない限り、秘訣は開かれません。その秘訣とは、御父に対する彼の従順と罪に対する彼の勝利はみな、個人的な栄光のためではなく、彼の周りにいる人々の救いのためだったということです。他の人々のために喜んで働き、自分の命を与えようとする人でなければ、十字架の道を歩めないのです。これを信者は学びます。他方、他の人々を祝福するための唯一の真の力は、この世と自己に対する死である十字架が私たちの日々の生活の法則となる時に与えられます。

十字架は神に至るキリストの道でした――彼御自身にとってそうであり、私たちにとってもそうです。十字架は神に至る私たちの道です――私たち自身にとってそうであり、他の人々にとってもそうです。十字架は私たちのためであり、それは他の人々にとってもそうなるためです。

教会は救いの務めにおける力の秘訣について、絶えず話しています。しかし、この世に対する唯一の力は、この世に対して十字架につけられることなのです。これを教会は何と僅かしか知らないことか。この世に対する唯一の力は、十字架につけられたキリストです。十字架につけられたキリストは、人々にとってつまづきの石であり、愚かなものですが、「私はキリストと共に十字架につけられた」と言える人々によって崇められます。このように経験され崇められた十字架の宣べ伝えこそ、神の力なのです。