Ⅴ.この世の磔殺

アンドリュー・マーレー

「なぜなら私にとって、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
断じて誇ることがあってはならないからです。
この十字架により、この世は私に対して十字架につけられ
私はこの世に対して十字架につけられたのです。」
(ガラテヤ四・十四)

今日の教会にとって、この世に対する教会の関係という問題ほど重大な問題はありません。キリストが使われた「この世」という言葉の意味は単純です。彼はこの表現を、堕落した状態にある人類、神から離れた人類の状態を指すのに用いられました。彼はこの世を組織化された体制もしくは王国と見なされました。この世は彼の王国の正反対のものであり、道徳上の敵です。この世には強力な目に見えない力、この世の神がおり、それがこの世を支配しています。ある霊、この世の霊がこの世に充満しており、この世に力を与えています。キリストはご自身の性格について、「わたしはこの世の者ではありません」と一度ならず語られました。彼は弟子たちにはっきりと、「あなたたちはこの世の者ではありません」と教えられました。彼は弟子たちに、彼らはこの世の者ではないので、この世は彼を憎んだように彼らをも憎むであろう、と警告されました。受難の中、彼は言われました、「この世の君が来ますが、わたしのうちになにも見いだしません」「今はあなたたちの時、暗闇の力です」「元気を出しなさい。わたしはこの世に打ち勝ったのです」。この世はキリストを憎んで十字架に釘付けましたが、その時、この世はこの世の神の力の下で自分の真の霊を現しました。十字架でキリストはご自身の霊を現して、あらゆる脅迫や約束を伴うこの世を拒絶されました。十字架は、「わたしの王国はこの世のものではありません」という彼の御言葉の証印です。私たちが十字架を愛して、十字架によって生きれば生きるほど、私たちはますますこの世の何たるかを知り、この世から分離すべきことを知るようになります。

この二つの王国の間にある相違や敵意は相容れません。この世がどれほどクリスチャンの影響で外面的に変えられたとしても、その性質は元のままです。この世と教会の協力がどれほど緊密で良好に見えたとしても、その平和は空しい一時的なものにすぎません。罪と呪いを啓示する十字架を完全に宣べ伝えて、十字架を受け入れて担うように迫るなら――たちまち敵意を見て取れるようになります。神から生まれた者以外、この世に打ち勝てる者はいません。

十字架を誇る

最初の御言葉から、十字架とこの世の間の敵意を、パウロがどれほど明らかに感じていたのか、またそれをどれほど大胆に宣べ伝えたのかを見ることができます。「私は十字架を誇ります。十字架を通してこの世は私に対して十字架につけられ、私はこの世に対して十字架につけられたのです」。パウロは十字架と一体化されていたので、この世に対する十字架の関係が自分の関係になりました。十字架がこの両者を分離しました。十字架は、この世がキリストに有罪を宣告した印でした。パウロは十字架を受け入れ、この世によって十字架につけられ、この世に対して十字架につけられました。十字架は、神によるこの世の有罪宣告でした。パウロは、この世は罪に定められ、呪いの下にあることを見ました。十字架は彼自身とこの世を今と同じように永遠に分離します。十字架においてのみ、両者は出会い、和解することができます。このゆえに彼は十字架を誇り、十字架を宣べ伝えました。十字架は人々をこの世から神にもたらす唯一の力です。

多くのクリスチャンの見方は、キリスト、ヨハネ、パウロの見方の反対です。彼らの話を聞くと、まるでなんらかの方法でこの世から呪いが取り除かれ、どういうわけかこの世は性質的に改善されたかのようです。彼らはこの世に歩み寄り、友好を申し出ることで、この世を教化して勝ち取ろうと考えます。彼らは、教会の仕事はクリスチャン精神をこの世に浸透させ、この世を占有することである、という見方をしています。彼らは、それ以上にこの世の霊が教会に浸透し、教会を占有するのを見ていません。十字架のつまずきは排除され、十字架はこの世の花々で飾り立てられています。それでこの世は大いに満足し、この世の神々の間に十字架の占める場所を与えます。

敵との戦い

戦いにおいて、敵の力を過小評価することほど危険なことはありません。教会の働きは戦いであり、やむことのない格闘です。「私たちの格闘は肉や血に対するものではなく、支配者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、天上にいる悪の霊の軍勢に対するものです」。この世は罪深い人類であり、単なる個人の総計ではなく、自分の罪に気づくことなく導かれています。この世は組織化された軍隊であり、一つの活気づける力、暗闇の力により、無意識のうちに動かされています。ひとりの指導者、この世の神が、この世を導いています。「以前あなたたちはこの世の道にしたがって、空中の権を持つ君、今も不従順の子らの中に働いているにしたがって歩んでいました」。教会がこの真理の意味をことごとく受け入れるとき初めて、教会は十字架の意義を理解できるようになります。また、十字架は人々をこの世から連れ出すものであることを、教会は見ることができるようになります。そして、十字架の神聖な不可解さを絶えず宣べ伝え尽くす以外に、この世に勝利して、人々をこの世から救い出せるものはない、と信じる勇気を教会は持つようになります。別世界の勢力、「天上にいる悪の霊の軍勢」が、地上の人々の内に働いています。より高い力、神の力、「支配者たちや権力者たちを廃棄して、十字架で彼らに対して勝ち誇られた」方によってのみ、それらを征服して従えることができます。十字架、罪と呪いと死とを伴い、愛と命と勝利とを伴う十字架だけが、神の力です。

盲目にされた知性

この世の絶大な力はその暗闇にあります。「この世の神が不信仰な者たちの知性を盲目にしたのです」。「私たちの格闘はこの暗闇の世の支配者たちに対してです」。もしこの世の霊が信者や教会の中に少しでもあるなら、その分彼らは物事を神の光の中で見ることができなくなります。彼らは自分たちの内にあるこの世の霊による偏見で毒された心で霊的な真理を判断します。このような心の状態では、いかに目的が誠実で、真剣に考え、知力をふりしぼったとしても、神の真理の理解と受容は制限されます。神の真理を理解して受容できる度合いは、神の霊とその十字架がこの世の霊を追い出した度合い、あるいは追い出そうとする度合いを越えません。穏やかに聖霊を待ち望み、聖霊に明け渡す時、聖霊だけが光となられます。そして、この光は心の目を開いて、何がこの世のものであり、何が神のものであるのか、見て取れるようにします。聖霊に真に明け渡す唯一の道は、肉とこの世の磔殺を伴う十字架を私たちの生活の規範とすることです。十字架とこの世は常に正面衝突します。

この世は罪が生み出した廃墟です。人は天の命の力により、神との交わりの中で、御旨に服しつつ、地上で暮らすはずでした。人が罪を犯した時、人はこの現在の目に見えない世界の力の下に完全に陥りました。この世の神がこの世を支配し、誘惑や罪の手段としてこの世を利用しています。人の目は霊的な永遠のものに対して閉ざされ、時間や感覚が人を征服し、支配しました。人々の中には、まるでキリストの十字架がこの世の呪いや罪の力を取り去ったかのように話す人もいます。彼らによると、信者は今や危険を犯すことなく自由にこの世の中に入って行って、楽しむことができます。また、教会は今やこの世を占有する力を持っており、神のためにこの世を獲得するよう召されています。これは確かに聖書が教えていることではありません。十字架が呪いを取り除くのは信者からであって、この世からではありません。なんであれ罪を宿しているものは、それに応じてその上に呪いが臨みます。信者が所有するこの世とこの世のものは、まず御言葉と祈りによって聖別されなければなりません。この世にありながらこの世の者ではない状態に私たちを保つのは、十字架とキリストの霊により、この世の霊の邪悪さを見て、それから解放されること以外にありません。私たちの原動力である御霊と十字架の力以外にありません。キリストが十字架でこの世を征服するには、苦しみと血の汗、死闘、命を犠牲にすることが必要でした。キリストの十字架において、キリストとの交わりに真摯にあずかること以外に、私たちをこの世の力から救えるものはありません。

キリストと共に十字架につけられた

ガラテヤ人への手紙には、キリストの十字架に言及している節がいくつかあります。その中の一節だけが、贖いについて明確に述べています。「キリストは私たちのために呪われた者となって、私たちを呪いから贖ってくださいました」。他の節はみな、十字架の交わりと、十字架が私たちの内なる生活に対して持つ関係について述べています。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」「キリストのものである人たちは肉を十字架につけてしまったのです」「私はこの世に対して十字架につけられました」。こうパウロが述べる時、彼はある生活、内なる傾向、霊的経験について述べています。それにより、キリストが十字架を負われた時の霊と原動力が維持され、現されます。多くの人は「私は十字架を誇ります」と告白し、キリストの義を信じる信仰により神の御前に義とされると見なします。彼らはこの信仰を聖書に対する忠実さの大きな証拠と見なします。しかしそれでも、彼らはこの世の霊に属するものを心から楽しみ、許容し、それにあずかっています。これは、この世を十字架につける十字架を誇る余地は、彼らの宗教には事実上全くないことを示しています。贖いの十字架と、十字架につけられたこの世は平和です。この世を呪われたものとして十字架につけ、私たちをこの世に対して十字架につけられた者に保つ十字架は知られていません。

義認のためだけでなく聖化のためでもある十字架の宣べ伝え、罪の赦しのためだけでなくこの世に対する力、この世の霊からの完全な解放のためでもある十字架の宣べ伝えが、パウロにおいて地位を得ていたように教会においても地位を得るようになるには、私たちは神に懇願して「この世」という言葉で神が何を意味しておられるのか、十字架の力によって神は何をしようとしておられるのかを、啓示していただく必要があります。この世とその中にあるすべてのものに対して実際上明確に十字架につけられている人々の生活の中で、十字架はその力を立証します。

十字架
主よ!私は日々、あなたの素晴らしい十字架、
カルバリの十字架を見つめます。
日々、私はその上に両手を伸ばし、
あなたと共に死にます。(二コリント四・十、十一)
最愛の主よ、私は「十字架を誇ります」。(ガラテヤ四・十四)
なぜなら、私は知っているからです、
私がどこへ行こうとも、
十字架こそ救いの力、満足であることを。
日々の十字架は深遠な喜びとなります。
なぜなら、十字架のすぐ向こう側で、
十字架と冠は呼応するのが見えるからです。(ヘブル十二・二)
ああ!恵み深い主よ、あなたから日々十字架を受け取ることは、
なんと甘いことか!
十字架の益と損失は決して分け得ないことを
私は知っています。
日々の十字架は、
私をあなたから遠ざけるすべてのものを日々失うことです。
日々の十字架は、日々すべてを得ることです。(ピリピ三・七、八)
あなたこそ私の分なのです。―― B.P.H.