神の愛を啓示する十字架

アンドリュー・マーレー

勝利者誌 一九一〇年 二巻 四月号 掲載。一八九九年の南アフリカ開拓者誌より。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪のために、御子をなだめの供え物として遣わされました。ここに愛があるのです。」――一ヨハネ四・十。

宇宙には、神の愛ほど素晴らしく、美しく、さいわいなものはなにもありません。神は愛です。「愛は自分の利益を求めません」。神たる方の栄光は、彼と彼が持っておられるものは彼ご自身のためではないことです。神として彼はすべての命と善の泉であり、ご自身の被造物をご自身の祝福でさいわいにすることを誉れと喜びとしておられます。彼の愛の中で、彼はご自身の命を被造物たちにおいて生かし出されます。ご自身を彼らに、また、彼らの中に与えること、これが彼の愛です。神の命が喜びとするのは、愛し、与え、祝福することです。

人の罪と堕落は、愛の何たるかを示す新たな機会となりました。人が反逆者、敵としての立場を取った時でも、神は依然として人を愛して、いかなる代価を払っても、人を救うのに必要なことをなんでもすることを約束されました。罪により人は神の義なる裁きの下に、死の力の下に陥りました。この裁きを受けるために、死んでこの死を征服するために、神はご自分の御子を渡されました。呪われた十字架の死にまで渡されたのです。彼は私たちを愛して、私たちを勝ち取ってご自身の愛に立ち返らせることを願われました。私たちの心をそのホームに向けさせて、私たちの愛がご自身の心を満足させるようにならないかぎり、彼の愛は安息できませんでした。彼はご自分の御子を惜しまずに、私たち全員のために渡してくださいました。十字架は、いかに神が私たちを愛しておられるのか、いかに私たちが彼の愛を知って享受することを彼が切望しておられるのか、いかに私たちの愛を彼が願っておられるのかの証拠です。

私たちは十字架のこの面を学ぶ必要があります。その死は司法手続きや、永続的贖いの力であるだけではありません。それはすべてまさに、それをはるかに上回るものによるのです。それは、神と私たちの間の強固な個人的関係を啓示し、確立します。天の神は、私たち一人一人を大いなる愛で個人的に愛するあまり、私たちが彼の愛を知らずにいるよりは、むしろご自身の御子を死に渡すことを願うほどだったことを、それは私たちに教えます。彼は私たちの愛を求めてどんな代価でも払おうとされたことを、それは私たちに教えます。十字架の素晴らしい奥義――愛する御子が苦しみと暗闇の中で呪われた死を遂げられたこと――は神の愛の証拠であり、その寸法です。これほど神は世人を愛されたのです。

その性質上、愛は、自分自身を知らせることを願います。愛する対象を得ることを願います。その心を勝ち取って、見返りにその愛を受けないかぎり、それは安息できません。今、考えてみてください。驚くべき栄光の中におられる神は、罪人を罪に定められましたが、それでも御子を与えて、御子を憎んで十字架につけた人々のためにその罪定めを担わされたのです――これは知識を超越した愛ではないでしょうか?この愛は十字架によって私たちに臨んで、「あなたは自分の心の中に、その神聖な驚くべき祝福を受け入れましたか?その中に生きて、それを喜んでいますか?このような神とこのような愛が、私たちの心の唯一の願い、唯一の喜びとなっていますか?」と問いかけます。

なんと不可解な反応をこの愛は受けたことでしょう。私が述べているのはそれを拒絶した人々のことではなく、それを信じて、それを受け入れたと告白している人々のことです。その中で喜んでいる人はなんと少ないことか。自分の全生涯をそれにささげて、それを喜び、その素晴らしさを告げ知らせている人はなんと少ないことか。この無限の愛が自分の上に、そして自分の中にあることが、日常生活の中で主要な喜びとなっている人、そして、それを悲しませるよりは、むしろなんでも耐え忍ぼうとする人は、なんと少ないことか。それを熱心に願い求めている人々の間ですら、この愛が自分に現れて、自分と共に宿っている、と証しできる人は、なんと少ないことか。

これにはなんらかの理由があるにちがいありません。なんと、ああ!いったいどういうわけで、この神の愛――自分自身を私たちに伝えて、そのさいわいで私たちを満たすことを無限に願っている愛、すべての障害を征服する全能の愛――が、「それで満たされることを願い、祈っています」と言っている人々にすら届かないのでしょう?ああ!様々な理由があるかもしれませんが、最終的に、それらはみな次の答えに帰着するのではないかと、私は恐れます。すなわち、彼らはそれを自分自身の方法や力で求めているのです。十字架の学課――天然に属するすべてのものに対して、天然の力に対して死ぬこと――を学んでこなかったのです。彼らはこの素晴らしい愛を知性で可能なかぎり把握しようとしており、省察と議論によって愛そうと自らを奮い立たせていますが、それはなんらかの永続的な効果を生じさせることを願ってのことです。十字架の死以外のなにものも地上で示せなかった学課を、彼らは決して学べません。心の中に働いて、私たちを徹底的な無力さと非力さという墓の中に導く、あの死以外のなにものも、この愛を私たちの内側に啓示できません。そして、これは彼らが次のことを理解していないためです。すなわち、この愛と、カルバリにおけるその啓示は大いに神聖であるため、各個人へのその伝達も全く神聖でなければならないのです。

神の心の願いが成就されて、人が神の愛の力の下で彼のみこころどおりに生きるよう導かれる道がいかなるものか、私が再び簡単に述べようとしている間、どうか来て耳を傾けてください。

1.十字架と共に始めなさい。来て頭を垂れて、ここで二つの学課を学びなさい。この愛の豊かさをとらえたり受け入れたりすることが自分には全くできないという学課と、神は大いに喜んでそれをあなたの中に与えてくださるという学課です。すべての自己の意志と自己の努力に対する死、天然と天然の命に属するすべてのものに対する死、というのはそれは罪深く、神聖な良いことを行えないからです――これが十字架の意義です。キリストの愛をもってしても、無力さという死と墓を通してしか、私たちを救いの道に導けなかったのは、これが理由の一つです。徹底的絶望と自己の死によってのみ、まことの愛は私たちの心を勝ち取って満たすことができます。十字架が私たちの性質がいかなるものかを示す時、そして、私たちを徹底的無力さの中に導いて、この愛をやりとりする力を自分自身の内に探そうとすることを私たちがやめる時、その最初の働きがなされます。自己から転じることが、愛の道の第一歩です。

このように人々が自分自身に絶望するとき、十字架が伝えるメッセージ――神はどんな代価を払っても、私たちの心を勝ち取って、それをご自身の愛で満たすことを無限に願っておられる、というメッセージ――を受け入れる用意が整います。いかに神が私たちを慕っておられるのか、私たちが彼の愛を知ることをいかに彼が願っておられるのか、どれほど確実に彼自らそれで私たちを満たしてくださるのか、十字架によって私たちは見始めます。

2.次に、自分の無力さを覚えつつ、また、あなたをご自身の愛で満たすことを願っておられる神の無限の願いを覚えつつ、あなたが頭を垂れる時、その方を通して御業がなされる聖霊を信じなさい。愛が働きを開始できたのは、ただ十字架のみに基づきました。聖霊が心の中に降臨して、そこに神の愛を豊かに注がれることによって、愛がまっとうされないかぎり、愛は満足しつつ安息することができませんでした。神の愛が勝ち取りたかったのは、この心でした。愛が住みたかったのは、この心の中でした。御霊はこの心の中に入って、そこに愛の御霊として住まわれました。ペンテコステの時に、弟子たちの心の中で十字架の愛が完全に勝利しました。十字架は、私たちのために働いて、この愛を啓示します。聖霊は、私たちの内に住んでまさに私たちの命となるこの愛です。

各々の信者に聖霊は再生のとき、来たるべきものの保証・初穂として入って来られます。御霊の実は愛です。自分自身を信仰の中で彼の導きに明け渡すことを学んでください。そうすれば、彼はあなたをかの時に向けて――愛の御霊が心の中に完全に誕生して、あなたが知識を超越した愛を知り、神の全豊満をもって満たされる時に向けて――備えることができます。

3.この高価な真珠のために払うべき代価を覚えていてください。十字架はその代価が何かを告げます。永遠の愛は、すべてを手放して放棄する以外に、愛ではないものを捨て去る方法、勝利して私たちを神の全き愛の中へと導く道を切り拓く方法を、見いだせませんでした。この神聖な愛の命が私たちの中にあるすべてのものを所有し、満たし、支配するためには、どれほど徹底的に物質的命を憎んで失わなければならないのかを、言葉で明らかにするのは困難です。いたって合法的に見えるもの、義務のように見えるものでも、無限の愛が唯一・完全に所有するようになるためには、放棄しなければなりません。愛は勝利を得るために苦しみと死の戦いを通りましたが、この苦しみと死の戦いは、別の形で依然として臨んで、なにがなんでも私たちの命を要求します。愛の神聖な麗しさを見た心は、いつでもすべてのものから離れ去れるので、神の愛は中に入って住むことができます。愛と十字架はつながっており、そのつながりは分離不可能永遠です。愛を求めなさい。それはあなたを十字架とその死に導きます。十字架を求めなさい。それはあなたを愛とその喜びに導きます。

4.神は私たちが彼の愛を知ることを願っておられますが、十字架は神のその無限の願いの寸法です。もし本当にそれを受け入れて楽しみたければ、心を尽くしてそれを願い求めなさい。「彼らは心を尽くして彼を願い求めたので、彼を見いだした」。

それが成長してなにものも癒せない渇望となるまで、かたくこれを願ってください。十字架が啓示する素晴らしい愛と完全な贖いの上に、あなたの心を定めてください。神の愛ほど素晴らしく、強力で、麗しい、さいわいなものはありません。これこそ真に、それを知って所有する価値のある、宇宙で唯一のものです。神の愛はあなたの心を得て満たすことを大いに願っています。あなたを探し出して満たす愛の道から、十字架はすべての障害を取り除きました。愛が自由に流れ出るように、十字架は天を開きました。この愛が完全に流れるように、十字架はあなたの心を開くことができます。十字架上で神は、ご自身の愛があなたの内に生きるようになることを心の底から願っていることを、御子を与えることによって証明されました。ああ!この祝福の中の祝福をあなたは心の底から願い求めないでしょうか?

「神が私たちを愛して、私たちの罪のために、御子をなだめの供え物として遣わされました。ここに愛があるのです」。御子を遣わすことが素晴らしい神聖なことだったように、十字架上の彼のなだめの供え物が素晴らしい完全なものだったように、彼の愛が私たちの心の中に聖霊の力によって入ることも素晴らしい完全なものになりえます。神の愛はこれを願っています。これを願い求めましょう。私たちの信仰を十字架に置き、その贖いと交わりによって絶えず力づけてもらって、それが啓示するその奥義を知らせてもらおうではありませんか。ここに愛があります!ここに愛があります!そして、この愛が、私たちの心の中で、すべてに勝利して、それだけが統治するようになるまで、私たちは休まないようにしようではありませんか。