私たちの愛を鼓舞する十字架

アンドリュー・マーレー

勝利者誌 一九一〇年 二巻 五月号 掲載。一八九九年の南アフリカ開拓者誌より。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪のために、御子をなだめの供え物として遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ、神がこのように私たちを愛してくださったのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの中に住んでおられ、そして彼の愛が私たちの中で全うされます。」――一ヨハネ四・十~十二。

私たちに対する神の愛と、神と隣人に対する私たちの愛とは、一つの愛です。愛は神の性質です。彼の愛が私たちの心に注がれる時、まさに神の命が新たな豊かさと力で私たちをとらえます。この神の愛は、その性質上、不変です。神においてそうであるように、私たちにおいても、それは愛することを喜ぶ性質です。それは愛する以外のことをなにもできません。太陽が輝くように、自然に絶え間なく愛します。私たちに対する神の愛は、第一に、彼を愛し互いに愛し合うことを義務付けるもの、動機づけるものとして、私たちに示されます。この義務に従おうとして、それを不可能にする自己中心性と罪に気づく時、心の中に宿っている私たちに対する神の愛だけが、愛することを可能にする力であることを理解するように導かれます。そして、「私たちは彼を愛しています。彼がまず私たちを愛してくださったからです」という御言葉が、どのように動機についてだけでなく、彼の愛が私たちをその中に導いた生ける力についても述べているのかを、私たちは理解します。そして、どのように「私たちが互いに愛し合うなら」、「神が私たちの中に住んでおられる」証拠になるのかを、私たちは理解します。

十字架は、神が私たちを愛しておられる愛を啓示・伝達します。そのおかげで、十字架は私たちが心を尽くして彼を愛し、自分自身と同じように隣人を愛する愛を鼓舞します。これを学びましょう。十字架はイエスにとって天然の命に対する致命的打撃、自己の意志に対する死、罪と自己に対する死であったことを見るとき、愛が私たちの中で新しい性質の自然な喜ばしい流れとなって流れ出るために何が必要なのかわかります。キリストは神の愛の勝利の道を、十字架の死による道以外に見いだせませんでした。この死の実際的・徹底的交わりによってのみ、私たちは愛せるようになります。十字架を心の中に受け入れるとき、私たちは愛で鼓舞されます。

1.十字架は神に対する愛で私たちを鼓舞します。もう一度言わせてください――十字架は動機づけるだけではありません。これほどまでに私たちを愛してくださった神を愛すべきこと、感謝して愛すべきことを、私たち皆が認めます。しかし、そうはいきません。ある動機によって、強い願いが生じるかもしれませんが、力を与えることはできません。神に対する私たちの愛が神が求めておられるもの、心底喜びに満ちた愛となるには、律法がなした以上のことを十字架はなさなければなりません。律法はそれを要求しました。神はイスラエルをエジプトから贖い出されたからです。しかし、律法は愛の命を与えませんでした。さらに偉大な十字架の贖いを指し示して、この要求を千倍にしても、それによって従う力を与えることはできません。十字架は愛に対する願いと動機を鼓舞するだけでなく、まさに愛することを可能ならしめる命であり、まさに愛してやまない愛なのです。

そして、これはひとかたならぬものです。神の愛が十字架で現れたのは、私たちがその美しさを遠くから眺めて、その流れから十分に飲むことを渇望し、自分に理解可能なそのような貧弱な経験で満足するためではありません。全くちがいます。神の愛は、私たちの心がそのホームとならないかぎり、満足できません。「これはわたしのとこしえの休み場である。わたしがそれを望んだからである」(ヨハネ十四・二一~二三と比較せよ)。神の愛は十字架上で人類全体に現れるだけではありません。十字架は個人の救いをもたらします。彼はご自身の愛を私たちのうちに啓示しようと待っておられます。十字架上でキリストは暗闇の全勢力に勝利されたので、彼に贖われた者は罪の支配から解放されて、自分の心の中に神の聖なる愛を受け入れる者となることができます。

この同じ真理のもう一つの面は、十字架上で私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられて、私たちは罪に対して、自己の古い命と自己中心性に対して死んだ、ということです。あの死を通って、私たちはキリストと共に彼の命の中に移り、神に至りました。愛の命が自己の命に取って代わります。「彼が生きているのは、神に対して生きておられるのです」。「私は律法に対して死んでいます。それは神に対して生きるためです」。「キリスト・イエスの中で、あなたたちも、自分は神に対して生きていると認めなさい」。神に対して生きる命は、愛の中で彼のもとに上る命にほかなりません。これを信じようではありませんか――神の命と愛が、罪と自己から解放して、心の中に入ったことにより、心を尽くして神を愛することが可能になったのです。十字架は私たちのうちに彼の愛を示すだけでなく与えてくれるのです。

2.十字架は兄弟たちに対する愛で私たちを鼓舞します。すでに見たように、神の中にまた私たちの中にある神聖な愛は愛することを喜びます。それがまさにその性質だからです。太陽のように、それは善人の上にも悪人の上にも輝きます。信者の心からそれは流れ出ます。神から生まれたすべての人の上に神から臨んだものとしてです。「生んでくださった方を愛する者はみな、彼から生まれた者も愛します」。

愛する力を与えるのは十字架です。驚くにはあたりません。私はキリストと共に十字架につけられたと言える人は、他にどうできるでしょう?十字架でその人はキリストとの交わりを持つだけでなく、贖われたすべての仲間たちとも交わりを持ちます。この仲間たちはその人と共に、キリストの死と命と愛にあずかる者とされた人々です。十字架でその人は、神がキリストにあって自分たち全員を彼の素晴らしい愛の中に共に連れて行ってくださったことを見ました。彼らは神に愛されている者であることを知りました。それなのに、彼らを愛さないなどということがありえるでしょうか?十字架は自己と自己中心性を終わらせました。キリストと共に十字架につけられた人が、十字架の愛のしるしを帯びている人々をすべて愛さないなどということがありえるでしょうか?ありえません。十字架は私たちを強いて愛させます。

でも、なぜでしょう?とあなたは問うかもしれません。この愛がキリストの教会の間に少ししか見られず、また実証されていないのは、どういうことでしょう?答えは一つしかありません。十字架は私たちの行動の唯一の規範であり、私たちの命の唯一の力であることが、ほんの少ししか知られていないからです。その死に、すべての人のために自分自身を与える愛である死に同形化されることを、私たちがほんの少ししか求めていないからです。罪のために贖いをなし、私たちを神に和解させ、私たちのために平和を獲得した十字架を、私たちは誇ってきました。しかし、十字架の他の面を私たちはパウロと違って誇ってきませんでした。すなわち、世と自己満足に対して私たちをはりつけにする十字架、肉をそのすべての欲と共にはりつけにした十字架、もはや生きているのは自分ではなく自分の内におられるキリストにする十字架です。ああ、十字架は愛であることを私たちに教えてください、と神に求めようではありませんか――十字架は私たちと私たちの兄弟たちに対する神の愛であり、私たちを征服、所有、鼓舞して、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちを互いに愛し合わせます。

3.十字架は私たちの隣人に対する愛を鼓舞します。十字架は価値なき者や敵に対する愛です。十字架によって贖われた者として、私の愛にそれ以外の規則はありません。第二の戒めは第一の戒めと同じく重要です。心を尽くしてあなたの神である主を愛せよという戒めは、あなた自身のようにあなたの敵を愛せよという戒めよりも神聖である、ということはありません。地上での務めのまさに最初から、山上の垂訓の中で、彼はこれを王国のしるしとして、神の子供たちが帯びるべき彼らの天の父に似つかわしい性質として語られました。敵に対する愛、恩知らずや悪人に対する愛こそ、「他のなにものにもまして」私たちが行うべきことです。あわれみを求めるどの祈りも、私たちの父が私たちを赦してくださったように私たちも赦せますように、という嘆願でなければなりません。十字架の愛により、キリストは私たちに対するご自身の戒めを成就されました。これにより、敵を愛することが、その救いに協力する条件となったのです。

この愛への召しはクリスチャン生活に対するなんという試金石でしょう。警戒していない時に、思いがけず、承服しかねる人々や不快な人々、恩知らずな人々や卑しい人々に出会ったとしましょう。なんと多くのとき私たちは、十字架の霊、愛の霊を帯びていない思いや感情、言動に道を譲ってしまうことでしょう。愛の霊は対価や報いを求めずに、ひたすら生きて死に至ります。神の愛を受けて、それを運んでいるからです。

これは可能なのか、とあなたは疑うのでしょうか?これは理想論でしょうか、それとも、私たちが目指すべき実際的目標でしょうか?「人にはできないことでも、神にはできます」。もう一度十字架を学んで、愛はきわめて下劣な人でも愛せると信じることを学びましょう。愛は、あなたの周囲にある罪やあなたの中にある罪のすべての力に対して勝利することができます。聖霊は、とりわけ感覚や理性に理解できる形で、キリストの愛を私たちの心の中に啓示して与えることができます。イエスが愛されたのと同じくらい愛することが可能なのです。

4.十字架は全世界に対する愛を鼓舞して力づけます。十字架はすべての人に向かって救いを明示します。なぜなら――神はそれほどまでに世を愛されたからです。イエスは十字架から御座に行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよと言われました。十字架の愛はすべての人に手を差し伸べます。それが私たちの心の中に入るとき、それは私たちにすべての人を愛させます。そして、贖われた私たちの全存在をこの愛の奉仕に明け渡すよう要求します。十字架が私たちにもたらす愛には、「わたしは、上げられるなら、すべての人をわたしに引き寄せます」という目的が備わっており、それ以下の目的はありません。。

宣教の問題について私たちはよく話します。関心や祈りの欠如、人や金銭の欠如に関する不満を絶えず耳にします。クリスチャンたちをおだてたり恥じ入らせたりして施しをさせるために、あらゆる手段が用いられています。どの宣教地からも、働きを継続するにはさらに数百名の働き人が必要であるという物語が寄せられています。どの協会も次の事実を繰り返しています。すなわち、諸教会が目覚めて自分の召しを受け入れさえすれば、神は天の扉を開いて、祝福を注いでくださるだろう、という事実です。扉がいくつも開かれており、多くの事例では飢えた心の持ち主がいることが、その保証だというのです。

これはいったい何を意味するのでしょう?クリスチャンたちは利己的な救いのために十字架を受け入れてきたことを意味します。許容できるあまり代価を要さない程度でしか、キリストのために犠牲を払ってこなかったのです。彼らは知らないのです、十字架が啓示する徹底的な自己犠牲の愛を、十字架はもたらして私たちの心の中に息吹き込もうとしていることを。教会に必要なのは、十字架に連れ戻してもらうことです。偉大な贖いの尊い学課を学び、その磔殺と死の交わりについてのいっそう深い学課を学ぶだけでなく、とりわけ次の最高の学課を学ぶことです。すなわち、十字架の愛は、キリストのように人々の救いのために自分の命を与えるよう私たちを鼓舞してこれを可能にする、という学課です。神の王国の拡大を求めて神に祈る人はみな、こう祈ろうではありませんか。どうか十字架の全き光がすべての信者の心の中を照らし、その力のかぎりを尽くして彼のみこころと共に働きますように、そして全世界に対する愛が私たちの生活の規範となりますように。

信者よ!十字架上のあなたの主は、十字架につけられた愛なる方です。彼の御前で礼拝しなさい、あなたに対する神の無限の愛と、キリストにあって啓示されたこの愛の素晴らしい情熱が、あなたを満たすようになるまで。また、今一度礼拝しなさい、まさにこの神の愛を人々に――それが切に慕っている人々に――分与するための力をこの愛から受けるまで。