一九〇五年(明治三八年)

中田重治

大胆なる伝道

「またわが口を開くとき、言葉を賜り、はばからずして福音の奥義を示し、またわが言うべきところのごとく、これをはばからずして言いうるよう、わがためにも祈るべし。われこの福音のために使者となりて鎖につながれたり」(エペソ六・一九、二〇)。

伝道者は主に忠実なるごとく、主より与えられし光に対しても忠実であるはずです。すなわち、はばかりなく受けし恵みと光を人々に宣べ伝えなければなりません。悪魔は一致という美名のもとに、姑息の調和をなさしめ、ついには軟化せしめます。ああ、われらは悪魔の謀略に陥らぬよう注意しなければなりません。主イエスの御名があがめられるため、即座の悔い改めはもちろんのこと、聖潔も、主の再臨も、神癒でさえも大胆に宣伝すべきであります。

現今諸教会の多くは、信者または未信者に対し、機嫌取りのようなことばかりを説いております。彼らは鎖につながれるよりは、鎖でつなごうとしております。真っ向から悔い改めを説かずに、腫れ物にでも触るようにそっとなでております。世間はかかる方法を知恵ある方法と申します。しかし神の前には臆病至極のことです。

おお、大胆なる伝道者を要します。福音は昔より、ある者には愚かに、ある者にはつまずくものであります。馬鹿にせらるること、つまずかせることを気がねしては、とても大胆なる福音の証人となることはできません。神は御自身の名を汚すような、へたな御方ではありません。私どもは神の御声に忠実に従うときに、福音が最後の勝利を得るのが当然であります。

集金と献金

集金と献金とは同じようなものであるけれども、その内容においては大いに違っております。昔は十分の一を標準として所有物を神に献げたものであります。それは感謝の献げ物であります。これは信仰より献げるものであります。しかるに今は集金になりました。ゆえに義務の出金となり、規則に縛られて出すようになります。目下諸教会の仕方は、献金ではなく集金であります。これは生ける信仰がなくなった証拠であります。集めるのと献げるのとは、言葉から違っております。教会の自給も集金によらずして、献金によるようになれば、神の祝福のもとに全うせられるのであります。(三月一〇日)

聖霊派のあだ名

霊に満たされたる者は、昔から色々のあだ名をつけられました。使徒時代においては「酔っぱらい」(使徒三・一三)、「天下を乱す者」(同一七・六)、「疫病」(同二四・五)、「気ちがい」(同二六・二四)などと言われました。今でも病的だの、迷信だの、軽薄だの、感情的だの、無学だの、空騒ぎするなどと、色々の言葉をもって批評しております。しかしこれらが未信者より来たらずして、いわゆる信者より来たるとは実に奇怪であります。はなはだしきは、全き福音を信ずる信者は教会より出て行けよがしに仕向ける教会もあります。これは昔よりありがちのことで驚くほどのものでありませんが、今は聖徒が大いなる忍耐を要する時代であります。なんと言われようと、全き福音は早晩勝利を得ます。(三月二五日)

信仰界の空き家

マタイ一二・四三~四五

信者の多くは恵みに欠乏しているため、諸々方々に空き家ができている。「空虚にして掃き清まり飾られ」ているところを見れば、実に立派であるけれども、悪魔の住み家となって、ついには地獄の差し押さえをこうむるようなことがある。さればすべてを捨てて全く献身をしても、聖霊が家移りして主人公とならないうちは油断ができぬものである。空虚となるのはよいが、満たされるために空虚となることを忘れてはならない。きよめられたことがあるという記憶のみをもって、実際聖霊に満たされていなければ、この空き家同様のものである。(七月一五日)

「は」と「よ」

宗教は理屈ばかりの冷たいものではなく、拝み仕えるという点に達して妙味のあるものである。信仰はなるほどと合点するのでなく信じたことによるのである。「神は」云々と論ずるのが宗教学者で、「神よ」と呼ぶのが宗教信者である。前者は罪人でも反対者でもできる。しかし後者は真に罪を悔い来る者のみにできるものである。神とキリストに対する信念は、三人称を離れて二人称をもって呼ぶようになれば、実体験となって現われくるものである。「神よ」「キリストよ」と呼ぶようになってこそ親しき交通に入るもので、われと彼との結びは愛によって固くなり、永遠の結びとなるものである。さればわが国においては、講壇の宗教よりも密室の宗教に多くの興味を感ずる人が多く起こるようにならなければならぬ。(八月一九日)

信仰界の低気圧

これは異端と迷信の変動である。日本の幼稚なるキリスト教会は、いくたびかそれがために撹乱せられた。これがために諸教会内に大洪水が起こり、歴々の伝道者および信者が懐疑の霧雨に閉じ込められ、異端邪説の泥沼に陥り、いまだに浮き上がらずにおるものがある。諸教会はこれがために種々様々の堤防を築き、防御策を講じたけれども、なおこの低気圧のためにせっかく握った救いまでも流失している者がある。これは空中の諸権をつかさどる悪魔(エペソ二・二)より来るものであるがゆえに、いかほど人間相手の防御をしてもだめである。キリストの再臨まではかかる低気圧は必ず襲い来たるべきはずのものである。しかし感謝すべきことは、聖書に低気圧のために害をこうむらなくともよい道が示されている。「すべてわれに来たり、わが言葉を聞きて行なう者をたとえて汝らに示さん。その人は家を建つるに土を深く掘りて礎を岩に上に置けるがごとし。大水のとき流れ、その家を打つとも動かすことあたわず。これ礎を岩の上に置けばなり」(ルカ六・四七、四八)。この岩はキリストである。勝利の主なるキリストを得ているならば、決して害をこうむることがない。信仰界にいかなる変動が起こっても決して動かぬ者は、きよめられキリストの霊に満たされたる者のみである。(八月二六日)

ロトの妻を思う

信者は滅ぼさるべきソドムとゴモラより救い出されても、ソドムとゴモラの思い、すなわち肉につける思いが心中にあるうちは、救いの中途であって、ロトの妻のごとく後ろをかえりみて、塩の柱となるおそれがある。この塩柱はいずれの教会にも幾本も突っ立っていて、出入りの人々の邪魔をしている。きよめられぬ信者ほど神の教会の障害物となるものはない。自分がきよめられずにいることは、他人の救いの邪魔になるとは、多くの人の気づかぬことであろう。しかしそれは事実である。どうしても自分が救いを求めた当初の目的と神の救いの目的と一致しなければならない。すなわち、きよめられて落ち着くところまで落ち着かなければ双方の満足にならないのである。きよめられてこそ救いの極意、贖いの頂上に達するものである。

ロトの妻は腐敗せる教会の好標本である。彼女は聖霊に手を引かれても振り払って、汚れた世と調和するのである。かかる教会は主の再臨の時に携挙せられる花嫁の資格のないもので、世界未曽有の艱難時代を経過しなければならない。

再臨の主が近づきたもうこの大切な場合に、俗化と異端の流行せる有名無実の教会と行動を共にしつつ、共に滅ぼさるべき運命に陥らぬよう注意しなければならない。

「逃れて汝の命を救え。後ろを返り見るなかれ。くぼ地のうちにとどまるなかれ。山に逃れよ。しからずばなんじ滅ぼされん」。全くきよめられ、聖霊に満たされるには、すべての情実を排し、肉につけるすべての関係を脱して、一直線にきよめの山なるカルバリー山に駆けつけなければならぬ。(九月九日)

迫害を歓迎す

人々は文明の名に酔い油断をしておったから、神は悪魔に許して教会を迫害せしめたもうた。教会は世と和合せんと策を巡らしておった時に、神は嫉妬をもって教会を世より離したもうた。迫害は使徒時代や隣国の中国にのみあると思って、太平をむさぼっていた日本の信者は大いに目をさました。かかる時に麦と殻とはふるい分けられ、実を結ぶ枝と実を結ばぬ枝とは切り分けられるのである。蒸し暑い眠そうな天候が電光雷雨によって一掃せられるように、このたびの迫害(浅草伝道館破壊)は教会の教勢をひきしめるに相違ない。純キリスト教会の歴史は、殉教者の血をもって記されたものである。日本のキリスト教会も、その一ページを染めるものとすれば迫害は当然のことで、神に向かって大いに感謝すべきである。われらはこの際にむしろその遅きを嘆くほどである。(九月一六日)

素人伝道

キリストの証人は伝道師のみではない。キリストに救われたる者はみな証人である。今はキリストの弁護士よりも証人が必要である。世を教化するに、救われたる平民が何より力ある者である。天幕作りのアクラとプリスキラは素人伝道者の最も良き標本である(使徒一八章)。彼らは自分らの受けた聖霊のバブテスマをば当時有名な本職伝道者アポロにも告げた篤実な信者で、また自分の家に家庭集会を設け(ロマ一六・五)、また外国伝道にも力を尽くし(四節)、命を損なうまで主のために働いた人々であった。初代メソジストは素人伝道者より成り立ったと申してもよいほど、信徒の働きが盛んなるものであった。組合のように説教や訪問を伝道者にのみ一任しておくようでは、速やかなる教化はとてもおぼつかない。商売または仕事のかたわら、または余暇に、教会が不都合ならば人の家でもよし、大道でもよし、どこにおいても福音の証しをするならば、必ず救われる者がぞくぞく起こるに相違ない。服装はどうでもよい。労働者ならば仕事着のまま、商人ならば前掛けをかけたままでやるがよい。そこが味のあるところである。本職のようにすらすらと弁ぜられぬところが、証しになる点で結構なところである。中国内地宣教会の創立者ハドソン・テーラー氏が、「一二使徒の一人となるよりも、サマリヤの婦人になりたい」と言ったのはこの点である。素人でも本職でも伝道するに、神学校を卒業し、免状を持つ必要がない。救いの自覚を有し、エルサレムの二階で恵みを受けた人であれば、必ず成功ある働きをすることができる。素人伝道者は独立であるから報告の心配もなく、 免職になる心配もなく、世界を自分の教区にするのであるから、縄張り争いなどは少しもない。今や田は色づいて収穫時となっている。先輩や本職のみをあてにしておられない時である。何はともあれ、聖霊に満たされて一生懸命働くべきである。「かの女わがなししすべてのことを、彼われに告げしと証しせしことばによりて、その町のサマリヤ人多くイエスを信ぜり」(ヨハネ四・三九)。(一一月一八日)

悪魔的キリスト教

キリスト教外の宗教はいかに高尚でも、道徳観に正しくても、唯一の神を拝まぬようにするものであるから、説明するまでもない純粋の悪魔教である。悪魔は「善を借りて偽りを言い」(一テモテ四・二)「敬虔のかたちあれど実は敬虔の徳を捨つる者」(二テモテ三・五)で、人の心を神以外に向けさえすれば彼の勝利となるのである。彼はまたキリスト教の名のもとに、得意の毒をまいているがゆえに、大いに警戒しなければならぬ。たとえばニコライ宗(黙示録二・六、一五)のごときである。かのともがらは、生きている限りはどうしても罪を犯すべきはずのもの、罪の根よりはとても脱しえられぬものと説くのである。全ききよめを信ぜざる教会は、確かにこの宗派に属するものである。また「悪鬼を拝し、見ること、聞くこと、歩くことをえざる金銀、銅、石、木の偶像を拝する」(黙示録九・二〇)偶像教的キリスト教、すなわち天主教やギリシヤ教である。次は新神学である。「汝ら慎むべし。おそらくはキリストに従わず、人の伝えと世の小学に従い、空言なる理学をもて汝らの心を奪わん」(コロサイ二・八)。キリストの神性を認めず、人の知識にのみ重きをおく教会は、無論悪魔来のペテン教である。また「イエス・キリストの肉体となりて来たりたまえることを言い表わさざる」(二ヨハネ七)教え、すなわち主の再臨を説かざるキリスト教、または律法のみをやかましくとなえうるもの、信仰によらず世俗的のことをもって教会を盛んならしむること、権門富豪にこびて勢力を張らんとするもの、分かつ霊を働かして教会を撹乱するもの、集まりの不必要を説くものなどは、みな悪魔のわざとして聖書に記してあるものである。

「愛する者よ、すべての霊を信ずるなかれ。その霊神よりいずるやいなを試むべし。多くの偽預言者いでて、世に入り」(一ヨハネ四・一)来たるからである。(一二月一六日)

栄養不良の信者

「汝らは時をふること久しければ、人の師となるべき者なるに、今また神の示したまえる教えのはしを教えられざるをえず」(へブル五・一二)。

幾年たってもいっこう進歩しない信者は、何か故障があるにちがいない。イエスは「知恵もよわいもいやまさり、神と人とにますます愛せられたり」(ルカ二・五二)。内住の罪が成長の邪魔をするものであるから、きよめられさえすれば何の文句もなく、あたりまえで成長し、「ますます繁く実を結ぶ」のである。きよめられずに修養しても、きよめられたいとの願望のみが増加するのみで、少しも聖潔そのものに至るものではない。きよめられてこそ食するすべての霊の糧は、太る原料となるものである。

人為的平和

ああ、騒々しき千九百五年もやっと過ごした。戦争と戦争の噂を耳にせず、喜ばしく新年を迎えることができるのは実に主の恵みである。しかし油断ができない。人類の心から罪の根が取り去られず、外に悪魔がいざなわんとかまえているうちは、とても真の平和を見ることができない。双方の都合上造った平和は、双方の都合上また破るる時があるに相違ない。さればわれらは世界を平和ならしめんとて誰にも頼らない。むろん不信心の政府と政治家を当てにはしない。わが唯一の祈りは「主イエスよ、来たりたまえ」である。(一二月三〇日)