一九一二年(大正一年)

中田重治

偶像に遠ざかれ

「幼な子よ。汝ら自ら慎みて偶像に遠ざかれ」(一ヨハネ五・二一)。

キリスト教は昔より偶像に対してはきわめて猛烈な攻撃態度を取って来たものである。偶像にささげた物を食わしめる女イゼベル(黙示録二・二〇)を容認する教会は、みな腐敗した教会である。純福音の信者なる者は、偶像を拝するか殺されるかという場合には、喜んで殺されることを願うものである。今や悪魔は諸種の名目のもとに偶像崇拝をなさしめんとしている。この際聖徒は非愛国者、または不忠の徒と言われてもかまわない、大胆に所信を貫くべきである。われらは言わんと欲することは胸中にあふれている。しかし保証金を納めていらぬ悲しさには、これ以上のことは言い得ない。実に残念である。願わくは聖霊の導きにより、偶像は何であるかを示されし兄弟姉妹は、「人に従うより神に従うはなすべきのことなり」(使徒五・二九)と堅く信仰に立って歩むべきである。

迫害と繁殖

キリスト信徒の中には天来の生命がある。この生命は困難にあえばあうほど発揮するところのものである。「イスラエルの人々は、苦しむるにしたがいて増しふえたれば、みなこれを恐れたり」(出エジプト一・一二)。かく神の祝福は迫害の時に、いよいよ現われるところのものである。教会歴史を見るに、すべて迫害時代においては、ますます信徒がふえるようになっている。ただ数においてはたくさんであるのみならず、火のごとき苦しみを受けた信者であるから、その質においても立派である。神は日本を教化するために、何かの方法によって信者を鍛練なしたもうことと信ずるものである。われらは主の栄光のために迫害を歓迎するものである。これにより有名無実の信者は淘汰され、日本国民の大多数はキリスト教の真価を認めるようになるものである。(八月二五日)

人は人

人は人、自分は自分である。愛の関係においてをや。あるいはまた徳を建てるなどのことにおいては、人はどうでもよいということは決して言われないが、主に従い十字架を負うことについては、人は人、自分は自分で、他人はどうでもこれに頓着せず、自分は忠実に主に仕えねばならない。あの人よりも自分が多くの重荷を負うている、この人よりも自分が苦しい立場にいるなどと、人との比較をとると、決心が鈍るか、さもなくば高慢に陥る。ペテロが主より将来十字架の死を受けて、神をあがめるようになることを聞くやいなや、そばにいたヨハネをかえりみて、「主よ、この人いかに」と言ったが、主は「なんじに何のかかわりあらんや。なんじはわれに従え」と仰せられた(ヨハネ二一・二二)。主に従うことは、主と自分との個人的関係である。神は十人十色、めいめいに応じて異なった仕方によって人を扱いたもうのである。人めいめい負うべき十字架を異にし、働きにおいてもその賜物を異にしている。われらは人に頓着せず、「日々おのが十字架」を負うて、忠実に働けばそれでよい。(九月一〇日)

自殺は罪なり

近ごろ信仰に入りしある人、汽車の中の人もしげきところで、記者に面会し、談話中問うて言う。
 「自殺は罪ですね」
 「そうです」
 「それじゃ、あの人も罪人ですね」
 「実にそうです」
近ごろ堂々たるキリスト信者の中に、世間の反対を恐れて、乃木大将の死についていいかげんなことを言って調子を合わせている者があるが、嘆くべきことである。人々の感情が高まっている時に、何も反対説を言い立てて騒がす必要もないが、理非曲直は明白にしておくべきである。神のみことばより言えば、大西郷の内乱も、乃木大将の自殺もみな罪である。少しも行為そのものはほむべきものではない。「もし人神の宮をこぼたば、神彼をこぼたん。そは神の宮はきよきものなればなり。この宮はすなわちなんじらなり」(一コリント三・一七)。

予が自殺に反対する理由は、殺すなかれとの戒めよりも、むしろこのみことばである。殺すなかれとは人殺しである。欧米人はこのみことばをあまり応用しすぎる。新渡戸博士は、聖書には自殺を禁じてないと言われたが、神の宮云々を見のがしたのであると思う。かく明白である以上は、大いに自殺に反対すべきである。ただに瞬間的自殺に反対するのみならず、漸次的自殺、すなわち不養生のため自分の体をだんだん弱めているようなことにも反対すべきである。よみがえりのあかつきにわかるだろうが、死亡者の大多数はこの漸次的自殺者である。ああ大いに注意すべきである。(一〇月一〇日)

無教会か無教派か

教会は教会、教派は教派である。教会と名のっている教派がある。しかし教派は教会ではない。教会は神のものである。教派は便宜上人間が立てたものである。教派は必ずしも悪動機より起こるものではない。その中には聖霊の指導のもとに起こったものもある。教派には幣害があることもある。その幣害があるために、無教派をとなえる人に対して、われらはことごとく反対しない。しかしそれが極端に走り、無教会主義をとなえ、伝道界の無政府主義をとなえる者には、われらは極力反対するものである。主は聖徒の孤立を許したまわない。相交わり、一つになることを命じたもうた。この交わりに入るには必ずしも何々教会ととなうる教派に属する必要あるとは言わない。ただ主の名によって相集まるところに、主を中心として集まるべきものである。この意味において、主があがめられる教会なれば、いかなる教会にてもよし、そこに出席すべきである。されば必要の場合には無教派を叫んでも、けっして無教会を口にすべきものではない。「教会は彼のからだにして、彼はそのはじめなり」(コロサイ一・一八)。

横道の宗教

シオンの大路を歩むわれらは、横道に入らぬよう注意すべきである。四、五世紀ごろにある神学者らが、針の先に天使が幾人とまりうるやを議論したとあるが、これは横道である。教会問題、安息日問題、対外国人問題、服装問題、その他直接救霊に関係なき問題につきて、力こぶを入れているのはそもそも本心を誤ったものである。「愚かなると無学なる弁論を避くべし」(二テモテ二・二三)とは、これを戒めたのである。もしわれらは主をあがめて聖書を熟読し、聖霊をあがめているならば、けっして横道に踏み込むものではない。(一一月一〇日)

信仰の突飛的行動

今はあまりに常識呼ばわりをするために、信仰一点ばりで通す人が少なくなったことは嘆くべきである。それは無常識のやり方である。一言いわれると、ちょっと遠慮する風がある。されば信仰界に斬新なことも起こらず、神の著しい栄光も現われず、きわめて平凡である。「信仰によりてアブラハムはその受け継ぐべき地に行けとの命をこうむり、これに従い、その行くところを知らずにいでたり」(へブル一一・八)。かかる行為は常識より論ずれば無謀である。しかし由来信仰なるものは、かかる突飛的のものである。すべての人を偽りとするも、神をまこととする無法のものである。信仰は無遠慮のもの、冒険的のもの、死にものぐるいのもの、超常識的のものと心得べきである。この筆法でいくならば、図抜けて偉い信仰家、学者も持てあますような熱心家、または「世は彼らをおくに堪えず」とあるごとき証人が起こるに相違ない。しかし注意すべきはかかる信仰の根拠である。いっぺんの感情やとっさの印象ではいけない。万来不易のみことばを土台としたものでなければならぬ。ああ、かかる盲信家がますます多く起こらんことを祈るものである。

聖潔伝道の障害

聖潔を宣伝する者に反対する側の方を見るならば、この障害となるものはたくさんである。その障害を除く前に、まず自分の側にある障害を除くことに努めなければならない。それにも種々あるが、一つは先方を裁くことである。「なんじなんぞその兄弟をさばきするや、なんぞその兄弟を軽んずるや」(ロマ一四・一〇)。たとい先方は恵みに浅くとも、眼下に見おろすべきものではない。静かに愛をもって伝道すべきである。これキリストのからだなる教会が成立せんがためである。聖潔の必要を知らしめるために、その中にある罪と汚れを指摘しなければならぬ。しかし破壊的態度でなく建設的態度をもってすべきである。とかく聖潔は恵みでなく律法になりたがるものである。われらの説くところの聖潔は、律法的傾向を持たぬように注意すべきである。この光によって進むならば、聖潔について勝利を得るようになるのである。(一二月一〇日)

直訳的伝道法

現今わが国に行なわれておる伝道法は、みな欧米の模倣である。日本的ととなえる人々のそれさえ西洋風である。さればなんとなくもの足らない心地がする。救霊事業が遅々としてふるわない原因は、伝道者自身が何を伝うべきかを知らぬ点でもあるが、いかに伝うべきかを知らぬためでもある。聖霊に満たされるならば、それでよいと言えばそれまでであるが、「知恵ある者は人を捕う」(蔵言一一・三〇)とあるから、知恵が必要である。この知恵がないために、いかに熱心に伝道しても、わが国民の実際生活に触れていないようである。説教のしぶり、教会の建築、集会の仕方など、すべて直訳的であって、いかにも難渋である。一口に言えば、多数の人は宗教らしいと見てとらぬのである。ありがたい神を信ずる宗旨であると思っていないのである。さればこの点につき、神の御指導のもとに、伝道法の大改革をなすべきである。主は近き将来において、新しき道を示したもうことと信ずるものである。

魔術

近来流行するところの催眠術、精神的治療、またはある腹式呼吸などは、聖書で固く禁じている魔術のたぐいである。これらは何も新しきものではない。昔のエジプトなどに盛んに行なわれたものである。悪魔をば「神の真似をする猿」と言うが、かの魔術師もキリストの奇跡ぐらいは自分らでもできるごとくに言いふらし、自分らを高めるか、キリストを低めるか、どの道にせキリストの先駆者のごときことをやっている。されば神は「なんじらのうらない師、なんじらの夢見る者、なんじらの法術士、なんじらの魔法士に聞くなかれ」(エレミヤ二七・九)と告げたもうた。また「魔術をなす者は……火と硫黄の燃ゆる池にてその報いを受くべし」(黙示録二一・八)とある。さればかかることは絶対に禁ずべきである。(一二月二五日)