一九一三年(大正二年)

中田重治

今年の異端

われらは預言者でないけれども、時の傾向またはしるしにより見るに、今年の悪魔はいかなる異端を流布して、神の民を惑わさんとするかが幾分かわかるのである。「御霊明らかに言う。のちに至らば、ある人信仰の道より離れて、人をまどわす霊と悪鬼の教えに心を寄せん」(一テモテ四・一)。

その一つは無地獄説である。神は愛であるから決して人間を滅ぼさない。もし一時懲らしめても、愛の神であるから、ついに救うとか、消えてなくなり無感覚になるとか申すのである。また諸教会が一つになるという美名のもとに、悪魔は「善をかりて偽りを言い」、かくして清濁を合わせて一つとなし、キリスト教を不得要領のものとしてしまう。ユニテリアンが統一教会という名で現われたのは注意すべき点である。また他宗に対しては寛容であるべきをもってし、信者、伝道者を意気地のないものにするかもしれない。これらの異端邪説は、近来世界を通じて行なわれている。さればわれらはこれらを破るには、聖書と実体験に照らし、聖霊に満たされて証しすべきである。「愛する者よ、すべての霊を信ずるなかれ。その霊神よりいずるやいなを試むべし」(一ヨハネ四・一)。(一月七日)

少数党の勝利

「小さき群れよ、恐るるなかれ。なんじらの父は喜びて、国をなんじらに与えたまわん」(ルカ一二・三二)。

当時における小さき群れは主の弟子らで、数においては実にわずかであった。しかし万軍の主は彼らの後ろ盾であったから、彼らによって福音は全世界に伝わるようになった。昔より今に至るまで、神の側に立つ少数党は、世の側に立つ多数党より勝利を得ている。カナンを探偵せし十二人中の十人は、信仰よりも物質的勢力を重んじ、統計的実力を重んぜしため、カナン征服不可能説をとなえ、ついにイスラエル人を砂漠に葬むらねばならぬことになった。しかし少数党なるカレブとヨシュアは断乎として神を信じ迫害を意としなかった。されば彼らは約束の地に入ることができた。また神のみを頼りとしたるギデオンの三百人は、十三万五千人のミデアン人を皆殺しにした。また神の人エリヤは偶像教の神官僧侶八百五十人と、祈りの力比べをしてこれに勝った。これらは日本に散在せる少数の純福音宣伝者にとりて大いなる鏡である。六千万の生霊にいかにして福音を伝うべきか。人数や金高より割り出すならば、実に心細きことである。しかし百二十人を用いて、一日に三千人を救いたまいし聖霊が共にいましたもうことを信ずるならば、最後の勝利はわれらのものであることを知ることができる。(一月一六日)

悪魔の狡猾手段

悪魔は過去六千年間人類をだますことのみ熱心にやって来たから、なかなか巧みである。われらは彼のはかりごとを熟知していなければ、思わざる不覚をとることがある。彼は未信者には未信者のごとく、信者には信者のごとくその詭計を用いるのである。彼は光の使いのごとく変ずるとはこのことである。目下われらは油断しあたわざる一事に遭遇している。すなわち彼は一種の美名のもとに、偶像を拝ませんと努めていることである。便宜上または統一上、どんなに都合がよくとも偶像を拝してはならぬ。よし祭られている者は英雄でも偉人でも、天下国家に功労ある人でも、神とし、または神らしく祭っているならば拝んではならない。「わが愛する者よ、偶像を拝するわざを避くべし」(一コリント一〇・一四)。偶像を拝するそのことだけのもので深い意味もないようであるけれども、おぼえず知らず悪鬼を拝していることに気付かねばならない。「われ言わん。異邦人のささぐるものは神にささぐるにあらず。悪鬼にささぐるなり」(同一〇・二〇)。偶像の後ろにいる魔物に気付くならば、いかなることであっても偶像より遠ざかるべきものである。この他の悪魔は種々の方法手段をもって神の民を惑わし、神を信ずる信仰を薄らがらせ、巧みに自分を拝ませているのである。教育事業だの、社会事業だの、政治運動だの、または何々の研究などという、直接救霊に関係のないことに力こぶを入れるキリスト教伝道者の多くが、俗化したり堕落したりするのは、みなこの悪魔の手段に陥るので、実に恐るべきことである。(一月三〇日)

六千万人をいかんせん

わが国民の大多数は、開教五十年後の今日においても、いまだ福音の恩沢に浴していない。これを思う時には寝ても寝つかれない。新教徒はわずかに一万人足らず、ひとりに六千人の未信者を相手にしなければならぬ勘定である。人口は一年に五十万もふえる。しかし一年間の受洗者はその百分の一にも満たない。全教会の信者がことごとくきよめられ満たされるまで、未信者伝道を控えようか。いないな、そんな迂遠なことをしているうちに、大多数は永遠に滅んでしまう。教育や矯風事業に従事して、間接に勢力を拡張し、次の時代の人を教化する根拠をつくろうか。いないな、主の再臨の間近き頃に、そんな呑気なことをしておられない。しからばいかにすべきか。「なんじらのひとりは千人を追うことをえん。そはなんじらの神エホバ、なんじらにのたまいしごとく、自らなんじらのために戦いたまえばなり」(ヨシュア二三・一〇)。秘密はそれである。伝道の精神に燃えたる各自は多数を恐れず、万軍の主によって手当たり次第伝道すべきである。されば近き将来においては、凱歌を奏することができると信ずるものである。

腐敗せるキリスト者

われらは今日に至るまで、絶えず教会内の異端と俗化と戦い、キリスト者の風儀についてきびしく論じ来たりしものである。それがために諸教会から撹乱者をもって目されておった。しかるにいよいよ悪風が伝播するので、その害毒を自覚せる者がポツポツ起こるようになった。その腐敗の一斑と言うならば、喫煙飲酒のごときは平気でやっている。はなはだしきに至っては、蓄妾している者があっても献金額が多いため、地位が高き人であるため、教会としてずいぶん下等なことをやっているところがある。たとえば婦人会の名で演芸会を開き、芸妓の手踊りなどをやる者あり、また牧師が年会に出る費用を得るため、講談師を招いて木戸銭を取ったりする者がある。これは他の教会のことであるから、いらざるせわをやくな、自分の教会さえよければよいではないかと言えばそれまでであるが、いやしくもキリストの花嫁なる全教会を思うならば、黙しておられぬのである。こんなことでは日本を救うどころか、自分らの救いさえおぼつかないのである。「彼らわがきよき名を汚せり。……われわがきよき名を惜しめり。……わが国々の民の中に汚されたるわが大いなる名、すなわちなんじらが彼らの中にありて汚したるところの者をきよくせん」(エゼキエル三六・二〇、二一、二三)。かかる聖潔が教会内に起こるよう祈るべきである。実に血と火の聖潔のリバイバルが起こらなければ、教会はますます腐敗するのみである。

聖書風と西洋風

キリスト教の伝播と共に、いらざる西洋風まで輸入して来た。これ大いに排斥すべきである。信者になると妻君の鼻息が強くなり、お手伝いまで権幕が恐ろしくなる傾向がある。信者の家においては、ルツ記は愛読されねばならぬ。「妻はすべてのこと夫に従うべし」(エペソ五・二四)との命令は、文字どおり実行されねばならぬ。「新しき婦人」などと呼ばれるこの時代であるから、信者なる姉妹らは聖書的婦人の真価を発揮し、嫁として、妻として、母として、神の栄光を現わすようにしなければならぬ。(三月一三日)

いわゆる宗教運動

近ごろ、さまざまの宗教運動なるものが起こり始めた。信者および教役者が、いちいちこれらに関係しているならば、忙殺されてしまうようである。これらは正しき動機よりきたり、正しき方法によって神をあがめることならば、われらは喜んで賛成するものである。しかし主の御目的なる救霊以外のことに走らぬよう心がくべきである。これらの運動中にてずいぶん乱暴なものがある。わが国の国情をも信者の実力をもわきまえず、大仕掛けの米国流でどしどしやらんとするようなこともある。遠来の宗教家の交わりの点において大いに歓迎せねばならぬ。しかしその説または方法に、いちいち従わねばならぬことはない。交通の便がよくなったから、観光がてら種々の人が来る。幾人でも来るがよい。けれどもわれらとしては、かの人々の宗教運動なるものには非常の警戒をしなければならぬ。誤解せられては困る。われわれは排外主義でないから。ただ憂うるところは、かかる運動によって世俗的となり、バベル塔式になり、白き墓主義になるからである。

とかく日本人は創作的才能に乏しく、万事模倣的である。キリスト教界もまた直訳的でまねごとのみを行なっている。これではいけない。聖霊の御導きのもとに、人々を罪より救うことにのみに勢力を集中して、余事に関係せぬようにしなければならぬ。(四月一〇日)

伝道不振の原因

田は色づいて収穫時となっているけれども、伝道界は依然として不振の状態である。ある者はその原因を外部の圧迫冷淡に帰している。「今の世は悪し」。これは昔も今も変わらない。けっして現代の日本のみではない。かかる原因が除去せられるのを待っていては、何年たってもだめである。「この世とその欲とは過ぐるもの」(一ヨハネ二・一七)である。しかし今の世が終わりに至らぬうちに伝道せんとして苦心するのである。ある者はこの定住地のがんこ、または道徳の腐敗をもってその原因としているが、かかることはパウロが、「その町こぞりて偶像に仕うるを見て、いたく心を痛めたり」(使徒一七・一六)とあるごとく、伝道者の心を振起せしめはすれ、けっして不振の原因となるものではない。ある者は金の不足であるとしている。金がなければ不如意である。しかし不振の原因ではない。パウロは天幕を造りつつ盛んに伝道した。あれやこれやを言うけれど、みな枝葉で、不振の原因として認むべきものではない。要するにその原因は外部にあらずして、伝道者および信者にあると思う。信仰から言えば、世間の宗教や修養法以上のものをもっておらぬからである。されば社会を指導しえないで雷同し、先手を打たずに後手を打っているのである。霊性から言えば全ききよめを味わうておらぬから、世のいわゆる道徳家と甲乙のないような、むしろある点においては劣ってはいるから、世人は少しも注意しないのである。まれにあると思って見れば、従来他宗を熱心に信仰しておったものでなく、無信心者か、さもなくば珍しいものずきの青年である。このありさまでは確実の占領はおぼつかない。どうしても不振の原因は各自の心中にあるから、これを聖霊の火にて焼ききよめ、全き愛にて満たされなければならぬ。「幼な子よ。なんじらは神よりいで、また彼らに勝つことをえたり。そはなんじらのうちにおるものは、世のうちにおる者よりも大いなるによりてなり」(一ヨハネ四・四)。この御方が心中に宿っているならば、外部にいかなるものがあっても、勝利をえることができる。いまはリバイバルが各自の心中に起こらねばならぬ時である。

大いに軍備を拡張すべし

魂は日々に滅んでいる。神の子らは光のよろいをまとって奮起すべき時である。この聖戦に当たるところの伝道者となるに、二つの道がある。世の兵士のごとく徴集せられるものと、志願するものと二つである。主の方からわれに従えと仰せられることもあり、人の方からわれ従わんと申し出ることもある(ルカ九・五七、五九)。十字の軍に加わることは信者の光栄である。されば志ある者は却下せられることを念頭におかず、願い出るがよい。いまや東洋宣教会は大発展をなさんとて、大いにこの種の人を募集している。しかし断じて、雇い兵は採用しない。真の報酬は主の再臨の時にある。(五月一日)

革命日

ペンテコステの日は使徒らにとりて、大革命の時であった。彼らの古き人は死刑に処せられて、全然聖霊に占領せられた記念の日となった。その革命は「信仰をもてその心をきよめ」(使徒一五・九)とあるごとく、うわべでなく内部のものであった。「甘きぶどう酒に満たされたる者」(同二・一三)と人々に言われたごとく、彼らは天来の霊力に満たされたのである。この日には霊と肉との間に、はっきり線が引かれた。爾来主の民はみなこの革命にあわなければ、聖徒たるの資格がない者となったのである。ペンテコステの火のバプテスマのみが、信者を肉の思いからきよめるものである。この火を受けたものでなければ力がない。この革命の火を通った者でなければ、霊界にあって活動することができない。血と火の革命旗がひるがえるところにのみ、勝利を見ることができる。ああ、ペンテコステの革命、これはわが国の諸教会にとって実に必要なところのものである。(五月八日)

根気強き伝道者

植民事業は立ち回りの敏捷なフランス人には失敗で、ねばり気の強いイギリス人には成功である。伝道もかくのごとくで、才子肌の人よりも、呑気で根気強い者が成功するものである。あたかも魚釣りのごとくである。釣れないからとてあまりたびたび場所を変える者は、一尾も釣りえぬようなことがある。「風をうかがう者は種蒔くことをえず。雲を望む者は刈ることをえず」(伝道の書一一・四)。境遇や事情に頓着しすぎると、何をもなすことができない。「なんじあしたに種を蒔け。夕べにも手をやすむるなかれ」(同一一・六)。かくする人はついに勝利をえる人である。「なんじ道を宣べ伝うべし。時をうるも時をえざるも、励みてこれを努むべし」(二テモテ四・二)。

牧師と教会員

牧師は先達である。その羊をば緑の野、またいこいのみぎわに伴うべきである。牧師は幇間(たいこもち)ではない。お座敷持ちではない。権威と愛をもって、信者を導く大責任あるものである。金や情実のために動いてはならない。神に代わってそのみこころを伝える預言者であらねばならぬ。信者はよろしく左のみことばを服用すべきである。

「なんじらを導く者に従いて服すべし。彼らはおのがことを神の前に訴うべき者なるがゆえに、なんじらのたましいのために守ることをすればなり。彼らを嘆かせず、喜びて守ることをなさしむべし。しからざればなんじらに益なし」(へブル一三・一七)。牧師と信者の間に愛のつなぎがないならば、とても円満に保てるものではない。(五月一五日)

ふたたびくせ直しについて

本紙三四九号に載せたくせ直しという記事につき、愛読者某氏より左の質問を送られたから、いちいち左に答弁するを喜ぶものである。かく本紙の論説を熱心に読まれる人があるのは、記者にとって大いなる励みとなるところのものである。

一、飲食衣服に関するくせとは、衣食に対する好悪の念、すなわち好き嫌いを去れとのことですか。美味美服を求める等の意に解してよろしいでしょうか。

救われ、またきよめられた者の唯一の目的は神の栄光を現わすのであるから、御言葉にあるごとく、「さればなんじら食らうにも飲むにも、何ごとを行なうにも、すべて神の栄えを現わすように行なうべし」(一コリント一〇・三一)との命令に従うべきである。また「衣食あらばこれをもて足れりとすべし」(一テモテ六・八)とある。少しにても自分をよく見てもらうとの心から着飾ること、また必要以外に飲食し、そのほか好き嫌いのはなはだしい人は、恵みに入らぬ人か、それとも恵みに浅い人である。ここに注意することは、われらは「さわるなかれ、ふるるなかれ」(コロサイ二・二一)との律法の下にないことである。要は神がご覧になっても恥ずかしくないなら、何を食べても何を着てもよいのである。

二、遊戯に関するくせとは、一切の遊戯を捨てて、神以外に楽しみをとるなという意でしょうか。(謡曲のごときものはどうでしょうか)。

遊戯も前述のように、必要以外になすべきものではない。体育のためならばある程度、道楽にならぬ範囲においてなすべきである。しかし常に聖霊をあがめていなければ、いつのまにかこれに耽るものであるから注意すべきである。謡曲のごときは多くは仏教に関することであるから、聖徒としては歌うべきものではない。「互いに詩と歌と霊に感じて作れる賦とをもって語り合い、また歌いてなんじらの心に主を賛美すべし」(エペソ五・一九)。謡曲の曲が悪いのでないから、その曲によって主を賛美する文句を作って歌うのがよいと思う。かつて記者は浪花節、または薩摩琵琶を着用してはどうかと言ったのはこの意味である。主をあがめぬ一切のものを捨てる覚悟をもっておるならば、間違いが起こらぬものである。

三、同志中に新聞雑誌等、多種多読のくせがある者がある。信仰上さわりなきものでしょうか。

大いに妨げとなるものである。乱読の結果、知らず知らず思想の混濁を来たし、挽回することのできない悲境に陥った者が幾人もある。「なんじら慎むべし。おそらくはキリストに従わず、人の伝えと世の小学に従い、空言なる理学をもってなんじらの心を奪わん」(コロサイ二・八)。これもやはり必要なるもののみにとめておくがよい。乱読の人は聖書を愛読すること、祈祷をすることを、おっくうに思う傾向がある。されば聖徒たる者は断じてなすべきものでない。ある人は日常の新聞さえも読まぬのは、これがためである。

とかく神以外のものは何ごとにても、うっかりしていると偶像になる傾向があるから、大いに警戒しなければならぬ。されば極端に申すようであるが、諸芸諸知識に達し、飽食暖衣して地獄に行くよりは、無芸無能、貧乏で天国に入るほうがましである。この真意がわかる人は、救いの邪魔になるもの、恵みの成長の妨げとなる一切のものを排斥するのは当然である。(六月二十二日)