煙の宗教
「われ上なる天に不思議を現わし、下なる地にしるしを現わさん。すなわち血あり、火あり、煙あるべし」(使徒行伝二・一九)。
現代におけるキリスト教会の奇跡は、血によって現わされた新生のわざである。また火によって現わされた聖潔のバプテスマである。血と火のあるところには救わるる者、きよめらるる者が必ずある。血と火のない教会は生きておらぬものである。しかしこの末の日に要するものは煙の宗教である。火のあるところには必ず煙がある。これは宗教の天的示威運動である。聖書にはこれを「雲のバプテスマ」(一コリント一〇・二)と言っている。ストーブやかまどの下に燃えている火にはだれも驚かない。しかし一時に数千の人を騒がすものは火災の煙でないか。いまは煙が必要である。これは統一の煙である。イスラエル人はこの煙の中にみな集まった。すなわち雲の柱である。ばらばらになっている信者や教派も、この種の雲の柱があれば文句言わずに集まるに相違ない。この煙は何であるか。これは大リバイバルである。この煙は祈りの集団である。「香りの煙、聖徒の祈りにそいて天の使いの手より神の前に昇れり」(黙示録八・四)。祈りが満ちなければリバイバルは決して起こらない。これはまた神の力である。「神の栄えと力よりいずる煙宮に満ちたり」(同一五・八)。この煙はいまは恵みの煙、栄えの煙である。しかしこの恵みを軽視する者にとりてはやがて怒りの煙となりて現わるるのである。「いかなればなんじの牧の羊に御怒りの煙あがれるや」(詩篇七四・一)。さればこの怒りの煙あがらぬうちに多くの人々に神の道を宣べ伝えねばならぬ。主よ、栄えの煙を盛んになしたまえ。(一月一五日)
証人の特色
「聖霊なんじらに臨むによりてのち、なんじら力を受け……地の果てにまでわが証し人となるべし」(使徒行伝一・八)
第一、証人は救われたる信者でなければならぬ。未信者や新生の実験なき者は証人となる権利を持っているものでない。第二、証人となるべしとの命令を直接神より受けたる者でなければならぬ。金のために証しする者は雇い人である。第三、証人は聖霊を受けておらねばならぬ。神学を学んでも、金があっても、地位が高くても、証しができるものでない。伝道は正直なるものである。聖霊に満たされておらなければ、その品性また行動において聖潔が現われていないなら、かえって証しを消すようなことになるのである。第四、証人は神の力を受けているものである。聖霊を受けている者は必ず大胆であり、人を説破し、ひきつくる力がなければならぬ。これは全き愛である。愛は力である。愛に敵するものはない。第五、証人の教区は全世界である。事情や人情に制限せられていては証人になれるものではない。自国だの、自分の教派だの、同族だのというものに自由を束縛せられては証しは思う存分できるものでない。第六、証人は殉教者である。この二つのものは同意である。証しするにいろいろの方法がある。しかし最善の道はいのちを捨て、証しすることである。いのちを賭して証しする者が起こるなれば、至るところにリバイバルが起こり、たましいは救われ、きよめらるるのである。前述の力は爆裂弾である。爆裂弾を投ずる者は、おのが身をそれがために砕く覚悟でやらねばならぬ。ああ、願うところは、この爆裂弾の爆発はいよいよ大いになり、天下騒然たるありさまとならんことである。(一一月十九日)