一九一六年(大正五年)

中田重治

教役者の待遇

教役者は公衆のしもべである。しかし彼らによりて救われたる信者は、これに対して敬意を払い、その乏しきところを補うべき責任がある。聖書には教役者を、「重んずべし」(一コリント一六・一八)、「尊ぶべし」(ピリピ二・二九)、「かえりみ……愛すべし」(一テサロニケ五・一三)、「思え……、服すべし」(へブル一三・七、一七)とある。かかる態度は教役者から信者に要求してもまずい。教役者はあくまで謙遜であらねばならぬ。しかし信者としては、御言葉の光によりてこの命令に服すべきである。近来はとにかく教役者を月給で雇うておくように思う者があり、何かと批評の的にする風があるのは嘆かわしいことである。教役者は月給の多少によりて動くような風があるから、その間に尊敬もなく親愛の情もなくなるようである。教役者としては、収入のいかんによらず、神を見上げて忠実に働くようになり、信者も教役者に対する態度を改むるなれば、教会はますます繁盛し、神の栄光が現わるることを信ずる。聖潔の教会はよろしくこの善例を示すべきである。(一月二七日)

戦争と教勢

戦争は悪魔のリバイバルである。このたびの戦争で得意になっている者はたくさんあるが、悪魔はそのチャンピオンである。陰府のみはいつもより繁盛していることだろうと思う。これがために打撃を受けている者もたくさんある。その一つは、キリスト教の宣教運動である。全世界の伝道地は少なからず打撃をこうむっている。米国などは、この戦争で莫大な金を儲けているから、米国に関係のある教会は、少しも悪影響を受けておらぬはずであるのに、実際は非常に損害を受けている。その理由はこれである。すなわち「地にては諸国の人悲しみ、海と波との鳴りとどろくによりてうろたえ、人々恐れつつ世界に来たらんとすることを待ち悩むべし」(ルカ二一・二五、二六)とあるごとく、なんとなく恐れているのである。ちょうど乳牛が近所に火事があったり、嵐でも吹いたりする時に恐るるため、普通より乳の出が少ないようなものである。人々はただ戦争、戦争で、朝から晩まで気を奪われ、その他のことに手がつかぬというありさまである。しかしわが国は幸いにして、戦争の渦中から遠ざかっているので、騒ぎが少ないから感謝である。この時こそ聖徒は総がかりで伝道すべきである。諸外国から来る軍資金は欠乏しているが、全能の神を見あげて戦うなれば、勝利をうることは遠き将来のことではない。今のこの時代に日本を教化することができると信ずるものである。私は主の御栄えのために、日本の聖徒に警告することはこれである。戦争のため外国から来る金が少なくなったために、教勢が衰えたとあっては大恥辱である。されば克己奮励して軍資金を神に献じ、いつよりも力を尽くして活動すべきである。(二月二四日)

自給の精神

自給の精神にも種々ある。外国人との関係を断ちたいため、あるいは自分の教会は自給しているぞといばりたいため、あるいは大会などに代表者を出して、発言権や投票権を得たいため、あるいはいかなる風波が起こっても伝道にさしつかえなく、また進んで他にも伝道せんがため自給する者がある。われらはこの最後の動機をもって最も穏当にして聖書的のものであると信ずるのである。動機が正しくなければ、よし自給教会となっても、かえって俗化するのみで、進歩が止まるようになるのである。自給は急ぐべきである。しかし肉の元気で無理にすれば、かえって重荷となるものである。自給教会という名はありながら、何年間も無収でいたり、はなはだしきは教会の維持が困難になって、会堂を抵当にして金を借りているものがある。これは無理自給の結果である。真の自給の精神は、愛魂心であるなれば、十一の献金は無造作に行なわれ、優にすべての費用を支払って他にも及ぼすことができるようになるのである。

日本にある聖潔の諸教会は、年月がたたないから、自給教会は比較的少ないが、これがために大いに奮起し、信仰によりて自給教会となるよう(一日も早く)努むべきである。(三月九日)

やかましい神社論

この問題はずいぶん注目せられてきた。本紙は思いきり論じあたわざる理由を、読者諸兄姉は推知しおらるることと思う。神社は宗教であるやいなや。言うまでもなく宗教学の上から申せば宗教である。私は左のたとえをもって諸君に私の心情を吐露するものである。

薬屋や医者の調剤所に単舎利別なる薬がある。それは薬を調合する時に用いるものであって、単に砂糖水である。それを知らないある書生は、医者の書生となり、初めのうちは単舎利別をもって、何か高価の薬でもあるかのように思っていたが、砂糖水であることがわかってから、ないしょで失敬するようになり、主人よりお目玉をちょうだいしたとのことである。単に名ばかり見ると、薬屋でなければ買われぬように思うけれども、その内容さえわかれば、砂糖屋で買うほうが早道である。

元来宗教であるものを、何かの政策上宗教でないというのは変ではないか。砂糖水を単舎利別と言うのは、医者仲間の通用語で、それは一般に用いる語ではない。また砂糖を好まない人に向かって、それは単舎利別という薬であるから用いよと強いるのもおかしい。

また下戸も上戸も、単舎利別を用いよと命令するのもおかしい。ちょうど砂糖も塩も政府の専売であるけれども必ずこれを用いよと命令しえざるようなものである。

この際キリスト信者はあいまいな態度を取るべきでない。ダニエルのごとく、自己の信ずる神のみを拝むべきである。いかなる形式や権威を持って来るにせよ、すべての偶像またそれに類したものを排除すべきである。(三月二三日)

聖徒の世間観

聖書は今の世をば(六千年前、人間が罪を犯してエデンの園より追い出されて以来今日まで、また今後キリストが地上に再臨するまで)、悪しき世と申している。「キリストはわれらの父なる神の旨に従い、今の悪しき世よりわれらを救いいださんとて、われらの罪のためにおのが身を捨てたまえり」(ガラテヤ一・四)。信者が救い出さるるとは、もちろん罪より救い出さるるものであるが、同時に世からも救い出さるるのである。世が恋しいうちは救い出さるるものでない。「われなんじらを世より選びたり」(ヨハネ一五・一九)。新たに生まれた神の子になるは、世にあいそつかさるるのを待つまでもない、自分であいそをつかし、世と離縁せねばならぬ。「われらの国籍は天国にあり」(ピリピ三・二〇)とあるごとく、この罪の世から神の国に移るのが信者になることである。さればある意味においては、世間から非国民視されることを覚悟してかからねばならぬ。そんなことが恐ろしくては今後の勝利はおぼつかない。信者が途中で信仰をやめるのは、はじめ思いきって世と縁を断たないからである。この思いきりがどうしてできるか。聖書によりて、この世はやがて滅亡されるものであると信じなければならぬ。「来たらんとする怒り」(ルカ三・七)とはこれである。

教会とはなんであるか。その原語の意味は、召し出されたるものということである。すなわち世から呼び出され、選び出されたる者の集合体である。されば教会は聖なるものでなければならぬ。エペソ五・二六、二七の教会は理想的のものである。キリストの大目的は、各国民各種族の中からひとりひとり選び出し、これを教会という新しき団体に属せしむるのである。されば厳密に聖徒を人種別にするなれば、教会という新種族、特別団体であるとするのが当然である。この教会が必要であって世の中に進入するが、世と混合すべき性質のものでない。俗化せる教会、または世と妥協せる教会は、全く教会としての資格あるものではない。

全くきよめられたる聖徒とは、世を慕う心を全く根から取り去られたる人を言う。世にほめられたいという心が少しでもあるうちはきよめられておるのでない。かかる人はやはり俗物である。「このキリストによりてわれ世に向かえば、世は十字架につけられ、世のわれに向かうもまたしかり」(ガラテヤ六・一四)。世は聖徒にとりては死骸である。死骸を愛する馬鹿者もないはずである。しかし信者中にも往々あるが、あれは世離れがしないからである。

しからば聖徒は社会に対してどうするか。この世を救うとか、社会を改良するとか途方もないことを言うものではない。聖書をどんなに探しても、この世を救う句など一句もない。

「われも彼らを世につかわせり」(ヨハネ一七・一八)。かくつかわされたのは証しのためである。その結果によりて彼ら個人の魂が救われんがためである。むしろ「なんじらこのよこしまなる世より救いいだされよ」(使徒二・四〇)と警告のためにつかわされたのである。されば聖徒が世にあるは世のためにはならない。世にとりては害である。さればこそ迫害が起こる。「これによりて世なんじらを憎む」(ヨハネ一五・一九)。もし世に愛せられている聖徒があるなれば、それは変調子の者である。

「世は彼らをおくに堪えず」(へブル一一・三八)。かくあるは当然である。

聖徒が堕落するは、多くは世との関係である。「デマスこの世を愛し、われを捨て・・・・・・行けり」(二テモテ四・一〇)。世を愛するとは、必ずしも世の楽しみとか財と限ったものでない。聖書と異なりたる世界観を有し、神の領分にまで足を入れ、現社会を改良して神の国にするなどと思う人は、とかく俗化するもので、これが世を愛することになるのである。おお、聖徒よ、世はつまらぬもの、頼みにならぬものと知り、ただひとりにても多く世人を盗み出して、天国に同伴することを努むべきである。(八月一〇日)

治国平天下の宗教

日本におけるキリスト教教役者の大多数の(いわゆる先輩)は、みなこの国のためにとか、この蒼生をいかんせん、などと考えたところから、宗教の必要を感じて教役者となったので、治国平天下はその題目で、またその動機である。このことを考うるときに、彼らは一種のインスピレーションを受くるのである。されば彼らをして血をわかしむるほどに感ぜしむるものは、国家問題とか民族問題とかである。されば反対者からキリスト教が国家に害あるものだなどと言われると、あたかも敵に中堅でも突かれたように感じて、やっきとなって弁護に努むるのである。あまりに見くびったような言い分であるが、かの人々が少しは活動しているのは、この愛国的熱情があるからである。冷静に聖書の立場から観察すれば、真にお気の毒と申すよりはほかにことばがないのである。「キリストの愛われらを励ませり」(二コリント五・一四)との句は引照するけれども、その愛をいっさいの罪人のために死にしところの愛とは見ずして、かの愛国的気分としてとっておるようである。むべなるかな、日本のキリスト教が俗臭をおびておることは。純キリスト教はかかることから超越して、この世の国も天下も罪の世であると観じ、キリストの血によりて、来たるべき新天地へはいるように人類を導くというところから割り出すのでなければ、とても純粋の伝道動機と申すことはできない。「聖霊なんじらに臨むによりてのち力を受け……わが証人となるべし」(使徒一・八)。この聖霊は天地正大の気でもなく、こう然の気でもなく、キリストの贖罪の血によれる天父が約束せる特種の霊である。

明治の初代において伝道者となった人は、まちがっていても、この元気があるからいまでも奮闘している。しかし近来の青年伝道者は愛国的の風もなく、さればとて聖書的に満たされておるのでもないから、実にお粗末なものが多く、意気地のないものが多い。いまは日本霊界の危機である。大革新を要する時である。キリストの愛に感じて泣き、聖霊の感動によりて奮起する者が起こるべき時である。

事業を聖別せよ

すぐるころ記者が牧せる教会のある会員が、事業拡張のため若干の金を手にいれた。彼はその封を切らずにまず私のもとに持ち来たり、第一にこれを主にささげて祈りをなし、主より預りしもののごとくしてこれを善用することにした。私は彼の敬虔なる態度に感心した。すべての聖徒はみなかくあるべきである。しかるにある信者は、信仰は信仰、事業は事業と区別しているが、かかることは贖われし民のなすべきことでない。商人であるなれば、売買のかさなる時、農家であるなれば、種蒔き収穫の場合に、牧師を招きて祝福を乞い、また感謝の祈りをささぐべきである。これ事業を聖別する道である。このほか家を建てる時、長旅に出る時に、とくに主の恵みを求むることは当然なすべきことである。かくしてわれらの信仰は教会内のみあるべきでなく、教会の外に日常の生活に現わさるべきものである。「さればなんじら食らうにも飲むにも何事を行なうにも、すべて神の栄えを現わすように行なうべし」(一コリント一〇・三一)(八月二四日)

諸問題を超越せよ

キリスト教は国家問題だの神社問題だのという、この世の問題にひっからまっているべきものでない。それから超越したものである。国家に害があるとか、社会のためにならぬという者があっても、ハハーアン、そうかなア、と無頓着な態度でおるべきである。キリスト教の目的を露骨に言うならば、この罪の世を改良するとか改革するとかいうのでなく、個人としては天国に移住することで、キリストの御再臨の時まではなんと言われてもコツコツ個人のたましいの救いのために働くものである。さればこの世が恋しくなつかしい人は、とうてい神の子、天国の世継ぎとなれるものではない。いっさいの事物に目を閉じて神を望み、キリストが再来して樹立せるところの神の国のみを待ち望むべきである。そこに着眼せぬ宗教はみな俗臭ふんぷんたるものでお話にならない。(九月二一日)