一九一七年(大正六年)

中田重治

他宗教への敬意

キリスト教以外の宗教は、純キリスト教の立場から見るといかなるものであるか。「愛する者よ、すべての霊を信ずるなかれ。その霊神よりいずるやいなやを試むべし。多くのにせ預言者いでて世に入れり」(一ヨハネ四・一)。されば真理はただ一つで、他はみなにせものであると見るのが適当である。ある教会の監督は、キリスト教でも仏教でも儒教でもよい、これを信ずれば救わるる。つまりはその道の難易の差があるのみであると申している。かかる人はにせ預言者、にせキリストの霊がいかに巧みに働いているかを知らず、登る道は異なれど同じ高嶺に至るものであるとたかをくくっているのである。ゆえに彼らは寛容の徳と称して、神社仏閣に参拝したり、目的が同じであるからととなえて、他宗教に敬意を表し、しかして大いに雅量を示したつもりでいるのである。あにはからんや、彼らは悪魔の詭計に陥っている。他宗教に対して寛宏の態度を示しているうちに、自分の立場が軟化し堕落していることに気づかずにいることは、実に気の毒なことである。われらは同じキリスト教のうちでも悪魔来のものがあると信じている。まして他宗教をや。彼らは世の救済や、人の慰安を説いていても、ひっきょう、念仏でまた一種の狂言である。彼らの誠意なき所作事に敬意を表するは、あたかも義士の夜討ちの物語りを聞いて、ハレルヤを叫ぶようなものである。聖霊に導びかれつつ、仏壇神棚または神社仏閣を見よ。一種の魔気がそこにあることに気づくであろう。「われ言わん、異邦人のささぐるものは神にささぐるにあらず、悪鬼にささぐるなり。われなんじらが悪魔と交わるを好まず」(一コリント一〇・二〇)。されば宗教そのものよりも、うしろにひそんでわざをしている悪魔の存在に目をつけねばならぬ。もしこれがわかったならば、他宗教に対して敬意を払うどころか、全然これを排除することに力を尽くさねばならぬ。(二月八日)

売神罪

世には節操を売る者、信仰を売る者がある。エサウは一飯のために長子のわざを売り(創世記二五・三三)、ユダは金のために主を売った。いまも神を看板に生活している者がある。偶像信者がその神を売って生活していることは当然のことであった。余の言うところはキリスト教会にそれがあることである。神のみわざのために生活することはきよきことである。それは神を売ることではない。しかし神の名を乱用し、信仰を売りものにし、正直なる信者をだまして金を盗んでいる者を売神奴というのである。外国宣教師らのうちにかかる者がある。その宣教地の暗黒面のみを大げさに吹聴して、彼らの好奇心をそそり、金をまきあげんとしているのである。異教国が野蛮国のように、いわゆるキリスト教国に思わしむるのは宣教師が大いにあずかっているのである。彼らの仕打ちが悪いから異邦人の前に神の名が汚されている。世に神をえさにしたり、慈善を食いものにするほど罪なことはない。私はまたもっとも不快なことを見聞きしている。それは在米のある日本人の仕打ちである。彼らは学費などをえるため、自国のボロを外国人の前にさらけだして、自分らが信仰のため迫害せられ、本国にいることができなくて米国に来たなどと並べたて、単純な米国信者らをだまして金を取り上げる。はなはだしきはこれから本国に帰って伝道するからとて旅費をつのり、それを学費に使ったり、あるいは貯蓄している者がある。実に言語同断のことをしている者がある。あとでかの国の聖徒らはあざむかれたることを知り、日本人はみなそうであるかのごとく思い、日本に対する同情をなくしている者さえある。なんと嘆かわしいことではないか。彼らは神の名で詐欺をしているのみならず、自国の体面を汚している者である。日本人のうそつきは欧米人の心霊界でも名高くなっている。いったいなんぴとにせよ、大ぼら吹くのは罪である。「なんじら、ただしかりしかり、いないなと言え。これよりすぐるは悪よりいずるなり」(マタイ五・三七)。私は売国奴が国家から取り去らるるように、売神奴が教界から取り去られんことを祈るものである。(三月一日)

戦後の宗教

このたびの大戦争で各国民はことごとくめざめたと申してもよい。いずれもこうしておられぬことに気づいたと思う。各個人にうぬぼれがあるように、各国民にもうぬぼれがある。正義人道を笠に着たり、科学万能をふりまわしたり、忠君愛国をごじまんにしたり、金のあるのを誇ったり、いろいろの誇りがある。しかしこんどの戦争でこれらは必ずしも頼みになるものでないことがわかったと思う。そこで各自にとりて頼みになるものは、変わらせたまわざる神のみであると自然に悟るようになることと思う。「なんじらもろもろの王よ、さとかれ。地のさばきびとら教えを受けよ(詩篇二・一〇)。神は必ず各国民をさまし、神を信ずる心を起こさせたもうことを信ずる。戦争は悪魔の亡霊である。しかし神は今日までそれを機会となして栄光を現わしたもうたのである。

昔、ドイツの蛮族どもがローマを征服したが、彼らは反対に福音に征服せられた。米国の南北戦争後、キリスト教は異数の発達をした。日本でも元亀、天正の殺伐時代に天主教が盛んに流行した。歴史は未来の予言者である。この戦後各国に必ずリバイバルが起こるに相違ない。わが国民もお国じまんでいばっておられまい。大覚醒をせなければならぬ時が来ておる。罪のために肉体もたましいも弱りつつある国民は、めざめずば滅亡するのみである。戦後の準備としては受けた傷をいやすことも急務であるが、たましいの覚醒は何よりも急務である。これにまっさきに着目する国民も個人も必ず進歩するに相違ない。これに着目するの遅速によりて優劣が定まるのである。(五月一七日)