主の再臨
主の再臨は十年内にあるような気がすると、ある兄弟が申された。われらはある一派のごとく再臨の時を定めて騒ぐものではない。しかし時の徴しによりて考え十年内にあるように思いおることは幸いである。かく考うることは益こそあれ、少しも害あるところのものではない。世はまた泰平になれて腰をおろすことであると思う。かかる時こそ聖徒の目ざむべき時である。再臨の時が切迫していると思うことによって、自己の聖潔を熱望するようになる。また熱心に福音を宣伝するようになるのは当然である。「いましばらくありて来たる者来たらん。必ず遅からじ」(へブル一〇・三七)。このしばらくとある時間をば暦数的に論ずるのと、心霊的に味わうのとは大いに違う。霊的に味わう者には今年中に来たりたもうでも、百年後に来たりたもうでも、信仰には少しも動揺が起こらない。主の来たることの遅速によりて信仰が上下するようでは、まことに主を待ち望む者ということができない。(一月二三日)
再臨信者の色別
わが国において主の再臨を信ずる者を大別すると、教役者に少なくて信徒に多い。信徒に多い理由は金を出して信仰しているのであるから、不得要領でおれない、なんでもことに未来観について徹底したいからである。教派別にして見るとおもしろい現象がある。組合に少ない。その理由は来たるべきキリストどころか、現在生きておられるキリストに対する信仰さえあやしいほど自由神学に毒を受けたからである。しかしものは極端から極端に行く。熱烈に再臨を信ずる者は組合に多くなりつつある。日基にはその神学の系統上多くなければならぬはずである。しかし力こぶを入るる者は少ない。再臨は信ずるけれどもあまり中心的真理であるなど力説すべきものではないと言っている風である。メソジストに至りては沙汰の限りである。彼らほど信仰の不透明なやからはあるまい。しかし婦人の外国宣教師中にはこれを信ずる者が多い。聖公会ではその信条としてこれを信じている。しかし信条として受けているのと、いのちとして信じているのには大いなる差がある。由来聖公会はきわめて包容的の団体であるからなんでもある。バプテストは信ぜねばならぬ教派である。しかしいまのところ教役者中にざん然と頭角を現わし、旗色を鮮明にしてこの福音を証している人を見受けない。まず公然と標榜して信じているものは、プレマス派と東洋宣教会である。かの第七日安息日教会のごときは、主の再臨を極力論じているようであるけれども、かの派の再臨観はわれらとは異なっている。注意すべきは内村氏の無教会派がこの信仰を力説するようになったことで、天下の再臨信者を決起せしむるに大関係のあるものである。
大観すれば再臨の信仰の前にはカルビン派もない、アルミニアン派もない。みな一つの望みにおいて結合している。虹は七色あってうるわしい。しかし七色ある円形の器を急に回せば白色に見えるごとく、各派がその特色を発揮しつつ再臨の望みにおいて一つであれば、その特色が隠れて、ただ主の聖潔のみが見えるようになる。(一月三十日)
千年王国の農業
いまの世は罪のために呪われたる世である。されば軍人だの裁判官だの、医者だの、また伝道者などの変に処する役目が必要である。しかしキリストが再臨したもうて、この地上に天国を建てたもうなれば、かかる職業が不要になる。われらの伝道事業もその時までのことで、あとは放免となるわけである。しかし預言によれば農業がますます盛んになると思う。「その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし」(イザヤ二・四)とある。また、「ししは牛のごとくわらを食らい」(同一一・七)とある。鋤または鎌、またはわら(枯れ草ではない)とあるのを見れば、その時のことを想像することができる。もっともわれらは携挙せらるるなれば、復活の子であるから地上で農業をするようなことがない。これは地上の住民のすることである。それにしても、いまのうちに農業の知識を得ておくなれば、彼らを治むる時にたいそう都合がよいことと思う。この時代がかの時代に知識を伝うることは幸いである。聖徒はこの覚悟をもっていまの時代にありて努力すべきである。されば何かをなさんと思う時に、次の時代に何が必要であるかを知りて、無益なことをせぬよう心がくべきである。必ず農業のみとは言わない。(二月二七日)