一九二〇年(大正九年)

中田重治

外国宣教の強化

われらは外国宣教師を歓迎するものである。恵まれたる宣教師ならば、今後もたくさん来て伝道されんことを願うものである。在来の宣教師の多くは元来良き人々である。しかし良き人は必ずしも救われたる人々ではない。私は彼らのうちに、救いがなんであるかを知らざる人々のたくさんあることを見聞している。しかるに正規に学校を卒業したるゆえをもって、日本に来たり、いわゆる福音を説いている。しかして自分は救いの自覚だもなくして伝道している。実に気の毒なる人々である。その人々によって導かるる人々も気の毒なるものである。さればこれがために宣教師間にも、リバイバルの起こらんことを切に祈り求めている宣教師がある。これ実に当然なることである。「国々の民はわが汝らによりてわれの聖きことをその目の前に現わさんとき、わがエホバなるを知らん」(エゼキエル三六・二三)。あに宣教師のみならんや。すべての教役者はきよめられねばならぬ。(三月四日)

外国におよぼす日本教界のリバイバル

この会はいよいよ来たる二十六日より開かるることになった。もっか聖書学院の講堂に七百人を収容しうるよう取り広げ中である。人数はそれ以上であふるるほど来たることを信ずる。費用の二千円も主は必ず与えたもうことを信ずる。われらの要求はこの以外にある。

第一、聖霊のバプテスマの標準は聖書的に高められねばならぬ。ありふれたホーリネスではだめである。なんでも聖書式で使徒的であらねばならぬ。問題は天来の火のうちにあっているかいなやでない。それが炎々と燃えているかである。どうしても天的に燃え上がらねばならぬ。「わ れ何をか望む。すでにこの火の燃えたらんことなり」(ルカ一二・四九)。

第二、日本の各所に散っている各派純福音信者の一致である。聖潔を信ずる者は、主の再臨を信ずる者、きよめを握っている者となり、教理的にも一致し、また互いに各自のたまものを尊重し、今後は日本全国に手分けして働き、時間と労力を有効に費やさんとすることである。これにはまず霊的一致(組織一致よりも)を要する。

第三、いまや不法の霊はもろもろの教会にばっこしている。この際、われら聖書的キリスト教を信ずる者は、種々の美名のもとに流布せられておる、いっさいの危険思想およびそれに類したる悪魔来の行動に対し、根本的に反対することを天下に宣明したく願っておる。われらは怪しげなるキリスト教を説く連中と同視せられては、福音のために迷惑しごくと思うものである。

第四、七千万人の同胞の急速教化のためにいかにすべきか。その重任はわれらの上にあるから、祈りに祈って主の御旨を知り、それに向かって協力一致したいものである。

このほかに各自それぞれ要求があることと思う。主は必ず「すべて願うところ、求めにしたがいてあたえ」(ヨハネ一五・七)たもうことを信ずる。ただ全般に通ずる希望としては、右の四つを心にとめていただきたい。さすれば祈祷に統一があり、同じ目的をもって祈ることができると思うのである。(三月一一日)

リバイバルの教会

リバイバルの発露はいのちである。さればいのちのあるところには必ずリバイバルが起こるべきである。過去二千年間のキリスト教会の歴史は、通じてリバイバルの歴史であった。そのことは黙示録二章と三章に詳しく記してある。全く堕落したサルデス教会時代においても、「なお数人いまだその衣を汚さざる者あり」(黙示録三・四)。これによりて教会が復興することができた。これ御名を惜しみたもう神のみわざである。されば神はその教会を顧みたもうやいなやは、リバイバルによりて知ることができると申してもよい。

リバイバル教会は聖霊をあがむる教会である。「なんじらは神の宮にして、神の御霊なんじらのうちにいますことを知らざるか」(一コリント三・一六)。聖霊はこの教会の主座を占めておる。天主教は聖霊の代わりにマリヤをあがめて堕落した。俗化せる現代の教会は聖霊よりも人物 をあがめているから能力がなくなった。

リバイバル教会は盛んに実る教会である。「男女とも信ずる者ますます多く主につきぬ」(使徒五・一四)。天来のいのち満ちみちているところには、必ず多くの実りがあるべきはずである。伝道的ならざる教会は、いかほど高遠なる真理を説いていても、いかほど設備がりっぱであっても死んでいる。眠っている。リバイバル教会はすべての点においていきいきしている。

したがってリバイバル教会は繁殖力が盛んである。ようやく自分の教会を自給せしめたくらいで、幾年たっても分教会をもつくりえぬ教会は進歩の止まった教会である。「聖霊なんじらに臨むによりて地の果てにまでわが証人となるべし」(使徒一・八)。リバイバル教会は全世界的である。一教派または一国民の繁盛をもって満足しあたわざるものである。

リバイバル教会はいつでも進歩的態度を取っておる。これはできあがった教会ではない。いつも前進を続けておる。「全き人すなわちキリストの満ち足れるほどとなるまでに至る」(エペソ四・一三)までやまない。主が再来なしたもうまでは落成式をあげぬ教会である。されば日々新たであらねばならぬ。

要するにリバイバル教会は神の光といのちと能力と愛とに満たされておる教会である。その標準は聖書に示されてある。されば教会につける各自はその標準にのっとるよう努力すべきである。(七月二〇日)