神社は宗教にあらざるか
これは久しい以前よりの問題である。当局者は神社は宗教でないと言明している。本紙としてはその是非を論ずることはできない。しかし宗教学の見地より論ずることはさしつかえない。
日本の仏教はインドのそれとは異なり、一種変態のものである。たとえば祖先崇拝のごときは純仏教から離れたものである。仏教家のうちにある仏壇のごときは、仏式によれる祖先崇拝のために設けられたものである。もし人ありて仏壇を祖先崇拝のためであって、宗教ではないと言う者があれば、われらはその愚かを笑うものである。祖先を尊ぶということはけっこうなことであるけれども、それに供え物をなし、それに祈願するようになるならば宗教である。
かくのごとく神社に祭られている人は、いかなるものであっても、それに向かって宗教的儀式を行ない、雨乞い日乞い、戦勝祈願、その報告、その前において宣誓などをするならば、世間はなんと申しても宗教学の見地から、それを宗教と見なすのが当然である。
いったい何かを本尊となし、その神体だとか分霊だとかいうものを尊崇祈願の対象としているものはみな宗教である。よしそこに何の偶像らしいものがなくて、空に向かって
われらは敬意と礼拝とを区別している。敬意ととなえて宗教的儀式に従えば、それは礼拝である。特別な宗教的儀式によらなくても、たとえば太陽に向かって敬意を表するために首をさげるならば、これは太陽崇拝という宗教になる。
かく普通宗教と認めているものの定義から申せば神社は宗教でないと言えないのである。これは今後とも大いに研究すべき問題である。(六月一〇日)
リバイバルは必ず来る
キリスト教会の歴史はリバイバルの歴史である。これを調べて見ると、リバイバルがある間はたましいが救われ教会は燃えている。しかしそれがなくなると教会は堕落し、その影響は普通の法令にまで及んで全体が腐敗するという有様になっている。そうなると宗教は社会から無用物またはやっかい視せられるのである。「塩もしその味を失なわば……用なし」(マタイ五・一三)。われらはメキシコ政府の天主教に対するやりくちをもって正当とは認めない。しかし生命もなく、火もない教会があんな目にあうのは当然である。リバイバルのない教会は、
御名を惜しみたもう神は、キリスト教会をつぶれ切れにしておきたまわない。あるいは聖霊に満たされた個人により、あるいは恵まれた団体を起こして純福音を擁護なしたもう。さればわれらは日本の諸教会は行き詰まりの体であっても決して悲観しない。神は必ずリバイバルを起こしたもうことと信ずる。すでに手ほどの雲があちこちに見えている。そこで予は左に心得るべきこと数か条をあげて聖徒の参考に供し、ともに力を合わせて祈りたいものである。
一、まずヨエルの預言に基づき、主の再臨前に必ず大リバイバルが起こるものと信ずること。 二、今日までの教会歴史には、幾度もリバイルがあったことをしるし、それが民族地理の区別によらざること。 三、これが聖書をそのまま信じ、ひたすら祈る者の中にのみ起こりしことを信ずること。 四、またこれは教会の内部も社会も腐敗し、行き詰まった時に起こったものであることを知ること。 五、リバイバルの起こるまぎわには、あちこちにそれを呼び求める声が聞こえること。これは時代の要求というよりも聖徒の要求である。 六、これを妨げるものはもちろん悪魔であるが、同信の聖徒が一致せずにいること。されば相結合しうる者は一刻も早く結合して、その範囲をいよいよ広くすることに努めること。 七、日本のきよめ派の人々は、リバイバルがどこかの教会に起こるだろうと思わず、自分たちのうちに必ず起こると信ずること。 八、リバイバルの結果を自己の手におさめようとする私心、自己の祈りによってこれが起こったように思う高慢心、これらがその火を消すものとなる。将来のことはいっさい主の御手に託して立ち上がること。 九、これは教役者によってのみ起こるものではない。いままで信徒によって起こったことが多い。われらはユニバーサル(普遍)のプレストフッド(祭司職)を信じて、僧俗の区別を立てざること。 一〇、教役者または信徒を問わず、各自はその火の燃ゆるためには、自己をたきぎとして新たに神にささげること。これをただちに実行せよ。
もし何派の人を問わず、これに従うならば、必ずリバイバルが起こるに相違ない。ハレルヤ、現に主は小規模ながら、その火を燃やしつついたもう。
主は近きうちに再来したもう。その時日本より携え上げられる者が、千々万々で数え尽くすことができぬようになるならば、なんと栄えあることではないか。聖徒らよ、努力せよ。(九月九日)
世界中で最も富めるパレスチナ
神がイスラエルに与えたもうたパレスチナは、昔は実際良い地であった。「なんじの神エホバなんじをして良き地に至らしめたもう」(申命記八・七)。しかるにイスラエル人は不信のために全世界に散らされて、今は世界のあちこちでユダヤ人と言われて諸国民より嫌われている。
かのパレスチナは過去数千年の間種々の国民に荒らされた。しかし掠奪されたものはイスラエル人の金銀宝石のみで、地そのものは依然として海と砂漠で保護せられて今日に至った。あたかもエジプトのツータンカーメンの墓が砂の中に埋まっていて、墓どろぼうに見つからずにいたが、ついに近ごろ発掘せられて、エジプト古代の粋が世人に見られるようになったごとく、パレスチナも神の告げたまいしごとく、富める地であることがわかってきたとは驚くべきことである。
「なんじらが進み入りて得んとする地は、なんじらが出で来たりしエジプトの地のごとくならず。かしこにてはなんじら種を蒔き、足をもてこれに水注げり。そのさま青物畑におけるがごとし。されどなんじらが渡り行きてうるところの地は、山と谷の多き地にして、天よりの雨水を吸うなり。その地はなんじの神エホバの顧みたもう地にして、年の始めより年の終わりまで、なんじの神エホバの目常にその上にあり」(申命記一一・一〇~一二)
かの地は長らくの間、このみことばのごとくではなかった。しかし近ごろはふたたび雨露が降って、耕作によくなっているとのことである。ついには「その日、山に新しき酒したたり、岡に乳流れ、ユダのもろもろの川に水流れ、エホバの家より泉水流れいでてシッテムの谷に注がん」(ヨエル三・一八)とある預言どおりなることと信ずる。
今のパレスチナだけではユダヤ人が残らず帰ってしまっては狭くていられない。しかし神がついに砂漠にサフランの花咲くようにすれば、イスラエルの住まう地は三十万哩四方のものとなり、今のパレスチナの二十五倍になるとのことである。さすればいま世界にある千五百万人のユダヤ人が帰って行っても大丈夫である。
今ユダヤ人は非常の努力をもってパレスチナを豊沃の地としようとして、近代科学を応用して盛んに改善に従事している。かの死海にある鉱物の利益だけでも八十億円あるとのことである。塩だけでも八億トンあるとのことである。そしてその水からとれる硝酸塩は一トン三十円に売れ、ヨーロッパ相場の半額だとのことである。またかの海よりとれる燐石だけでも、豊かにパレスチナをもとの豊沃に復し、ついに「その荒野をエデンのごとく、その砂漠をエホバの園のごとくなし」(イザヤ五一・三)うる材料がそのうちに満ち満ちているのである。
また預言によると、ユダヤ人は大いなる富をもって帰り行くとある。「そは海の富は移りてなんじにつき、もろもろの国の宝はなんじに来たるべければなり。……また彼らの金銀をともにのせ来たりて、なんじの神エホバの名にささげ、イスラエルの聖者にささげん」(イザヤ六〇・五、九)。シオン党の調査するところによると、ユダヤ人はすでに六千万円を持参して行ったとのことである。なにせ世界の富の三分の二を有していると言われているユダヤ人のことであるから、彼らはもしその富をかしこに集めるならば、富の中心は英国ロンドンだの、米国ニューヨークだのと騒いでいるけれども、いましばらくにして富の中心はエルサレムとなるに相違ない。されば患難時代に現われる偽キリストが、かしこに根拠をすえるのも無理からぬことである。
帰国したユダヤ人にとって、いちばんやっかいな問題はアラビア人である。しかしこの富の力の前には貧乏なアラビア人はとてもかなわない。ついにかしこをのかざるをえなくなるであろう。そしてアラビアの野はもちろん、スリアのほうまでもユダヤ人のものになるに相違ない。
しかしこの富のためにユダヤ人はひどい目にあわされるのである。「かの人の住むに至れる荒れあとを攻め、またかの国々より集まり来たりて地の真中に住みて群れと宝を持つところの民を攻めんとす」(エゼキエル三八・一二)。この民とあるのはイスラエル人である。地の真中とはアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸の中心たるパレスチナである。これを攻めるものはロシア人である。「なんじすなわち北のはてなるなんじの所より来たらん」(同三八・一五)。「しかしてなんじわが民イスラエルに攻め来たり、雲のごとくに地をおおわん。ゴグよ、末の日にこのことあらん」(同三八・一六)。ゴグとあるのは北のロシアである。
しかしこれは患難時代に起こるので、イスラエル人は目ざめ、ついにその富をもってエホバに仕えるようになるのである。世の多くの人々は預言の知識がないから、なぜあの金もうけに巧みなユダヤ人があのパレスチナに目をつけているかを知らずに、かえって潮笑している。世の政治家も経済学者も宗教家も、かしこに目をつけなければならぬ。かしこは世界の富の中心となり、政治の中心となり、ついに神の都となるのである。
われら日本国民としても、いたずらにユダヤ人を危険人物視している頑迷者流のことばに迷わされず、この神の摂理の御手が動いていることを見、いち早くユダヤ人と親交を結ぶように努むべきである。
予は信ずる。日本にいくらもヘブル語を解す学者がある。ある人は死に学問をしたように思っているだろうが、パレスチナでは古代のへブル語が復興しているから、日本のへブル学者は大いに役に立つ時が来る。これは商業や国交の点から見ても有益なことである。(三月二五日)