聖書を重んぜよ
われらは聖書を尊ぶ。しかし偶像教徒が大般若経や法華経を拝しいただき、これを病人につけると病気が直るというような意味で重んずるというのではない。これを神のみことばとして大切に扱うというのである。
聖潔派の中には近世主義者のように、聖書に誤りがあるなどと説く無礼者がないと信ずる。しかし聖書をむぞうさに扱いつけているために、うっかりすると敬意を欠くようなことがないともかぎらない。
いったい宗教的用語でも、聖句でも、これを用いる時にふざけ半分に言うてはならぬ。日本人には従来の宗教が無力のために、こっけいの材料にせられて来た風がある。たとえばお酒あがらぬ神はなし、地獄の沙汰も金次第ということばである。キリスト教にもこれに類したようなことがある。これ実に注意すべきことである。
いちがいには言えないが、日曜学校の教師たちの中には、まじめな聖書の物語を、おとぎ話式に語っている者がある。おもしろく生徒たちに聞かせようとするところから出ているのであろうけれども、教師らの喜劇式の態度または講談師風の話のために、聖書の尊敬を損じているようなことをまま見受ける。これは断じていけない。ホーリネス人は率先してこれを矯正せねばならない。子供らが大きくなって聖書の高等批評をなし、近世主義者になるのは、日曜学校時代に神のみことばに対して不まじめな態度を見せられるのも一つの原因である。
聖書に「われこのふみの預言のことばを聞く者に証しをなす。もしこのふみの預言のことばに加うる者あらば、神このふみを記すところの災いをもてこれに加えん。もしこのふみの預言のことばを削る者あれば、神これをしてこのふみに記すところのいのちの木の実と、きよきまちとにあずかることなからしむ」(黙示録二二・一八、一九)とある。されば聖書によいかげんを加えることは大いなる罪である。また「聖書をしい解きて自ら滅びに至るなり」(二ペテロ三・一六)とある。迷信に陥る者はみなかかることをする連中である。されば聖書に加うることも削ることもすべきではない。
また世間の怪しげなる神学者が言うような、モーセの神観だの、パウロの贖罪観だのと、聖書には種々の異説があるように言うのは、そもそも間違いの原因となるのである。誰だの、彼だのと言う必要はない。神がかく仰せられた。キリストがかくのたもうた、でよいのである。なぜならば、「聖書はみな神の黙示」(二テモテ三・一六)であるからである。
親は子供がご飯の時に行儀を悪くし、ふざけちらすならば食べさせない。かくのごとく、聖書に対してふまじめな者に、神はいのちの糧を与えたまわない。いまやキリスト教会はただ食いばかりして、正しい食物をとらせないから、その健康を害し、成長が止まっているような状態である。これはみことばを尊敬しないための罰である。
バイブル・クリスチャンと言われているホーリネス人も、いまのうちに気をつけて行儀よくみことばを食することをしなければ、諸教会のようになってしまうから、大いに目ざめなければならぬ。聖書を重んぜよ。これ神を敬う道である。これは転ばぬ先の注意である。(五月一九日)
サマリヤのリバイバル
このリバイバルは使徒行伝一章八節にあるペンテコステの恵みを受けてからのちに順序として起こるところのものであった。その順序にしたがい、ついに地の果てにまで及ぶようになったのである。
これは突如として起こったものではなかった。それには原因があった。蒔かぬ種は生えぬ。信仰は聞くより出る。サマリヤのリバイバルをば、単にエルサレムの一波動と見るべきではない。それ以前からきざしがあったのである。
ヨハネ伝四章にあるように、主がかしこにおいてひとりの婦人に個人伝道したことが遠因となっている。その結果として、今度はその婦女個人の証しがあり、「証しせしことばによりて、その町のサマリヤ人多くイエスを信じたり」(同四・三九)とある。かく信じたところの人々が、かのリバイバルの下地となったに相違ない。その後またステパノによって起こりし迫害のため、「使徒たちのほかはみなユダヤとサマリヤの地に散らされたり」(使徒八・一)「散らされたる人々旅して……道を語る」(同一一・一九)とあるから、必ずやサマリヤにおいて伝道したに相違ない。そういう土台のあるところに、ピリポが行って特別集会をしたので、火の手があがったのである。しかもピリポの伝道は、現今あちこちにあるような思想を述べるのではなかった。きわめて実際的のものであった。「多くの人々ピリポが行なえる不思議なるあとを見聞きして……つつしみてその語ることばを聞けり。そは汚れたる鬼大いに叫びて、そのつけるところの多くの人より
予はこのリバイバルに基づいて大いに注意したいことがある。大々的の伝道会でも開くならば、大リバイバルが起こると思うのはもはや古くさい伝道法である。どうしても個人が個人に伝道するということが土台となっておらねばならぬ。これが下地となっているところに特別な集会でも開くならば、その効果見るべきものがある。これに目が開けずに仕掛けばかりを大きくやっても、またはすばらしい会堂を建てて見ても、それでたましいが救われるものではない。まず個人個人が恵まれ、満たされ、個々のたましいを愛する熱情に燃えて活動するようにならなければ、よし世界的に有名な伝道者を招いて大伝道会を開いても、効果が皆無とは言わないが、あまり多くはないものである。
なお知るべきことは、真のリバイバルに神癒が伴うものである。くだらぬ社会問題や思想問題について話したとて、決してたましいは救われはしない。昔時サマリヤにあったように、病人 が癒され奇跡が行なわれるならば、論より証拠で、人々はまのあたり神の御力を見るのであるから、多くの人々が神を信ずるようになるのである。諸教会がこれに気がつかずにいるのは、不信仰によって心の目が鈍くなっているからである。
われらの巨大救霊運動が正しい動機により、正しい方法によってどしどし実行されるならば、サマリヤに起こったように、神の超自然的みわざが現われるに相違ない。われらはこれがために祈り、また尽くすべきである。(八月四日)
信徒よ決起せよ
伝道はますます忙しくなって来た。とても伝道者ばかりでは間に合わなくなっている。されば教役者の免状有無にかかわらず、普通の信者であっても奮起しなければならなくなった。
宗教法案が議会に提出された時に、信徒の伝道が阻害せられはせぬかと、一時心配であった。ゆえにわれらは力を尽くして、その不通過を神に祈り、またこれがために運動した。なぜならばかかる制限は、非聖書的であり、また時代錯誤であるからである。教権万能は非聖書的である。神の恵みを受けたものは、なんぴとでも証しをなすべきである。神は祈祷に答えたもうて、あの法案が通過しなかったけれども、信者の多くは不信仰のためにあの法案が決議になったかのごとく、黙しているから油断がならない。また教役者中にも、信者のくせになまいきに伝道するなどとおこがましいと言わんばかりの顔をしている者もある。これ実に主のみこころをわきまえぬ連中である。
伝道は職業的伝道者の独占ではない。救われた者ならばなんぴとでもなすべきである。新教教会の今日あるは、おもに信徒の運動の結果である。主が「われを信ずる者は聖書に記ししごと く、その腹より生ける水川のごとくに流れいずべし」と仰せられたのは、教役者のみに仰せられたのではない。一般信者に申されたみことばである。かく流れ出ることが伝道である。
されば恵まれた者は形式がどうであろうが、やりくちが違っていようが、これらに頓着なく、どしどしと自分の家を解放するなり、路傍なり、どこでも
同信諸兄姉よ、この七千万の大衆をどうすればよいか。教役者にばかりまかしておけるか。主は近し。何はともあれ彼らは行って福音を伝うべきではないか。諸兄姉はむろん金を出して、伝道者の伝道を助けているに相違ない。しかしそれだけでは足りない。自ら行って福音を叫ばねばならない。
このたびの百万救霊運動は教役者の運動と申すよりも信徒の運動と申してよい。この運動の成否は一に信徒の努力いかんによって定まることである。されば諸兄姉よ、自ら進んで戦線に立たれよ。このたびの戦争における高見の見物をしている者は必ず呪われる。(九月一五日)
われらが社会事業に関係せざる理由
社会事業なるものはきわめて俗受けのよいものである。キリスト教会がもしこれを標傍して立つならば、未信者までも同情して金を出すようになる。その筋でももしキリスト教会の便宜を計ろうとすれば、教会がかかることに努力しているからである。その関係者が勲位でもいただくことがあるとすれば、それはキリストの救いを宣伝するがためではなく、社会事業や何かの慈善事業、または教育事業に関係するからである。
社会事業そのものは善事である。しかし何よりもたいせつな福音教化に従事する者にとっては、それはあまりに閑問題である。人類にとっての緊急問題は、人が死ぬと永遠の滅亡に行くということで、その人を罪から救うのが何よりの急務である。他にどんな問題であっても、これ以上の問題はないのである。
さる夏軽井沢において賀川豊彦氏がアキスリング氏の通訳によって演説されたうちに、ある団体では社会事業に立ち触れるなとその教役者に命令しているが、それは大いなる誤りであると申されたとのことである。ある団体とは無論われらのことに相違あるまい。
われらはわが教会の人々が社会事業に関係することを禁じていない。会員が農業に従事しようが、われらはかまわない。善事ならなんでもやるがよい。ただ教会として、また教役者として、そんな閑事業に未信者でもなしうる仕事に関係すべきでないというのである。余力あらばわれらも喜んでやる。しかし救霊があまり忙がしいので、そんなことに金と時と力を出しておられないのである。われらは伝道を第一義と心得ている。それがために社会に没交渉であるなどと言われても、なんとも感じない。さればある立ち回りの上手な伝道者のように、社会的福音というようなぬえ的キリスト教は説きえないのである。
いったいあの人々とわれらとは信仰の根本が違っている。すなわちあの人々は社会というものが人間の努力によって改善せられ、ついに神の国となるものと心得ているのである。されば社会だの組織だの制度だのといううわべのことにのみ力こぶを入れているのである。われらはそれと反対に、キリストがこの世に再臨したまわなければ社会も世界も根本的によくならないと信じ、その準備として人ひとりびとりが救われ、またその心までもきよめられて神の国に入りうる人をつくることに思いをこらしているのである。あの人々はこの世は進化して漸次によくなるものと信じ、われらはこの世はますます悪化すると信じて、ひたすら主の御再臨に目をつけているのである。
もし教役者でなくとも、われらの群れのうちにあの人々のような思想を持ち、キリストが再臨しなくても、いわゆる社会的運動によってこの世に神の国ができると信ずる者があるならば、われらはこの人をわが教会の会員としておくわけにはいかぬのである。なぜならばその思想は、われらの信仰と衝突するからである。しからずして単に生活のために、それらの仕事に従事することであるならば、われらは戦争は好きではないけれども、軍人であることがわが教会の会員であることにさしつかえにならないと同じ意味で、その人の仕事に干渉することはしないのである。
願わくば何ごとをするにも、人を喜ばすことでなく、神を喜ばすことに一意専心努めたいものである。
いわゆる聖書的
論ずるまでもなくわれらは聖書的キリスト教を信じている者である。すなわち聖書をば創世記より黙示録まで、ことごとく神のことばとして信じている者である。しかし世には聖書的であると言いながら、きわめて非聖書的な者がある。われらはこれを霊のわきまえによって見破ることが必要である。そうでないと、聖書的であるという名のもとに、十ぱ一からげ、何もかもいっしょにせられるきらいがある。
たとえば教派を否定する団体があって、教会の名は聖書的にキリストの教会とか、神の教会とせねばならぬと言いながら信仰は新神学同様なものである。彼らは名さえ聖書的でありさえすれば、内容はどうでもよいというやからである。われらはその反対に名は符諜であるから、どうでもよい、信仰が聖書的であればよいというのである。
また聖書をことごとく神のことばであると信じながら、聖潔を信ぜぬ者もあり、神癒を信ぜぬ者もあり、主の再臨に反対する者もある。かかるやからは聖書的を看板にしているだけで、その信仰の内容はきわめて不徹底である。聖書は聖霊の指導のもとに信ずべきものである。しからず ば、有名無実の正統派になってしまう。フレッチャーの言ういわゆる死せるオルソドックスとは、このことを言うのである。
また聖書はデスペンセーショナル(時代的)の光をもって了解せねばならない。律法の時代にあったものを、恵みの時代にあてはめるわけにはいかない。セブンスデー・アドベンチスト派は、この光がないから土曜日安息日を主張するのである。台湾の安倍兄の手紙によると、過日東台湾の諸教会を撹乱しているところの、中国渡来の真耶蘇教では、一夫多妻が聖書的であると、モルモン宗のごときことを申しているとのことである。これは時代的研究なるものがわからぬからである。かかる連中は旧約に逆行して割礼を主張するようになるかもしれない。さればいちがいに聖書的ということばにだまされるようにせねばならぬ。いったい聖書の文句や文字に拘泥しているのは、儀文にとらわれているのである。「彼われらをして新約の仕え人となるに足らしむ。儀文に仕うるにあらず、御霊に仕うるなり。そは儀文は殺し、御霊は生かせばなり」(二コリント三・六)。いっさい戒めの書をキリストとその十字架によって廃せられたものである(コロサイ一・一四~二二)。われらはその精神さえ守ればよいのである。その精神はすなわち天来の愛である。「このゆえに愛は律法を全うす」(ロマ一三・一〇)。
いまは末の世である。悪魔は巧みに二様に働いている。聖書を重んじない者に対しては、科学万能をもって向かい、聖書を重んずる者に対してはにせキリストの本性を現わして、その毒を聖書的という表皮に包んで飲ませんとしている。されば大いに警戒せねばならぬ。
要するに全き愛に一致しないものは、名は聖書的であり、正統派であると申しても、ことごとく悪魔来のものであるから、ことごとく排斥すべきである。「かのともがらは偽りの使徒、また偽りを行なう者にして、キリストの使徒の形に変じたる者なり。これ珍しきことにあらず。サタンも自ら光の使いの形に変ずるなり」(二コリント一一・一三、一四)。