一九二九年(昭和四年)

中田重治

四十歳か六十歳か

新年を迎えると、だれもパロがヤコブに問うたように、「なんじのよわいの日はいくばくなるか」(創世記四七・八)と問いもし、問われもするのが通例である。

かかる際、われらが互いに知りたいことは霊的年齢である。幾年たってもいっこう進歩もせず、一寸法師のようであっては恥ずかしいことである。順当に進んでいるならば、「全き人すなわちキリストの満ち足れるほどとなるまでに至り」(エペソ四・一三)おるべきである。しかるに新年になっても、いっこう変わりがありませんでは、進歩どころか逆戻りである。教会としても「信仰の初めよりさらにわれらの救いは近し」(ロマ一三・一一)とあるべきである。しかるに反対にふりすて、世に再び入り込んで俗化するとは何ごとであるか、情けないことである。

モーセは「四十歳におよびてその兄弟なるイスラエルの子孫を顧みる心起これり」(使徒七・二三)とあるが、もし聖徒が信仰によって霊的四十歳に達するならば、同種を顧みるの心が起こり、「パロの娘の子とよばるるをいなみ」、また「むしろ神の民と共に悩みを受けんことをよしとする」(へブル一一・二四、二五)ようになるはずである。救霊の熱情に燃えている信者が少ないから、日本の教化が遅れ遅れになっている。さればどうか一月も早く、すべての信者が四十歳に達するようにしてもらいたい。もし信じて聖霊を受けるならば、一足飛びに四十歳になることができる。世には四十歳をば不惑の年としている。信仰も四十歳となると、「さまざまの教えの風に揺り動かされず」(エペソ四・一四)とあるごとく、惑いはなくなる。どうしてもこの点まで達しなければならない。

予は今年とって六十歳になった。聖書の光により、なんとも言えぬ恵みを味わっている。「やもめをその籍に記すことは、六十歳より若かるべからず」(一テモテ五・九)。やもめの籍というのは、当時の教会において、そのやもめたちをば教会が世話するために、かかる制度を設けたものである。「若きやもめはこれをことわるべし。そは彼らキリストに背きて心を乱すときは、ふたたび嫁いりせんとすればなり」(一テモテ五・一一)。六十歳になるならば新たに結婚したいという心も起こらなくなり、アンナのごとく「宮を離れず、夜も昼も断食と祈祷をして神に仕う」(ルカ二・三七)るようになるのである。これも信仰によりて一足飛びにできることである。十代の若者でも恵みによりて六十歳に達し、世離れのした者、肉離れのした人となることができるのである。

肉臭紛々とした信者が多い教会は、まことに物騒なものである。されば「道を捨ててサタンに従える者」(一テモテ五・一五)が起こるのである。

兄弟姉妹よ。皆さんの年齢はいくつであるか。四十歳になられたか。しからば主のために活動すべきである。六十歳になられたか。しからば成熟したる聖徒であるべきである。いまはかかる人々を要すること切実である。信者を育て上げる任務にあたっている人々は、よろしくこの目的をもってなすべきである。

これをもって新年早々のごあいさつとする。(一月三日)

伝道界のかせぎ人

「飼う者なき羊のごとく、人々悩み、また散り散りになりしゆえに、これを見てあわれみたもう。そのとき弟子たちに言いたまいけるは、刈り入れものは多く、働く者は少なし。ゆえにその持ち主に働く者を刈り入れ場に送らんことを願うべし」(マタイ九・三六~三八)

日本の社会はかかるありさまである。人々はどうすればよいか途方に暮れている。今のままで行けば、破滅の他に道がない。これを見て憤慨する人があるだろう。また自業自得だと言う人もあるだろう。しかし神の愛をもってこれをあわれむ人は実にわずかである。教役者にこの憐憫の情があるはずであるけれども、彼らの大多数は伝道を商業化し、自ら進んでその救済にあたる人が少ない。むべなるかな。主は働く者の、すなわちかせぎ人が少ない、と仰せられたのは。先生と言われる人ならばいくらもある。しかしこの「大いなるわざ」(ネヘミヤ六・三)に従事するかせぎ人がまことにわずかである。

予は近来、主が働く者は少なく、と仰せたもうまごころがわかり、それがために、主に祈るべきことを教えられた。これはブラブラする人足ではない。熱心にたましいを刈り入れて、天国の倉におさめ入れるために働くところの労働者である。マタイ伝三・一一と一二にある火のバプテスマはこれがためである。

これがために主は天使を伝道者にするつもりであるならば、天には千々万々の天使がいるから、いくらでも用うることができる。しかし主は救われた罪人を用いて、罪人を救わんとしていたもうのである。されば救われた各個人は、救うために救われたことを自覚し、力を尽くして主のため、また滅びるたましいのために活動すべきである。

われらは昨年来、新式伝道法をもって伝道して以来、教勢はとみに盛大になり、あちらからもこちらからも教役者をつかわしてくれ、生活のことは決して心配かけぬと熱心に要求してくるのに対して、一々返答することができぬほどである。なぜならば実際教役者が払底で、なんともすることができぬほどで足なえまでもえものあらんとあるごとく、真に救われてみことばを読み聞かせ、祈ることができる人であるならば、どんな人でも主のお役に立つことができるという時代である。されば教役者であろうが、信徒であろうが、ひっぱり足らぬほどである。さりとて間に合わせのことばかりしているようでは、導かれたたましいのために気の毒なことである。さればなんとかして、「恥ずるところなき働き人となりて、真のことばを正しくわかち教うる者」(二テモテ二・一五)が起こらねばならぬ。これがため多くの献身者が起こらんことを祈るものである。われらは千名の修養者および福音使が与えられんことを祈り始めた。これはさしあたりの要求で、日本全体の教化を思えばこんなことでは間に合わない。もっともっと多くの人を与えられねばならない。

しかしこれはこれとして、主の声を聞いている人は福音使の肩書きの有無にかかわらず、奮起して救霊にあたらねばならない。あたかも米国独立戦争の時、鉄砲をもたぬ素人が鍬をふり回して戦ったように、なんでも手ごろな物を携えて主のために戦うべきである。(一月一〇日)

クリスマスを戒む

わがホ教会は数年来クリスマスを全廃して来た。これ俗化が教会内に入らぬようにするためである。わが教会は必ずやこれを守り、またこれに類したことをもしないことを信ずる。予はこれをここにあらためて警告する。日曜学校の生徒を喜ばすという名目のもとに、これに類することをもしてはならない。年末は人心の緊張している時であって、伝道にはくっきょうの時である。かかる際によろしく大いに祈って救霊のために奮闘すべきである。心中のキリスト降誕、これよりよいものはない。(一二月一二日)