一九三一年(昭和六年)

中田重治

マルクス主義かキリストの再臨か

日本のホーリネス人はいま、右傾思想と左傾思想の間にはさまって大いに奮戦している。

右傾の連中は、なんでもかんでも国家万能で押し通そうとしている。神社などをかつぎだす連中や、日蓮主義などを説き回るやからはその中にいる。左傾の連中は社会主義やマルクス主義を説くやからで破壊を目的としている。その中にはキリスト教社会主義などと唱え、左傾思想と妥協したるぬえのようなものもあるが、われらから見れば、これは赤色キリスト教でとるにたらぬ思想である。

右傾の連中は時代の推移とともに漸次変化していき、都合上種々の名目を借りてその命脈をつないでいくことになるだろう。左傾の連中と似たところは多数の力を借りて、その主張を貫徹せんとするところである。せんじつめれば両極端は同一軌道を走ることになるかもしれない。「彼ら、激しく声を立てて、彼を十字架につけんと言いつのれり。ついに彼らと祭司のおさの声勝ちたり」(ルカ二三・二三)。群衆の声でことを決めんとするところには正義も人道もない。全くむちゃくちゃである。われらは現代をばこの光をもって見ているのである。さればいきおい神の声にのみ従うわれらは衝突せざるをえなくなるのである。

われらは早晩、いまの社会は変化すると見ている。しかし、その変化ののち、永遠に続く建設があると大希望をもって進んでおる。その希望はキリストの再臨である。マルクス主義は絶対に善を認めていない。われらは善にして愛ある神の実在を信じている。その神は御旨に従いてキリストをふたたびこの世に遣わしたもうて、彼を平和の君として全世界を治めしめんとしていたもうのである。これを信ずるときに、われらのすべての社会問題、人生問題、また未来問題がみごとに解決さるるのである。われらはキリストの再臨を待っているから、現社会に対しては不満もなく、また慕わしく思うこともない。よし社会において権を乱用して、自己の利益をはかる者があっても、神は早晩、正しきさばきをなさると信じて、さばき主なるキリストの来たりたもうのを待っているのである。人が神に代わりて罰しようとするから、互いにうらむようなことが起こるのである。

マルクス主義は、物質欲を満足せしめんとする主義である。されば神とか正義とか聖潔とかいうことは、彼らには大禁物である。されば神の国とその義とを求むるわれらにとりては、マルクス主義は大敵である。早晩これと正面衝突をするに相違ない。現に主の再臨を信ずるホーリネス人は、彼らとぶつかっているのである。諸種のストライキに加担せざるために受けている迫害は、その実例の一つである。

ホーリネス人は神社などに参拝せざるために、ある者からは左傾の者と見られ、国民として皇室中心主義を主張し、またキリストの再臨を信じているから、左傾の連中からはキリスト教の右傾派と見られ、時代おくれのがんこ連と見られている。なんと思われてもかまわない。われらは一日も早く平和の君に来ていただいて、全世界が全く罪も汚れも戦争も病気もない世界にしていただきたく願うている。

リバイバル運動

主は昨年五月十九日、聖書学院にリバイバルを起こしたもうてよりのち、各所にその火が燃え移り、ことに昨年十月の大会後、リバイバル同盟の名のもとにあちこちに大会が開かれ、未信者が救われ、信者がきよめらるるということが起こって、実に主の御名があがめられている。ことしは実際リバイバルの年である。必ずや大収穫また大漁があるに相違ない。これがために霊的競争が起こるならば、これ実に愉快なる争いである。「神キリストによりて、上へ召して賜うところのほうびを得んと目当てに向かって進むなり」(ピリピ三・一四)。これ実に競争である。主の栄光のために一番くじを引こうとすることはけっこうなることである。

これからは、なおいっそうひんぱんにこの種の集会が開かるることと信ずる。しかし、いつまでもいわゆる知名の士を招いて、大々的に広告してやらねばならぬと思うていることは時代遅れの考えである。だれでも聖霊の言えるごとくしさえすれば、いわゆる大立て者がそこへ顔を出さずとも主の御名があがめらるるという信仰を持たねばならぬ。すなわち、人を表看板にせず、よし少数であっても心を合わせて祈り求むるところに聖霊が降りたもうて、意外の人間を用いて意外のみわざをなしたもうのである。これが信ぜられず、相変わらず、肩書きだの、経歴だの、または知識のみがあがめらるるようでは、また、あがめんとするところには聖霊が働きたまわないのである。どちらかといえば、プロテスタントの教会では生ける人間を偶像にする傾向がある。されば神は御手を引きたもうのである。

私はしばしば私の同労者に向かい、ものは試しである、自分たちばかりでひたすら聖霊のみをあがめて祈り抜き、信者のみを相手に戦うてみるがよいと申すことである。これは危なっかしいことでない。これは霊界における常道である。いまは実際人手が足りない。人物経済の点から申しても、かくすることはいかにとくであるかしれない。ウェールスのリバイバルの時でも主に用いられた者は、いわゆる専門の教役者でなく、石炭坑夫やいなかの小娘等であった。さればこのたびのリバイバルにおいてもかくなるのが当然である。さればこれについて目が開かれている人は、努めて後進者を先に立て信徒を用いるようにすべきである。いまは信徒も祭司であるという信仰を普及すべきである。これに反して伝道は教職の専有権であるかのごとくふるまうならば、純福音の教会も普通の教会と何の選ぶところがないようになってしまう。

この際いっさいの謬見を取り去り、いっさいの依頼心を捨て、いっさいの人物崇拝をやめて、聖霊のみをあがむるようにすべきである。これについてはもらい火でなく、各自の所に燃やしていただくために各自が祈り求むべきである。この火は神よりくるもので祈る所にのみ燃える火である。その祈りが十分でなければ、よしフィニーを招いてきてもだめである。そはリバイバルは人でなく聖霊によりて起こるものであるからである。さればこの運動を、この光によりて進めていただきたく切願するものである

教勢不振の原因

これには種々ある。一口に言えば不信仰である。それに伴う異端と俗化は不振の原因であることは言うまでもないことである。それは不振のパン種で、それが除かれぬうちは、どんなに工夫をこらしても、主の御名があがめらるるという教勢にはならない。なお不振の原因として大いに注意せねばならぬものは、金銭と異性に関することである。この二つについて透明でなければ、主の祝福が伴わぬのである。

金銭のことについてはアカンとアナニヤ、サッピラの実例があることはよく知られている。教会としても個人としても、この点について不取り締まりであると、論より証拠霊的に繁盛しない。借金のある教会がいつも不振であることはよく見受けるところのものである。ことに教会の金を何かに流用するなどのことはけっして許すべきものでない。これが教会ののろいとなって動きがとれないようになる。されば教会の金銭の出納は明確にしておくべきものである。

次に異性の問題である。この問題についてあいまいにしておく教会には、けっしてリバイバルが起こらない。「神の旨はなんじらのきよきこと、すなわち姦淫をせず」(Ⅰテサロニケ四・三)とはすなわちこのことを言うのである。これを不問にふして、生身をもっている者はしかたがないなどと申しておるならば、教会はついに悪魔の蹂躙じゅうりんするところとなってしまう。

されば教会は男女間の交際などについては、世間から極端だと思わるるほど厳重なる制限をつけておくべきである。なお「淫辞と浮きたることとたわむれごと」(エペソ五・四)のようなものは厳禁すべきである。したがって下等な小説を読むことや芝居や活動写真などを見ることは、すべからく禁止すべきである。

いちがいに言えぬけれども、燃えていない教会の中には、この二つの隠れたる罪がひそんでいることがある。これは霊界のまむしであるから、聖霊の火によりてあばき出されて焼き殺さるべきものである。

真に聖霊をあがめて祈っているところにリバイバルが起こらぬはずがないのである。それが起こらず、起こりかけてもその火が燃え続かないのは、必ずしもこの二つの罪とは言わぬが、何かほかに罪があって聖霊を憂いしめているからである。これはさばく心でなく、真に主の御名があがめらるるために重荷をもってかかる人に示さるるところのものである。

私は近来かかることを示されて恐れおののいている。神は誠実なる御方である。事業や団体を偶像にせず、いっさいを犠牲にして、主の御名のみをあがめんとする主のしもべらに、神はその御旨を示さずにはおきたまわない。示されたる以上は情実も人情をもふり捨て、ただ神のおさしずに従うべきである。

われらはいかなる代価を払うても、多くのたましいが救わるることを専一に努むべきである。ゆがみなりにても教会の面目を保てばよいと思うべきでない。それは俗化せる教会のすることである。われらはどこまでも聖潔は神の家にふさわしきなりと主張してやまぬものである。

天上の聖徒

神の恵みによりホーリネス教会の進歩は数字の上にも現われ、世間からも注目せらるるようになり、ことに外国宣教に関係している人々は、東洋における東宣の活動について驚きの目をはって見ているような次第である。

これがためには内外の聖徒らの多くの祈りがささげられたる結果である。その聖徒らのうちには、すでに戦いを終わってこの世を去られ、静かに主の再臨をばパラダイスにおいて待っておる人々もある。われわれ地上にある聖徒は、よろしくかの人々が残したるみわざの完成を期してなおいっそう努力すべきである。

いまより三十一年前に、私はカウマン兄姉とともに神田表神保町において、福音伝道館の名をもって純福音を宣伝し始めた。来月で満三十年になる。感慨無量である。そのカウマン兄はすでにこの世を去られた。残っておる者は私とカウマン姉のみである。その時の修養生でいまなおわれらとともに奮闘しておらるる人々は米田、菅野、伊藤馨三兄等と竹内姉等である。のちに加わりし笹尾鉄三郎兄とキルボルン兄も同じく戦いを終わって、天上の聖徒の群れに加わられた。そのほか多くの聖徒らは年若くしてこの世を去られ、後事をわれらにゆだねて逝かれた。

去る八日は私の先妻かつ子の入瞑したる日である。彼女は東宣の当初より隠れたるところにて非常に奮闘したる私の片腕であった。主のもとに行きてからことしで満二十年になる。彼女の十年間の人知れぬ苦闘は、その土台の一部となって今日の栄光を見ることができたのである。

カウマン兄とキルボルン兄は、表に立つことをせず、おもに会計上の始末をせられ、欧米の聖徒らに東宣の働きを紹介するために非常の努力をせられた。笹尾兄のごときは、修養生を訓育するために、その時間の全部をささげられたのである。かかる人々があったればこそ、今日五大教会の一つに数えらるるようになったのである。これはけっして偶然の出来事でなく、多くの血と涙の祈りの結晶である。ことに笹尾兄のごときはリバイバルを祈り続けて入瞑せられたのである。いまのリバイバルを見てことさらこの感を深うするものである。ぼんくらの私はあとを引き受けて精一杯奮闘しておるが、いつも力なきことを感じ、ひたすら主に祈り求めている。数や量が多くなるにしたがい、とかく質が悪くなる傾向があるものであるから、私はいっさいのものに目を閉じて、先人が残したる志に基づき、勇往邁進するよう主に求めている。

私は私を離れて主のもとに行かれし聖徒らがいま何をしておらるるか知らない。しかし私の想像にして誤りなくば、われらのためにとりなしの役を務めておるように思う。聖書にある(へブル一二・一)多くのものみびと(証人)とは、天上の聖徒をも含んでおるように思わるる。これをもって見るときには、何はともあれ、みっともないことをするわけにはいかない。いわんや「われをとらえたまえる」(ピリピ三・一二)キリストの御前にあるわれらは、どうして遊び半分のことをしておられようか。なんとしてもその御再臨までに思うぞんぶんご用を努めねばならぬ。

反宗教運動の真相

左傾派の連中がかかる運動を起こしたと耳にしている。これは何も怪しむべきものでなく、不法の霊の働くところには当然起こるべきものである。しかし、はたしてロシアにおいて勝利を占めたごとく、わが国においてもやることができるかは疑問である。しかし、わが国には無神無霊魂の連中がいくらもおるからいくぶんか共鳴者をえることであろう。

かかる運動が起こる原因はまず彼らのがわにあるのである。彼らが好き勝手な行動をするためには、道徳を説く宗教がじゃまになってしかたがない。彼らの中の極左党は道徳も宗教も法律も主権者をも認めないのである。彼らは概して無宗教、無道徳のやからである。反対の根本がここにあるのである。されば彼らは徹底的破壊を試みる前によく団結している宗教団体を撹乱せんとしている。ことに来世に重きをおき、キリストの再臨を待ち望む者などは第一の仇敵と目されている。キリスト教社会主義などを唱えている擬キリスト教などをば、彼らはいつでもけちらすことができると信じている。いちばん手ごわく思われている者は、何宗教にかかわらず凝り固まっている熱心家である。

かかる運動を起こさるるのも無理からぬ原因が宗教のがわにもある。それは宗教家が権門富豪にこびて下層民をばかにしたたたりである。これがために左傾派から非常にうらまれているのである。また宗教の名をもって搾取をやったものであるから、貧者の友であるという美名のもとに彼らは仇討ちをする気になっている。されば蒔いた種が刈られるようなものとも言える。もし反宗教運動のために害を受ける宗教があるとすれば、だれをうらむこともない、「その子のパンを求むるに石を与え、魚を求むるにそれに代えて蛇を与え」た罰であると思うがよい。実際、その宗教を信じて罪から救われ、きよい世渡りをすることができる力を与えられておるなれば、いかに無宗教者が悪口を言うてもビクともせずにおるはずだ。

さればかかる運動によりて有害無救の既成宗教は大打撃をこうむるに相違ない。しかし、よし既成宗教であっても、力ある宗教であるならばいよいよその真価を発揮し、「かの悪しき者これにふるることをせざるなり」(Ⅰヨハネ五・一八)とあるごとく、少しの害をも受けぬことと信ずる。

かかることで諸宗教が、ことにキリスト教各派が救済力の有無を試験さるることならば、われらはむしろ他山の石として、そのなりゆきを傍観するものである。この石はダニエルの夢にあった力とは違い、根本的破壊はなしえまい。信仰はよし習慣的または形式的であっても根強いものである。いわんや真信仰においてをや。彼らが夢想しておるような宗教打倒はできるものでない。それは露国の実例を見てもわかる。

われらはかかることには頓着せず、どしどし人々を罪より救うて神のいのちをもたしめ、抜くことができない信仰を心の真底に植え付くることに努力すべきである。迎うる力を有したもう聖霊は、われらを助けて悪魔来の運動に一歩もゆずらぬようになしたもうことと信ずる。

リバイバルの起こる時

祈りのないところにリバイバルが起こったためしがない。またその火を継続するにはいよいよ祈らねばならぬ。主は聖書学院に新たにその御霊を注ぎたもうた。しかもそれがいわゆる底燃えがするとでも言うべきか、聖霊の深く確実なるみわざがなされている。

これは去年の五月十九日、俄然聖霊が注がれてから、祈りが連続してささげられてきたためである。実際リバイバルは祈りの空気が濃厚になった時に起こるところのものである。これは少しく霊界の機微を知っている者みな認めておるところの事柄である。さればこれは実にデリケートのもので、祈りの手がさがると見るがうちに聖霊の御働きが薄くなる。これは争われぬ事実である。

聖徒が重荷を感じて祈る時は、聖霊も言いがたき嘆きをもって祈りいたもう時である。かかる時は世は混沌として不法の霊がばっこしておる時である。

今日までのリバイバルの歴史を見ると、世のあらゆる方面において行き詰まっておる時である。いまはちょうどその時である。この状態を霊眼を開いて見るところの聖徒はたまらなくなって祈り出すのである。

いまや日本の各所において悶え苦しんで祈っている聖徒がたくさんある。どうしてリバイバルが起こらずにおるはずがない。かの反宗教運動のごときは、日本の宗教界を刺激すること最も大いなるものである。彼らに対抗するには弁論ではだめである。彼らには理屈は通らない。しかし天的のリバイバルが起こって、事実たましいが救われ、またきよめらるるならば、彼らとても宗教の偉大なることを認めずにはおられまい。この意味において、いまほどリバイバルを要する時代はない。さればわれらは悪魔の赤化運動が激しくなればなるほど、神のみわざも著しく現わるることと信ずる。

キリストが再臨したもう時は「夜半ば」(マタイ二五・六)であるとすれば、それは最暗黒の時である。いまその時に相当しておる。この時は目ざめて主を迎うる時である。その目ざむることがすなわちリバイバルである。いまはこの警鐘が乱打されておるのである。また「万物の改まらん時」(使徒三・二一)すなわち主の再臨の時の前に、「主の前より安き日のきたり」(同三・一九)とあるのはリバイバルである。どうしても主の御再臨の直前にリバイバルが起こらねばならなくなっている。

われらはこのことを示されておるから、力を尽くしてリバイバルを祈り、またその継続を願うておるのである。「主の来たるは遅からんと思い」(マタイ二四・四八)おる人々には真剣にリバイバルを祈りえない。もしあるとしても自分の教会の繁盛のために祈るぐらいのもので、真の再臨の主にまみゆるためのものとして求むることをしないのである。

ウェスレーによりて英国に起こったリバイバルの時は、日本の今日と彷彿たるものである。かの時には英国は宗教界も政治界も経済界も行き詰まり、仏国の革命思想で大混乱をきたした時であった。ウェスレーのリバイバルは確かに英国を救うたと歴史家は申しておる。いまわが国に起こっておるリバイバルも、かくなることとわれらは信じている

聖霊か聖書か

プレマス派の世界大会において、神と聖書とどちらがたいせつであるかと大議論をなし、神がたいせつであると申した者を異端者として退けたとのことを耳にしたのは数年前であった。

日本の聖潔派のうちに同じような事を口にする者が起こりかけている。これは昨年のリバイバル後、ことに語り合うようになった。これは聖徒の信仰上実にうれしきことであるが、またいっぽうにおいて注意を要することである。これはいっぽうにのみ偏するととんでもない誤りに陥るからである。

われらは聖霊あっての聖書であり、極論すれば聖書がなくとも聖霊さえあればよいと信じておるものであるけれども、すでにそのみことばをしるしたるところの聖書が与えられあるから、聖霊によりて聖書を悟り、聖書によりて聖霊の御思いを知るようにしておるのである。もし聖書の文句にばかりとらわれて、聖霊をあがむることをせなければ、儒教のいわゆる腐儒ふじゅとなるように、聖書が一種の儀文となるような恐れがある。「儀文は殺し、御霊は生かせばなり」(Ⅱコリント三・六)とあるのはこのことである。同じく聖句を引照するにしても、聖霊をあがめなければ、その聖句は人を生かすいのちのことばとならないのである。さればどこまでも聖霊をあがむることを第一にせねばならぬ。

どちらかといえば、聖潔派の人々はみことばを重んずるあまり、それを味わい、それを研究することに没頭していた傾向がある。それは実に喜ばしきことである。しかし、そのみことばの深い意味を悟らしてくださる聖霊のあがめかたが足りないような気がする。われらは世間から聖霊派と言われている。どうかその名のごとくもっともっと聖霊をあがむるようになりたいものである。説教する時にちょっとお祈りして聖霊の御助けを乞うようなたよりかたではいけない。お祈りばかりしていてはだめだからとて、いろいろな人間細工の広告などに力こぶを入るるようでは聖霊は御手をお引きなさる。これはどうしても極端といわるるほど聖霊のみをあがむるようにせねばならぬ。

聖書を学ぶことも幸いなことであり、また必要なことであるが、それ以上に聖霊をあがむるようにせねばならぬ。なぜならば、聖霊は聖霊であって、聖書の知識は聖霊の代わりになるものでないからである。あたかも熱心に伝道することが聖霊のバプテスマの代わりにならぬと同じである。いわんや壮厳なる儀式または社会奉仕においてをや。かかるものはけっして聖霊の代理をなしうるものでない。

例を過去に求むるならば、われらはなんとかして初代のクエーカーのごとく、またメソジストのごとく、単純に聖霊のみをあがめ、心中にささやきたもうその御声に従うようになりたい。誤解したもうな。われらは聖書を軽く見るのでない。もっと聖霊をあがむるようにしたいからである。かくするならば日本のホーリネス人はもっと祈り深くなり、もっと敬虔になり、もっと熱烈に、また活動するようになるに相違ない。いまはあまりに世間が複雑でうるさいから、いっそう聖霊をあがむる必要を感ぜしめられている。

真の祈祷の家

ホ教会では数年前より「祈りの家」という看板をあぐることになった。これはホ教会の使命と特色をよく表わしたることばである。もしこれをあげていないところがあるならば、至急実行してもらいたい。

看板を出すことはあえてむずかしきことでない。それを実行するところに価値があるのである。人数の多少でない。その家において力を尽くして祈る人があるならば、祈りの家としての実質を備えたものである。教会堂のうちに賛美歌の声がひびき渡っていることは実に楽しきものである。それに劣らず祈りの声が聞こゆるならばさらにうれしきことである。

「いかなれば教徒がこの救いを生活に表わさざるかと言うに……この世のことを語ることと、説教しまた説教を聞くことのあまり多くして自らかえりみ、祈りすることのあまりに少なきためである」とブラムエルは申したが、教会堂は演説場と変わり、あまりありがた味がなくなったことは事実である。いったい説教でリバイバルが起こると思うておるのが大まちがいである。ある人は薬をばみな海に投げ込むなれば、魚には気の毒であるが、人間はもっと健康になるだろうと申したのは、真理をうがったことばであるように、説教会だなんだかんだと種々のもよおしをする時間をさいて、教会はその真面目を発揮し、祈ることに多くの時間を費やすようになれば、信者の信仰状態がもっとよくなるに相違ない。ことに教会をあげてとりなしにはいるならば、実に最高の奉仕にはいったものである。救いを求むる人、またはいやしを求むる人は祈りの家に来たりて祈ってもらうようになれば、教会は人々の実生活にはいったものであるが、主の花嫁の完成のために、聖霊の言いがたき嘆きを分担するという最高のとりなしの秘密を知るならば、地上の教会としてこれ以上の務めがないというところにはいったものである。

されば祈りの家は単に世間にある御祈祷所として終わるべきものでない。これは、地上にある至聖所として、祭司の務めを行なわねばならぬところである。ゆえにそこには主の御血があがめられ、聖霊があがめられねばならぬ。しからずば、神と顔と顔とを合わせて語るというわけにはゆかない。

リバイバルなるものはかかるところで積まれた祈りの結果である。足をすりこ木にしてかけずり回ってもだめである。よろしく祈りの家に閉じこもり、ひたすら祈るほうがはるかに多くのたましいが救わるるようになる。これがためには祈りの家は場所の不便な所にあってもかまわない。天の火が燃え上がるならば、どんな細小路のような所へも人々ははせ集まる。また堂々たる人物がりっぱな説教をしなくても、力ある祈りをする人があるならばたましいがどしどしとその座で救わるようになる。これは聖霊の御取り扱いによるのである。

願わくば各ホ教会は真の祈りの家としての実績をあげてほしい。各福音使は祈り手となりて、神と人との間にとりなすという聖職の深味にはいってほしい。しゃべる人よりも祈る人となってほしい。集まりの大部分は祈りに費やさるるようにしてほしい。しからばてきめんたましいが救われて主の御名があがめらるる。

右傾と左傾の迫害

私は去る年会において、日本のホーリネス人はこんど右傾思想の者と左傾思想の者から迫害せらるることを申し述べた。本紙の消息欄、または夏期伝道隊短報にもあるごとく、はたしてそれが起こってきている。

右傾思想家はいうまでもなく、神社思想から起こってきたるもので、皇道と神社、神道との区別を知らずに、やたらむしょうに神社を参拝せざるキリスト者をば非国民呼ばわりをして、皇室に不敬をするかのごとく吹聴して人々を煽動するのである。彼らは袞竜こんりょうの御衣より民を狙撃せんとする悪政治家のごとく、皇室を笠に着て憲法二十八条の侵害をあえてしているやからである。人民の大多数は国体に関する迷信あることに気づかずに、理非をわきまえずに神社参拝を拒否するキリスト者を迫害する。それをもって彼らは真に神に仕うる道と心得ている者もある。あたかもいにしえの天主教徒が新教徒を殺すことをもって神を喜ばす道と心得ていたと同じことである。かかることは今後ひんぱんに起こることと覚悟しておらねばならぬ。また平素罪を責められて苦しんでいる者は祭礼などを機会として、うっぷん晴らしをすることなどもないでもない。

われらはかかることについては、いかなる悪名をこうむらせられても、あくまで戦う精神でやっている。必要なればこのことのために文字どおりに殉教する決心でやっている。これがためにわれらはパウロの故知にならい、法廷にまで持ち出す準備をしている。その勝敗は念頭にない。信仰のためなら生命をも捨てる者であることを示して、最後の勝利を主によりて得んことを望んでいるのである。

次は左傾の連中の攻撃である。私は不肖なれども、彼らの謬想を暴露して第一線に立っているから、彼らは私とホーリネス人をあだのごとく思い、反宗教の旗印のもとに無法の行動をしている。これは都よりも地方に多く行なわれていることを聞知している。彼らは右傾派のごとく野蛮なことはせないけれども、弁論をもって集会をじゃますることをなし、青年男女を脅迫して信仰を放棄せしめている。われらはどこまでもこの不法の霊と戦う覚悟である。彼らは暴露戦術を用いて、人々をして宗教に対していや気を起こさしめんと努めている。されば少しも彼らに非難されぬようにホーリネスを実生活に現わして進むべきである。

いまやわれらはこの両敵を左右にひかえて戦いつつおる時となった。右傾敵は時の推移とともにその攻撃力が衰うるに相違ない。もしそれがわからずに修養団のいわゆる世界道場などの誇大妄想狂にかかるならば、世界的に淘汰さるるに相違ない。しかし、左傾敵は今後いよいよ盛んになり、日本のあらゆる社会が困らさるるに相違ない。さればいまから聖霊によりて勝ちうるようにしておらねばならぬ。

両極端は同一であるように、いまのところ右傾と左傾は氷炭相入れざるように見ゆるが、元来悪魔来の思想であり、また迷信であるから、ついには相結合して神の教えの進捗をじゃまするようになるかもしない

祷告者

信者はたくさんになった。しかし祈る人は少ない。説教者は多くなった。しかし祷告者はまれである。無意味にことばを羅列して祈る人はある。しかし聖霊により、熱誠こめて悶えて祈る人は少ない。いまは主は聖霊の嘆きを分担して、花嫁の急速完成のために泣きくずれて祈る人を要していたもう。

「われ見て助くる者なく、ささうる者なきを怪しめり」(イザヤ六三・五)、「われひとりの人の国のために石垣を築き、わが前にあたりてそのくずれ口に立ち、われをしてこれを滅ぼさしめざるべき者を彼らのうちに尋ぬれども得ざるなり」(エゼキエル一三・三〇)、「エホバは人なきを見、仲立ちなきを怪しみたまえり」(イザヤ五九・一六)。

左の詩は作者不明のものであるが、ある英字新聞に見いだしたるものである。

われを祷告者となしたまえ
真実に祈りうる者
「終日終夜
エホバに記念せらるる者」と
 (イザヤ六二・六、七)
われを祷告者となしたまえ
暗きと欠乏の中にあるこの世の
罪と悲しみに満つる人々のため
聖霊によりて嘆願する者と
 (ロマ八・二六、二七)
われを祷告者となしたまえ
なんじの御霊にとらえられ
天のビジョンを見せられ
勝ちをえるまで祈りぬかしめよ
 (エゼキエル一・一)
われを祷告者となしたまえ
勝つべき道をわれに教えたまえ
われ立ち場に堅く立ちて祈り続けつ
よし地獄の勢い攻めくるも
 (エペソ六・一三~一八)
われを祷告者となしたまえ
世の人の罪と悲しみをば
われ自らのものとなして
なんじのみもとに嘆願するまで
 (エゼキエル四・五、六)
われを祷告者となしたまえ
なんじが死といのちを分け与えられ
人のために祈る者となり
争いて勝ちをうるまで
 (出エジプト七・一一、一二)
われを祷告者となしたまえ
なんが御旨のあるところを
知りて、そこに飛び入る
なんじが求むるその者となしたまえ
 (詩篇二五・一四)
われを祷告者となしたまえ
われはなお深く死に
むなしくなり砕けて新しくなり
いのちの息に満たしめたまえ
 (エゼキエル一・二一)
われを祷告者となしたまえ
われ君を祈りて帰らしむるという
この驚くべき出来事
この大いになることを示したまえ
 (Ⅱサムエル一九・一〇)
われを祷告者となしたまえ
よし人々に知られず
隠され除外せられても
なんじがみこころのみを休めしめよ
 (箴言二七・一一)

私はわが同労者および同信者が、最後の奉仕ともいうべきこの祷告の奥義を知りて、主とともに苦しむ人となられんことを切願するものである。

すでに前号に述べたるごとく、主は来月の大会において、この大秘密をひらきたもうて、リバイバルの薀奥に達せしめたもうことと信ずるが、いまよりこれがために祈り祈って、その時になりてまごつかぬように、十分霊的準備をしていただきたい。ああ主は日いずる国の聖徒たちを顧みたもう時がきたことは感謝である

らち外のリバイバル

昔のユダヤ人が主を拒んだために、福音が異邦人に伝えられて今日におよんだように、いまや恵みがいわゆる教会内よりも教会外におよんではおりはせぬかと思わるるようなことが、われらの目に映ずるところのことである。

いわゆるキリスト教国におけるキリスト教会なるものは、一種の行き詰まりを感じておることは事実である。過日リース監督よりの書面を見ると、キリスト教国の民はホーリネス人でさえも単調になってしまって、いつも同じことをくり返しておるような状態であるから、主は生っ粋の野蛮人の中から救われ、きよめられたる聖徒を起こして、世界の教民を目ざますというようなすばらしいことが起こるようにしてほしいと申してきた。主は必要とおぼしめさば、かかることをなして自負心の強いキリスト教国の民らを警戒なしたもうことと信ずる。

日本のホーリネス人も自分らはいちばん恵まれておると自慢して、神がいま示していたもう新しきビジョンに直ちに従うことをせなければ、契約の箱が他に移されてしまうかもしれない。これ実に恐るべきことである。

私は多くの教役者たちに面会して、彼らが切実に恵みを慕わぬ状態を見聞して驚いている。これではこの民は救えないから、神は他よりしかも意外なところにリバイバルを起こして、多くの人々を救いたもうように感ずることはしばしばである。これは当然リバイバルの器となるべきところの者らが怠けてひたすら主を求めないからである。神が近くいたもう間に御霊の大傾注を願わなければ、ついには聖霊に見放される恐れがある。

いまや未信者が真剣に求め出しておる時に、教会と教役者等が相変わらず古き皮袋を墨守して、少しの新鮮味もなく、聖霊による躍動がないならば、いまに見よ、彼らは泣いてもほえても追いつけぬようなうき目に陥るに相違ない。そうならないうちに相戒めて、恵みの大潮流に投ずるようにすべきである。

私は最近、あることに遭遇して痛切にそのことを感じた。他教会のある人々は真剣にリバイバルを祈り求むるようになった。しかも、その動機は純真である。また、ある数十万の会員を有する一団体の団長自ら、真の聖潔を求め出して断食して祈っている。これは何を語っているか。主は眠りこけておる純福音の者をばさまさんとて教会外より叫ばしめいたもうのである。試みに路傍に立って純福音を叫んでごらん。いかにせば救わるるかと、その座でたずぬるような熱心なる求道者を見受けることは珍しい現象でない。外からの叫びが教会人の眠りをさまさんとしておるとは不思議なる現象であるが、これは聖霊が急いでいらせらるるために、かく導きたもうことと信ずるほかはない。

もし教会がこの外からの叫びに対して満足を与うることができず、品切れの店のようなことがあるならば、栄光は永遠に教会を離れて、ふたたび取り返すことができぬようになるかもしれない。

聖潔派の人々よ、いま目ざめて立つべき時でないか。主はこの時のためにわれらを招きたもうたのでないか。

不法の霊の鼠入

いまはすなわち末の世(Ⅰヨハネ二・一八)である。不注の霊すなわち赤化運動、または類似の者がどしどし入り込んで秩序を乱すことをしている。彼らはなんでも結束を固くしておる群れを散らすことに力を尽くしている。反宗教運動などもこれにほかならない。近ごろ「希望社」なるものはこれがために大打撃をこうむり、後藤静香氏は社長を辞せざるをえなくなった。私は同社のやりくちについては共鳴しあたわざるものである。しかしあの団体は一種の倫理運動であり、忠君愛国を標傍して悪思想と戦いつつ今日に至ったものである。修養団なども同じ流れのものである。しかるに同社のうちに六年前より入り込んで、もっとも信用をえておった赤党のひとりが巧みに同志をつのり、内がわから暴露するように仕組んで、ついに過日の騒ぎを起こしたものであるとのことである。もちろん後藤氏に失体があったろう。そこが赤党のつけ目である。かかる戦術をもって赤党は多くの団体に入り込み、内から崩壊せしめんとしている。その方法たるや実に巧妙をきわめ、悪らつなものである。

神を中心としているキリスト教界も、彼らに対してゆだんしてはならぬ。彼らは羊皮をかぶった狼のごとく、さも信仰ある者らしく見せて教会に入り込み、教会を撹乱せんと企ておる。反宗教の群れのうちには仏僧が数百人もあるとのことを聞いて諸君はなんと思われたか。あれは仏教徒だからとよそごとのように思うておられるだろうか。詳細に調ぶるならば、キリスト教会内にもおるかもしれない。すでにマルクス主義などに共鳴しておる者が堂々たる教役者の中にもあるではないか。実に思うて見れば危険至極のことである。

私は一般キリスト教会は多少桃色をおびておるから警告してもだめであると思うから、彼らに対しては言わない。しかし同信の聖潔派に対して警告せねばならぬことがある。すなわちなんらの名儀にせよ、ストライキのようなものに加担するような会員をば十分注意し、またこれを教会より除名するくらいの強硬の態度を取るようにせねばならぬ。これを大目に見るようなことをするならば、教会は彼らによりて根底よりくつがえさるるかもしれない。唯一の防御法、また駆除法は聖霊をあがめて、祈りの祭壇に常に火が燃えているようにすることである。さすれば「パウロ多くの柴を集めて火にくべしに、暖かさによりまむしいできたりて、その手につけり」(使徒二八・三)とあるごとく、ばけの皮をかぶっておる赤党はいたたまらなくなるのである。伝道説教ぐらいならまねてばつを合わしておるけれども、聖霊の御臨在の顕著なるところにはとてもおることができぬのである。これについても知ることは、教会の神聖を保つには聖霊による祈りよりほかに道がないということである。

兄弟姉妹よ、ただ教会に集まっておればよいと思いなさるな。その人々がはたして新生しているか、あるいはなお進んできよめられておるかいなやを吟味し、ただ主のみをあがむる者のみの群れとするよう、聖霊の鋭き光のもとにその真相を暴露していただくよう、大いに祈り求むべきである

祷告と警告

「なんじらは選ばれたるやから、王なる祭司、きよき民、神につける者なり」(Ⅰペテロ二・九)

昔のイスラエル人は選ばれたる民であった。その民の初子は聖別せられたる者として、神に仕うる祭司であるべきはずであったが、神はその代わりにレビの族を選びて祭司職に当たらせたもうた。これは現代における「天にしるされたる長子どもの教会」(へブル一二・二三)に当たるのである。これは「聖霊の初めて結べる実をもてるわれら」(ロマ八・二三)とある地上の聖徒である。すなわち主の再臨を信じ、キリストの御血によりて聖別せられたる者から成り立っているキリストの花嫁である。

この意味において聖徒は教職といなとを問わず新約時代の祭司である。されば祭司の第一の務めは民のための祷告である。主の名によりて至聖所にまでも行きて神にまみえ、人々の救いのために熱誠祈らねばならぬ。使徒らは「われらは常に祈ることと道を伝うることを務むべし」(使徒六・四)と祈りを第一においたのはこれがためである。祈ることを第一にしない伝道者はいかほど活動しても祭司とは言えない。ここに注意すべきことは、伝道のための祈りでないということである。祭司は神よりみことばを受けたから、それを民に告ぐる職務をおびておるものである。「それ祭司のくちびるに知識を持つべく、また人彼の口より法をたずぬべし。それは祭司は万軍のエホバの使いなればなり」(マラキ二・七)。されば祭司は祷告とともに民に警告することを忘れてはならぬ。

いま要するものはいわゆる説教や聖書の講義でなく、この末の世において神に代わりて人々に警告することである。いにしえからの預言者はみなこの寸法でやったのである。祷告と警告は祭司職におる者につきものであって二つにして一つである。されば現代の聖徒はどちらにも偏してはならぬ。ことに左のことは教役者および信者も忘れてはならぬことである。「すべてのもの神よりづ。彼キリストによりわれらをしておのれと和がしめ、かつその和がしむる務めをわれらに授く。すなわち神キリストにありて世をおのれと和がしめ、その罪をこれ負わせず、また和がしむることばをわれらにゆだねたまえり。このゆえにわれら召されてキリストの使いとなれり。……われらキリストに代わりて、なんじらが神に和がんことをなんじらに願う」(Ⅱコリント五・一八~二〇)。旧約の祭司は神の律法を説いたが、新約の祭司は民を警告して悔い改めに導くとともに、信仰によりて神と和ぐ(ロマ五・一)ことと恵みのことばを伝うるものであることを忘れてはならぬ。この和ぎということばとその務めの中には祷告と警告が一致している。神はいまかかる人を要していたもうのである。

主の再臨は近い。されば私は何はさておき、携挙せらるる準備をせよと警告するのである。これがためにいっさいを捨てて祈祷会を開けと勧めておるのである。その準備ができておるか。しからば準備ができていない信者や未信者に対して警告せよと叫ぶのである。これは聖霊の重荷である。その嘆きもそこにあるのである。御霊によりて神にとりなし、御霊によりて人に警告するのである。この二つの務めは祭司の特権である

反省の時

ことしもあますところわずかである。だれしも過去を反省させられる。多くの人々は自分はいままで何をなしたかという仕事のほうばかりを調べて、神の目にいかに見えたかについて考うることが少ない。されば来年こそはと決心する人の多くは、ことしは十分働けなかったけれども来年は何かをやろうとするのである。

仕事というものは十分神に恵まれたる自然の結果にほかならない。恵まるることが第一で、仕事はそれに伴うものである。サタンはこの末の世において、種々の仕事を持ち込んで奔命に疲らそうとするから、よほど注意して彼の手に陥らぬようにせねばならぬ。

私は近ごろしきりに考えさせらるることは、信仰界における自然淘汰である。かつてわれらとともに純福音宣伝の第一戦に立った人でありながら、いまは見る影もなき者となっておる人は少なくない。これがかつて聖潔を説いたことのある人かとわが目を疑わざるをえないような人もある。また、よし同じ戦線に立っておる人でも、昔のおもかげが失せてしもうて、いわゆる気息えんえんとして、かろうじて信仰の命脈をつないでおるようなのもある。信者にして当然恵みに成長して純福音のために力ある証しを立てねばならぬはずの人が、理屈はよく知っておるけれども、「初めの愛を離れ」(黙示録二・四)てしもうて、少しもたのもしいところがなくなっておるのもある。

しからば、その原因は年のせいであるかというに、肉体のほうから言えばまだ働きうる人であるのに、霊的にボケておるからである。要するに聖霊との接触がなくなってしまい、焼きの戻った匁物のようになったからである。信仰界のことは正直なもので、実際聖霊に満たされていなければ、よし年功があっても、経験を積んでいても何の役にも立たぬものである。

これは人ごとでない、うっかりしておると、やがてわが身にも降りきたることを感じておる。「おのれのからだを打ちてこれを服せしむ。そはほかの人を教えて、自ら捨てられんことを恐るればなり」(Ⅰコリント九・二九)と、パウロが聖霊に感じて申されたのはこのことであると示されておる。されば主の御前にへりくだりて自己を反省し、聖霊によりて新たにしていただかねばならぬと痛切に感ぜしめられておる。

信仰界は情実を許さない。進む者はどしどし進んで行く。先輩後輩の区別を立ててもの言うのは肉の世界のことである。パウロやバルナバのごとぎ新参者でも、嶄然ざんぜん頭角を現わすのは霊界にありがちのことである。まだ恵まれてさえおればヨシュアやカレブのごとく、老人になってもなお出入りして戦うにさしつかえない人もある。この点については肉の力で格闘する世界の人々と違い、いつまでも戦いうるのである。されば信仰界には隠居を許さない。いわんや主の御再臨の間近い時にどうして隠退的態度を取っておられようか。その来たりたもうまぎわまで奮闘しつつ主の喜びに入るよう心がくべきである。

調ぶべきはいまのわれである。過去に何をしたかでなく、いまのわれは主になんと見られておるかを知りて目ざむべき時である

聖書の境界線

聖書によれば、この世はやがて滅ぼさるべきものとしてある。そはこの世の主はサタンであるからである。それを人間の手によりて美化しようとすることはサタンを悔い改めさして、きよき天使のごとくしようとすることと同じである。されば聖徒はこの世に対してはっきりした態度をとっておらねばならぬ。しからざれば聖徒は世の中に切り込んで行く代わりに、どしどし世に侵入されてしまう。されば聖書により、聖霊の示しにより、神の教会と世との間に明らかに線を引いておくようにせねばならぬ。しかしこれは双方の関係があまりに複雑になっておるために、なかなか困難である。どれだけまで世と接触を保つべきか、これは規則で定むべきものでない。その都度聖霊のおさしずを受けねばならぬ。

卑近な例であるが、活動写真のごときものである。これをよし、あれを悪しと決めることはなかなかめんどうである。さればホ教会としてはいっさい見ないことにしておる。こうしておけば害を受けることが少ない。またクリスマスを全廃したこともその主意に基づいたのである。何もそんなに極端にせないでもよいと思うておる人もあろうが、これくらいの態度でやらなければ教会がいつのまにか俗化してしまうのである。俗化してしもうてからなんのかんのと騒いでもあとの祭りである。とても矯正しうるものでない。「またこの世にならうなかれ」(ロマ一二・二)とはこの時代と妥協するなとの命令である。社会相手に追従的行動をとっている諸教会の現状は、それをよく映しているではないか。あれではこの世を教化するどころか、かえって世に教化されてしまうのみである。現に世に引きずられておるではないか。われらはそれを恐るるのである。されば世間からなんと思われてもよい、神の前に全き歩みをせよと勧むるのである。

いわゆる思想問題に関しては、われらは明白に現代の社会運動家の見るところとは、キリストの再臨を信じ、またこれを待っておる者として、全然異なっていることは同信の人々の熟知していることと思う。されば人間の手では社会はけっして根本的に改善できぬものといかなる場合にも言明すべきである。どこまでも主のみことばのごとく「いまの世は悪し」ときたんなく言うべきである。

われらはいま悪化して行く世におりつつ、世人のひとりとして生活するにはいかにすべきか、こまかいところまで研究しつつおるものである。教会は富に対していかなる態度をとるべきか、自分らの子弟を教化するにどの程度においてすべきか、各個人の生活の様式をいかにすべきか、その他百般のことにつき、聖書の光によりて適当なる処置をなすべきことである。もしこれらのことにつき、罪の世人とも違い、いわゆるクリスチャンとも異なったことをするならば、世間からは気違い扱いにせらるることだろう。いまでも極端者にせられている。どうせわれらは極端なところに行くのであるから、かかる批評は覚悟の上である。主の再臨まで時はあまり残っていない。よろしく聖徒としての歩みを全うすべきだ。