一九三三年(昭和八年)

中田重治

ことしのラッパ祭

「見よ、われ奥義をなんじらに言わん。われらすべて眠りにつくにはあらざれど、終わりのラッパにて、われらはたちまちまたたく間に化せん」(Ⅰコリント一五・五一、五二)

この終わりのラッパなるものがユダヤのラッパ祭の時に鳴るものとすれば、別項記載のごとく、ことしは九月二十一日に当たるのである。キリストの再臨の日については「父がおのれ自らの力のうちにおきたまえる時、また期を知ることはなんじらのものにあらず」(使徒一・七)とあるからわれらには不可解のことである。しかし他方には「かくのごとくなんじらもこれらのすべての事を見るときは、その近づきて門口にあることを知れ」(マタイ二四・三三)とあるから、種々のしるしによって主の再臨の近きを知ることができるのである。

われらはことしのラッパ祭の当日に主が来たりたもうとは断言しない。あるいはそうかもしれない。そうでないかもしれない。どっちみち主の再臨が近いと知っておくことは遅いと思っているよりも幸いなことである。さればきたる九月二十一日を区切りとして前進することは、われらの霊性にとっても奉仕にとっても大いなる刺激となることと信ずる。主を愛慕しているわれらとしては、きたるラッパ祭の前でもよいから来ていただきたいと切願している。妃エステルは三十日経たねば王に至ることができなかったのを信仰により三日に縮めて王の玉座に近づいたごとく、われらは信仰の祈りによりて御再臨の日を短縮していただくようにすべきである。

さればわれらにとってはことしのラッパ祭はどうでもよい。ただ今年中に栄化のためのラッパが鳴るように祈るものである。すなわちこの時代の末を示すところの神のラッパが鳴ることを願う。それは集めるためのラッパであるから聖徒が神のもとに集められる時のラッパである。それはすなわち携挙である。「また彼は大いなるラッパのひびきのうちに、その使いたちを遣わさん。彼らは天のはてより、そのはてに至る四つの風にて、その選ばれたる者を集むべし」(マタイ二四・三一)。この四つの風は御霊であって、この霊は肉離れして身軽くなった者のみを携え上げる風である。われらはこの風の一日も早く吹ききたることを願ってやまないものである。聖書に「人の子よ、息に預言せよ。人の子よ預言して息に言え。主エホバ言いたもう、息よ、なんじ四方の風よりきたれよ」(エゼキエル三七・九)とあるが、われらは携挙のその時まで、この霊のみわざを祈らねばならぬ。この御霊の風が神のラッパの声を全地にひびかせて、聖徒をば墓の中より呼び起こし、生き残れる聖徒を栄化せしむるところのものである。心なき軍馬でさえも進軍ラッパが鳴るならば、われらは実に喜び躍るに相違ない。しかしこのラッパは戦いのためのものでなく凱旋のラッパである。陰府に勝ち、死に勝ってこその勝利のラッパである。

われらは地上で新年を迎えるのは、これが最後であってほしい。除夜の鐘でなく、天界の元日も神のラッパをもって迎えたいものである。それが今年中であってほしい。

伝道と主の再臨

主の再臨に関する思想に二つの流れがある。一つは千年期前再臨説で、他は千年後再臨説である。前者はキリストが再臨したもうてのちに千年王国がきたると信じ、後者は世は改善せられてその結果千年王国となり、それからキリストは大審判の時に再臨するというのである。後者のうちにはいまは千年王国時代であると説くのもある。どっちみちキリストはいますぐにくるのでなく、千年王国後に来たりたもうと信じている。前者はキリストの再臨をば一日でも早かれかしと求め、かつ祈るのである。後者は概してそれに対する憧憬がないようである。

われらはむろん前者を信ずる。しかし同じく信じていても、十分伝道してからでなければ、主は再臨したまわぬかのごときことを言い、一種変態後の千年後再臨説に類したことを言っている者もなきにしもあらずである。これは大いに注意すべきことである。聖書には「また天国のこの福音を万民に証しせんために、あまねく天下に宣べ伝えられん。しかるのち終わりに至るべし」(マタイ二四・一四)とある。この宣伝は全世界を教化してからというのではない。これは証しである。この意味がわからないと、まだ救われていない者はたくさんあるから、主の再臨がそう早くては困ると口に言わなくとも腹の中でそう思うようになる。されば主よ来たりたまえと心底から祈らないようになる。かかる人は、主よ来たりたまえと祈らんでも、コツコツ伝道して人を救うてさえおれば、主のほうで都合よろしき時においでくださる、とすましているような風がある。これははたして主を愛する者の態度であろうか。ご自分の王国を早く建てたく思っていられる主の御旨をわきまえておるなれば、冷淡にしておられぬはずである。われ必ずすみやかに至らん(黙示録一三・二〇)とあるから、なんとかお答えせねばなるまい。しかるにこちらの都合のために、すなわちまだ救われずにいる親族縁者があるために、しばらくお待ちを願いますと言わんばかりの態度であっては、神の聖霊を憂えしめること最も大いなるものである。

われらは主の再臨が近いからいよいよ伝道する。しかし伝道するなれば悪魔の領分が狭くなって、ついにキリストの御支配のみになると思うならば、それはいわゆるキリストの千年期後再臨説によって起こるところのもので、純なものでない。そんなことを説く人は未信者が新生して教会に加わる数よりも、不信の世と生まれ出る未信者の数のほうが数倍していることに心づかぬ人である。われらは世はますます悪化していると信じている。されば一日も早くキリストに来ていただくことも、教会にとっても全世界にとっても何より幸いなことであると信じている。

伝道は神の国に達する方法であり、早める道であって目的でない。神の国とその国の主なるキリストの再臨が目的である。どうして方法を目的と誤認するような愚かに陥っておられようか。思想上てん末を取り違えると、とかくかかることがわからなくなる。

されば何がなんでもよい。主よ来たりたまえと熱心に祈るべきである。そして御再臨の当日まで、教会の使命、すなわち証しの務めを忘れてはならぬ。これをごっちゃにしてはいけない。

聖霊の言えるごとくせよ

このみことばはいまより四年前、リバイバルが起こった直後に与えられたもので、いかに多くの聖徒を感動せしめたみことばであろうか。以後今日に至るまで幾たびかこのみことばで励まされていることである。しかり、聖霊の御命令にさえ従っておるなればけっしてまちがいは起こらない。

日本は外交はもちろん、すべての点において独自の立場において行動するようになったことは、実に喜ばしいことである。しかしキリスト教は依然として諸外国に追従している傾向があると見るのは、予のひが目とは思わない。堂々たる団体でありながら、諸外国のポケットをあてにしていることはありがちなことで、まだ目がさめずにいる。したがって聖書の解釈なども、西洋のだれそれがかく申しているというので容易に受け入れる風がある。予は最近「聖書より見たる日本」という本を出したが、著者自身も西洋の大家の中には、かかることを申した人がなかろうかと思って、二十数年間探していたことをここに告白する。西洋の大家の裏書きのないものは価値がないと思う心が、日本人のキリスト信者のうちにある間は、とても日本独特の神学も生まれ出てこないし、宗教運動も起こりはしない。そしていつまでも西洋の糟粕をなめていることとなる。これ実になさけないことである。永井氏の新契約聖書は世界無比の訳であると申しても、西洋かぶれの教師どもは、まさか日本人の手でそんなことはできるものかと、調べもしないで、先輩の三十年間の苦心の結晶を尊重しない。万事がこの調子でいくから遅れに遅れて年々教会が凋落していくではないか。

西洋人も西洋の著書も過去においてはたしかに、世界教化のために用いられたことは事実である。しかしこれはこの時代的眼光をもって見ねばならぬものである。いつまでも同じことをくり返しておるべきものではない。いまは終わりに向かって急ぎいる時であるから、聖霊はその秘密を白紙になって信じ従う者におしげなく示したもう時である。聖書の注釈にしても、伝道の方法にしても、説教の仕方にしても、祈祷のしぶりにしても、聖霊の導かるるままなすべき時であって、何も欧米各国のまねをせずともよいのである。

かく申すのは西洋各国に反抗して言うのではない。神は日本の聖徒に大使命を与え、小にしては全世界の教勢の行き詰まりを打開し、大にしては主の再臨を早めるために、祈りにおいて思想において、活動において大活躍をなさしめんとしていたもうことを知るからである。現今のままでは、ただ引きずられて行くのみならず、ついには世界のキリスト教界より抹消されてしまうのみである。

この際にたよりまつるは聖霊のみである。ひたすら聖霊のおささやきにのみ従うべきである。「なんじらもしきょうその声を聞かば……なんじら心をかたくなにするなかれ」(へブル三・七、八)。よしその御声が、アブラハムよ、イサクをささげよと人情に反したようなことでも、無条件に従うようにするならば、神は驚くべく日本の教会を用いたもうに相違ない。いまはわれらいっさいをかなぐり捨てて、聖霊の言えるごとくする時である

朝日ににおう山桜

「もろもろの花は地に現われ、鳥のさえずる時すでに至れり」(雅歌二・一二)

どうして聖徒は歌わずにおられようか。「そのほおはかぐわしき花の香のごとく、かおり草の壇のごとし。そのくちびるはゆりのごとくにして、没薬の汁をしたたらす」(雅歌五・一三)。イエス君のみそばにはべりおる者は「わが愛する者は万人の上に越ゆ」とほめたたえずにはおられない。

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わが主はまた「義の日」(マラキ四・二)である。しかも「夜すでにふけて日近づけり」(ロマ一三・一二)。六千年間の暗黒の夜は破れて、再臨の輝ける主はまさに現われんとしていたもう。その状態は「日の出の朝の光のごとく、雲なき朝のごとく」(Ⅱサムエル二三・四)であろ う。ああ、その黎明は待ちどおしい。その日の一日もすみやかならんことを願う。

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やがて「彼は縫いものせる衣を着て主のもとにいざなわる」(詩篇四五・一四)とあるごとく、主の花嫁なる教会は花婿なる主イエスのみもとに、聖霊に伴われて行くその時は、いかに麗しき光景ぞや。その時は実に朝日ににおう桜花で、麗しのきわみである。ああ山桜。これ実に聖徒の形である。

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夜桜をもし罪の夜にある聖徒とすれば、朝日に輝く山桜は再臨の主の光輝に包まれた聖徒である。復活の恵みに輝ける教会である。

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予は八重桜よりも山桜を愛する。八重桜は人間ざいくが加わっているような気がする。山桜の単純にして、その散りぐあいのよいのを見ると、そぞろ携挙が慕われる。山桜の特徴は何か。その色はあえて婉麗ではない。かおりもない。きわめて平凡である。あえて実の賞すべきものもない。しかるに人々はこれを愛する。予は信仰眼をもって見るときに、それは実に地上の聖徒の集団であると見た。個々の花としては、それよりも美しきものがあろう。その麗しさは一致結合して、満山の美を一身に集めているところにある。いっしょに咲いていっしょに散る。そこには少しも個性のわがままがない。朝日ににおうその美は集団的であるところに現われる。「諸国、諸族、諸民、諸音の中より、だれも数え尽くすことあたわざるほどの多くの人」(黙示録七・九)が、宝座をさしてつどう光景を、予は山桜によって想像する。これを思うときには一本の山桜にも見とれる。いわんや岡といわず谷といわず、一面に山桜をもって包まれているところを見るにおいてをや。

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新エルサレムにいのちの木があって十二種の実をば月ごとに結ぶとある。実がある以上は花があるに相違ない。もし花があるとすれば、いのちの水の川のほとりにある木であるから、山桜のような花でないかと思われる。それが光なる主の光輝に映ずるときには、とてもこの世において見ることができぬほどのものであろう。

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「人の栄えは野の花のごとし、風すぐればうせてあとなく、そのおいいでしところに問えど、なお知らざるなり」(諸篇一〇三・一六)。われらの望む栄えはかかるものでなく、永遠の栄えであって天来のものである。携挙後にわれらの在所を探す心があっても、見いだすことはできない。われらは一種の彼岸桜である

預言者の確言

「ことに預言者の確きことばわれらにあり。このことばは暗きところに照れるともしびのごときものなり」(Ⅱペテロ一・一九)

聖書の高等批評家は、聖書の神のことばなることを信じない。さればむろん預言を信じない。彼らには時の徴しも見えないから、それを解釈する聖書を見てもわかるはずがない。されば預言中の預言たるキリストの再臨の話をしても、彼らの耳にはいっこうひびかないのである。また聖潔派といわれる純福音を信ずる人々でも、長い間聖書を心霊的にのみ解釈してきているから、預言を預言として受け入れるのにちゅうちょするような風がある。ことにユダヤ人に関する約束を、現代の教会にのみあてはめて解釈してきたくせがついているので、預言については盲目の人が多い。これ実に大いなる誤謬である。

いまは預言について学ばねばならぬたいせつな時である。そは刻々万事が預言どうり成就しつつある時であるからである。ユダヤ人の動きを見よ。これは実にただごとではない。キリストの再臨と関係して等閑に付しておくべきではない。新聞に報道せられるところを見るたびごとに息づまるほどに感ぜられる。この次はいかなることが起こるかと目を見張っておらねばならぬ。世人はただ驚くだろう。しかしわれらには今後の出来事について預言の光があるから何もろうばいせずともよい。これは暗夜の光明である。ああ神はこの預言したまえるごとくなしいたもう、と神を賛美しておればよい。これについてキリスト信者は無知であってはならぬ。いよいよ聖霊をあがめてこの真理を教えていただくようにせねばならぬ。ペンテコステのバプテスマの特徴は預言することである(使徒二・一七、一八)。聖霊に満たされるならば民に警告し、きたらんとすることについて預言するのは当然である。いまはことに末の日である。ヨハネの預言が実現しつつある時である。近来聖潔派の人々のうちに、預言研究の精神が勃興してこれを知らんことを熱望するようになっていることは注目すべき現象で、聖徒が目ざめかけた証拠である。それに伴ってこの大和民族が何をなすべきであるか、聖書の預言の光から知らんことを求めるようになってきた。いまはばくとした意味で聖書を説いても間尺に合わない時となった。はっきりと預言の光をもって説明せねばならなくなった。また人々が聞かんと欲するところのものはこれである。「彼すなわち真理の御霊の来たらん時……来たらんとすることをなんじらに示すべければなり」(ヨハネ一六・一三)。過去のことでなく、いまはまさに来たらんとするところのことを語る時である。

愛兄姉よ、諸兄姉の心中にこの預言者のかたきことばはすえおかれてあるか。もしあるならば再臨せんとしていたもう明星なるキリストはあざやかに内住していたもうはずである。かく内住したもうキリストの御声に従っておるならば、どうして預言せずにおられようか。われらの預言に人々が耳を傾けようが傾けまいが人々の自由である。しかしわれらとしてはこれをもって警告するのがわれらの義務である。

諸教会の憂慮

「ここに言わざるほかのことありて、日々われに迫る。すなわちすべての教会のおもんばかりなり。たれか弱りてわれ弱らざらんや。たれかつまずきてわが心熱せざらんや」(Ⅱコリント一一・二八、二九)

感じの鈍い予も聖霊の御訓導のもとに、諸教会のおもんばかりなるものが何であるかを、いくぶん悟りえるようになったことは感謝である。

諸教会とは他の教派のことではない。さしあたり予の関係している数百の教会である。予は幾度か申したように、いまのままにて進み行くなればけっして他教会におくれをとることはないと信じている。これは従来の進歩率から割り出してのことである。これを予のじまんという人があるなら、しばらく傍観してことのなりゆきを見ていただきたい。

予の気にかかっていることはそんなことではない。わが教会員が再臨の主の前に幾パーセント立ちうるかということである。これを思う時には夜中にも目ざめて祈るように導かれる。どうしたなら世間なみの聖徒を造り出せるかでなく、どうしたら主の花嫁の群れに加わる者が起こるかということである。その指導の任にあたっている教役者のことを思う時にはなんとも言えぬ痛苦を感ずる。問題はその人々の生活に関することではない。心霊上の問題である。

わが教会の教役者は概して年若で、無経験で聖書につける知識も乏しい。「なんじ年若きをもて人に軽んぜらるるなかれ」(Ⅰテモテ四・一二)と奨励はしておるけれども、何か誘惑に陥りはせぬかと心もとなく思う。その下におる青年男女の信者間にまちがいがないように日夜祈らせられる。牧会上についてもとっぴょうしもないことをして世間に笑わせられぬかと上よりの知恵を与えたまえと祈らざるをえない。老練の教役者のためには、なんとかして聖霊の新しき御導きのもとに、陣容を新たにしてもらいたいと願うことが切実である。わが教会も古色蒼然たる状態になって少しの新鮮味もなくなりはせぬかと、自分が古株でありながらそれを心配する。経験なるものは偶像になりやすいものである。知識なるものは人を誇らしめる。少し成功するととかくおさまりたがる。これは進歩が止まった証拠である。かかる人の下に牧せられる教会はどこも進歩が鈍い。

主はいま諸教会をあげて祷告に熱中せしめいたもう。この流れを知らずに相変わらず旧式を墨守しているならば、主がこの末の世においてホ教会を選びたまえる御主意を没却してしまう恐れがある。それでは主に対してはまことに相すまない。彼を待つ人のごとくしていない教会は、い きいきしていないのみではなく、へたをすると携挙の恵みにあずかりえないようになるかもしれない。それでは多年の尽力と祈祷が水泡に帰することになる。これを思って寝ても起きてもいられない。祷告また祷告、警告また警告と、聖霊をあがめて最善を尽くさねばならない。

予はこの苦痛をいくぶんにても分担する身とせられたことを感謝する。予はわが同労者にこれをいくぶんにても分担して軽くしてくれとは言わない。ただお互いにそれを自覚して自ら進んで積極的に教会のために苦しむ者となってほしいものである。

キリストを言い表わす霊

ヨハネ一書四・一~三を見ると、真理と迷いの霊の区別を示している。ここにはイエス・キリストを言い表わさざる霊は、キリストに敵する者(すなわちにせキリスト)の霊であるとしてある。

キリスト教会であるならば、みなキリストをあがめているかと言えば、実際はそうではなく、人間と人間のわざがあがめられていてキリストが隠されている。これでは看板に偽りがあると見ねばならない。いかに盛んな教会であっても、キリストがあがめられなければ、サタンの会と同じである。このキリストを偶像として拝んでいる天主教のごとき、また一個の人間として見ている近世主義者のごときは、みなにせキリストの亜流である。

キリストのお弟子たちは、ペンテコステの時に聖霊に満たされた。これは「地の果てまでわが証人となるべし」(使徒一・八)との御命令を実行するためには、ぜひとも起こらねばならぬことであった。キリストの証人でほかの証人ではない。学者や金持ちや英雄豪傑の証しをするのではない。万人の救い主なるキリストのために証人となるのである。キリスト信者は個人としても教会としても、この証しをしておらねば全くゼロである。これがためには過去のキリストのみならず、現在生きていたもうキリストの証しをたてねばならぬ。聖霊がこれがためにいまも働きいたもうのである。

その来たる時にわがために証しをなすべし」(ヨハネ一五・二六)とあるごとく、ペンテコステの時に弟子たちはみな上よりの火を受けて、かかる者にせられた。しかり、火によらねば真の証しができるものではない。キリスト論を神学的にうまく論証しても、火がなければその論には生命がない。弟子たちはキリストの話を聞いた。そのよみがえりをも昇天をも実見した。しかし、それだけでは不十分であった。どうしても火を受けねばならなくなった。今日死せる正統派といわゆる神学者がいくらあっても、リバイバルが起こらないのは火がないからである。すなわちキリストを言い表わす霊がうちに燃えていないからである。

なお進んで証しをせねばならないことは来たらんとするキリストに関することである。「イエス・キリストの肉体となりて来たりたもうことを言い表わさず、このまどいに誘う者はすなわちキリストの敵なればなり」(Ⅱヨハネ七)。真にキリストを証しする者は再臨のキリストをも証しせねばならない。聖霊をあがめてその言いたもうごとく従う者は、早晩ここに達せねばならぬ。これに反対する者はにせキリストの霊にとりつかわれている者と言わざるをえない。また「御霊と花嫁と言う、来たれ」(黙示録二二・一七)とある真の意味を悟るなれば、聖霊の内住と花嫁なる真の教会についている者は「主イエスよ、来たりたまえ」(同二二・二〇)と祈るようになるのは当然のことである。

きたる四日はペンテコステの日に相当する。こいねがわくばこの日において、キリストを言い表わす霊に十分満たされていただきたい。同時に、キリストの前の煙幕のごときものはことごとく捨ててしまう覚悟で、個人にも教会にも大掃除を行なうべきである。「人聖霊に感ぜざればイエスを主と言うあたわず」(Ⅰコリント一二・三)とあるから、いよいよ聖霊に満たされるようにすべきである。

入梅訓

いまは入梅の最中である。どこを見ても湿気が多く、じめじめしてうっとうしい。霖雨とはこの時の雨である。梅はかびに通じ、物にかびが生えるのはこの時節である。これは生命のない器物に生ずるばい菌作用で、生きておりさえすれば梅の実も熟するというけっこうな時節である。信仰にもかびが生えることがありとすれば、これは上よりの生命に満たされていないためである。

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梅雨はどうして起こるか。北氷洋の氷がとけてベーリング海峡を通ってくる寒流のために、日本の東海岸に高気圧が起こり、それに南方大陸よりくる低気圧がぶつかるために生ずるものであると科学者は言う。霊界において悪魔来の寒流があるためにどれだけ撹乱せらるるかしれない。この時にたいがいの病人が弱るように、信仰界においても霊病にかかっている人は、大いに悩まされる。思想界の悪気流も北方来のものである。佐野、鍋山などは転向しているとはいうものの、まだ油断ならぬ天候である。

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予は日本のある一部で用いる太陰暦に感心している者である。あれは実に日本の気候に適してできている。入梅または土用入りなど、実に符節を合わせるごとくである。「聖書にエホバは月を造りて時をつかさどらせたまえり」(詩篇一〇四・一九)とあるから、できるならば旧暦を用いたいと思うほどである。ここにも西洋かぶれが現われて、不便を忍びつつ、万国なみに太陽暦を用いねばならぬようにせられている。ユダヤ暦はどちらかといえば、太陰暦に類した特殊のものである。もし千年王国時代に暦が用いられるとすれば、太陰暦が用いられることと信ずる。

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わが国でも樺太、北海道、概して日本海に面している所、または台湾には入梅がない。神はわが全国を陰鬱な空気をもっておおいたまわない。「ただイスラエルの子孫のおるゴセンの地には雹あらざりき」(出エジプト九・二六)とあるごとく、主に贖われしわれらはかかる期にあっても、主によりて「わが民は平和の家におり、思い煩いなぎ住み家におり、安らかなる休み所におらん」(イザヤ三二・一八)とあるごとく、悪魔来の魔気にかからずにおることができる。

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俗に雷が鳴れば梅雨明けだという。信仰界も天来の御声が一度かかる時には、いっさいの雲霧が排除せられて、神の笑顔を見たてまつることができる。かかる時に「その目をあげしにただイエスのほかひとりをも見ざりき」(マタイ一七・八)とあるごとくなる。「人のいまは空に輝く光を見ることあたわず。されど風きたりてこれを吹ききよむ」(ヨブ三七・二一)。この時まで忍びて待つべきである。

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梅雨は約三十日もたてば晴れる。しかし主イエスに来ていただくには、漫然と時の経過を待つべきでない。信仰の祈りをして、これを短縮していただくべきである。入梅もからつゆと称して雨の少ない年もある。自然のなりゆきにまかしていても、かかる幸福にあうことがある。いわんや全能の神に祈りて、主に早く来ていただくことができないことがあろうか。されば大いに祈るべきだ。

教会式をきらう

予は三十三年前カウマン兄とともにこの運動を開始したその時から、従来の型を破り聖霊の示すままにやることを知らしめられて、鈍いけれども、その方式で進みつつ、ついに今日に至った。これまでになるには種々の経路をたどってきた。しかしいつもいわゆる教会式という、ありふれたことをうち捨てるにいささかもためらわなかった。それがためにはキリスト教界の横紙破りと思われてきた。いまもそう思われているに相違ない。

しからば教会式とはなんであるかというに、型にはまって少しも自由のない、火の気もなく、いのちもない形式いっぺんのやりくちをいうのである。説教にも、祈祷にも、儀式にもそれがある。「主の霊のあるところには自由あり」(Ⅱコリント三・一七)とあるけれども、第一聖霊に働いていただく余地を与えず、人間細工でばかりやろうとするから、聖霊は働きたまわない。されば諸教会は千遍一律同じことをくり返しているにすぎない。

聖潔派は概して聖霊をあがめる団体といわれている。しかしこれもいつとはなしに、欧米を模倣しているので、あまり斬新なところがない。そしていつのまにかいわゆる教会式に捕われて動きがとれぬようになっているのもある。

予はホ教会の創立者であるが、正直のところ、神が何がためにホ教会を起こしたまいしか、長らくの間諒解しなかった。ただ諸教会のやってきたことを踏襲し、その働きぶりにおいて熱心であればよいくらいに思っていた。もちろん四重の福音という特殊の標題があるけれども、これとてもわが教会独占のものでない。他教会でもやっている。しからば何のためにこの群れが起こされたのか。四年前に起こったリバイバル以来、正直に聖霊の言うところに従ってきたところが、いまになってようやくわからせていただくことになった。実にハレルヤである。

これは神はこの群れを選んで祭司となし、最後の祷告をなさしめんとしていたもうことである。諸教会は欧米を通じて神学の発達に努力し、あるいは世界教化に熱中するようになった。もちろんこれらは神の摂理のうちに起こったことである。日本のホ教会もそのあとについて、コツコツやっておればよいのであるか。いないな。一つあいている大使命がある。これは、神の祈りを祈るということである。神はかかる祈り手を起こしたもう。いまその時になった。日本のホーリネス人はこぞってこれにあたるべきである。

この大使命は教会式の目つぶしをやられている人にはわからない。彼らは諸教会なみにやっていればそれで事が足りると思っている。彼らにはビジョンがない。主の再臨が間近いのに気づかない。されば祈祷にも熱がない。主イエスよ来たりたまえとおくびにも出さない。そのくせ賛美歌ではそう歌っている。

ああ教会式にはあいそが尽きる。彼らのまねをしていては信仰がゼロになる。さればなんと批評されようが、迫害されようが、われらに与えられし使命を自覚して、勇往邁進すべきである。諸兄姉よ、これに対してアーメンと言いうるや。

聖潔派の特徴

日本の聖潔派はたしかに欧米のそれとは種々の点において違っているところがある。だれもかくせねばならぬと初めより仕組んだ結果ではなく、聖霊の御指導のもとに白紙で進んできたためであって、実に主の御名を賛美する次第である。これが今後いかように変化して行くかわれらにはわからない。とにかく主の再臨が間近いことであるから、現状が変化するというよりも、いよいよ熱烈になり濃厚になるという意味において、変化することと思われる。すなわちその特色がいよいよ発揮せられるようになることと信ずる。

もとは新生、聖化、神癒、再臨という教理が特色と思われていた。もちろんいまでもこれを力説する。聖書をばそのまま神のことばとして信じていない他教会の人々にとっては、この四重の福音が特色であるように見えるだろう。しかしわれら自ら特色であると見るところは少しく違っている。その特色の一つは、熱心に祈ることである。祈りならば他教会でもやるではないかと言う人があるだろう。われらのは祈りぶりにおいて他とは違っている。いわゆるご上品な祈りではない。声を限りに叫び祈る。人はこれを気違いじみているという。しかり。甘き葡萄酒に酔わされていると見るもむりからぬことである。われらの祈りはルカ伝十八章にあるやもめの祈りのようなもので、神に対して、直接行動的の祈りである。確かにぶっそうな祈りかたであるに相違ない。ただ口さきでばかりでなく、手や足を用い、からだ全体を用いて祈るのである。「求むる、尋ぬる……たたく」(マタイ七・八)とあるのはこのことである。われらのある者はいつでも祈り死ぬ覚悟をもって祈っている。

次に祈りの内容が違っていることである。だんだん祈りが引き上げられて主の再臨を切願するようになった。しかもいま来たりたまえと、じかづけに祈るようになった。欧米各国どこを探してもかかる祈りをする者があるまい。これは神が日本の聖徒に命じたもうた特種のものである。それに伴ってユダヤ人の国家回復のために祈るように導かれた。これ実に驚くべきことである。

かかる次第であるから、近ごろの聖会は、集会のぐあいも賛美歌の歌いぶりまでも変わってきている。昔のように回りくどいことをながながとしゃべるような講演では間尺に合わなくなった。賛美歌も主の再臨に関する歌でなくては、歌っても張り合いがないようになった。なんたる変わりかたであろうか。もし数十年前に聖潔派の会合に出席したことのある人が来て見るならば実に隔世の感があることと思う。常に折衝を保っているわれらさえも、進みかたの早いのには驚嘆しているのである。しかも一般の信者たちがこの火の流れに一致してひたすら祈っているのには敬服の至りである。かく特徴が発揮せられるようになったのは全く聖霊の御指導によることである。

聖潔派とても人間の集合である。弱点を指摘しようとすればいくらもあろう。しかし積極的に祈りに集中するならば、主は必ず欠点を補ってくださることと信じている。

再臨を祈らぬ教会

聖書を信じまた使徒信経を信条として信じている教会であるならば、主の再臨を信ぜぬわけにはいくまい。しかしこれを信じているばかりで、それを祈り求めぬならば、黙示録二二章にある「主イエスよ、来たりたまえ」と祈りえぬ教会は教会という名があっても、花嫁たる教会ということはできない。世の教会の大多数はこの種の教会である。そのおもなるものは天主教会である。もちろん主の祈りを唱える教会がある。しかしはたして心の底から御国をきたらせたまえと祈っているかが疑問である。形式的に祈っているのでは、これを祈らぬ教会の部類に属していると申してもよい。

聖潔派は概して主の再臨を祈る教会と申してもよい。しかし細別すると種々の信仰に区別されている。その一は、主はくるにはくるが、まず福音がすべての人に伝わり、教会すなわち花嫁のよそおいが十分できてからくるというような千年期後再臨説の焼き直しを説いているのもある。これではとても主の再臨を早めたまえと祈ることができない。その二は、主の再臨は主のご都合次第のものであるから、何ほど信者が祈ったとてだめである。むしろなりゆきにまかせておけばよい、という宿命説である。かかることを信ずる人には真剣に祈る迫力がない。されば父なる神はその権内におきたもう時と期をば、信仰よりいずる祈りに答えてどうでもなしうる御方であると信ずることが足りない。その三は、主の再臨を祈ることは祈っておるけれども、これを第一においていないで、ついでに祈るというのもあるが、これをつけたりの祈祷にしている教会がある。われらはかかる教会を目して再臨を祈る教会とは申さない。聖潔派の教会にかかる教会はなかろうか。反省すべきである。第四は、信仰をもって主の再臨を祈ったから、しかも願うところのものをえたりと信じて祈ったから、携挙せられた、主が再臨した、悪魔が底なき穴に投ぜられたと信じてよろしい。もう主よ、来たりたまえと祈らんでもよろしい。感謝し賛美しておればよろしいと、新しい異端を説く者が起こった。これもこの祈祷を否定し、少なくもこの祈りをわきへそらそうとする悪魔の詭計である。これにひっかかっている者が聖潔派の教会内に起こった。これは大いに警戒すべきことである。第五は、主の再臨の信仰はわれらといささかも違ってはいないが、これを祈り求めることをしない教会である。頭では合点している。しかし祈り求めない。われらとは大いに共鳴する。しかしいっしょに祈り求めない。むしろこれを避けている。かかる教会は主を愛し慕う教会ではない。われらはかかる教会と歩調をともにするわけにはいかない。悪魔のいちばんいやがることはこの祈りをすることである。さればなんのかんのと種々の口実を設けて、この祈りをさせぬように努めている。いかにりっぱな理由があるにしても、この祈りをする口を封ぜんとすることはことごとく悪魔来のものとして排除するがよい。この祈りをする数の中には、脱線屋も起こるだろう。口不調法の者も起こるだろう。しかしそのゆえをもってこの最高、最大、最終の祈りをすることを禁ずべきではない。むしろ指導者は適当に指導していくべきである。

携挙と警告

主イエスよ、来りたまえと祈る祈りは、いよいよ激しくなってきた。聖徒の携挙は実に間近い。かかる際に再臨の主を迎うるために、あれも必要だこれも必要だと種々のことを持ち込まれて、この祈りを弱められるようなことをされぬよう注意せねばならぬ。

伝道も可、牧会もけっこう。しかし主イエスに来ていただくことにまされるものはないではないか。救霊のためにまた花嫁の準備のために、御再臨を延ばしてもらいたいと思う者は、聖潔派の人のうちにおそらくあるまい。もしあらばそれは主の千年期前再臨を信じない人である。

しかしいまこられては滅びるたましいをどうするかと思うあまり、もうしばらくの時がほしいと思うところに認識不足がある。われらは携挙せられたのちに患難の時代がくると信じている。その時なおイスラエルを始めとして、全世界の民が悩むと聖書にしるされている。かくして残されている者は主を叫ぶようになり、またイスラエルがことごとく救われるとある。その時は千年王国少し前で大リバイバルが起こるのである。いまわれわれがやっているような救霊運動のごときものではなく、実に全世界にわたるところのものである。しかし記憶せよ、これは全世界の民が三分の一に減じてのちの出来事であって、第二機会説のような気楽なことではない。いまは恩恵の時または救いの日であるが、その時をあてこんでいるような人はずるい人間であるから残される部類に属する人ではないか。

今夜にも携挙があるとすれば、これにまさる警告は他にあるまい。聖徒がかねがね警告しているとおり携挙されるならば、そのことが千百の説教、万の特別集会にまさるものであって、残されし人々の胸に異様の衝動を与えるに相違ない。それによっていかほどの人々が主を呼ぶようになるかわれらは明言することはできない。とにかくある一部には大恐慌をきたすに相違ない。運よくまた神の特別な御取り計らいにより、かろうじて患難の時代を通過して、イスラエル人とともに主を呼び求める仲間にはいることができるとすれば、彼らは栄化の恵みにあずかることができぬにしても、千年王国の住民となることができるだろうと思う。これを思う時には、よしいまのわれらの警告が携挙前に効果を現わせぬにしても、いつかまたはどこかで実を結ぶと信じて、いっさいを主の御手にまかせて最善を尽くすべきである。いわんやわれらのことばかりでなく、主はわれらの待ち望みの祈りに答えたもうて、われらを携挙なしたもうことが事実となって現われるにおいてをや。それゆえどんなにかれこれ言っている人でも事実の前に降参するに相違ない。われらはこれを信じているから、何はともあれ、主よ来たりたまえと祈るのである。これは自分さえ栄化すればよいという自己満足のためではない。実に全世界の民に対する最大の警告であるからである。もちろんこれはサタンに対する大鉄槌である。

もしこの真理がわかるなれば、なんの思い煩いもなく、主よ来たりたまえと、心底より祈ることができる。なぜなれば、主は再臨したもうならば万物がみな復興するからである。

主の再臨と救霊

この二つは比べて論ずるほどのものではないが、近ごろどちらが肝要であるかと問うだけやぼである。言うまでもなく主の再臨は教会の目的で救霊は使命である。目的と使命とを取り違えるようでは困る。どちらがたいせつであるか問わずともわかることではないか。救霊もたいせつである。しかし主の再臨はこれよりもたいせつである。左に例にしたがい個条書きにするから、祈りつつ読んでもらいたい。

一、神の国と教会がどちらがたいせつかと言えば、むろん神の国がたいせつである。これは主の御目的であり、また教会は何よりもまずこれを求むべきである。

二、全世界の民が救われると神の国ができるのではない。人々がみな救われぬうちに主は再来したもうのである。されば人々の状態いかんにかかわらず、主の御再臨を祈るべきである。

三、されば、主イエスよ来たりたまえと祈ることは、罪人を救いたまえと祈るよりもはるかに重大な祈りであるから、第一になすべきである。

四、祈祷と伝道とどちらに重点をおくべきかというに、言わずともしれたことで、祈祷は第一でそれに重点をおくべきだ。

五、祈りばかりをしておれば伝道せずともよいと言う者があるならば、それは祭司の一面のみを見ているので、神の御旨を確かめて人々に警告する人ではない。伝道することが罪であるように言う者があるとすれば、それはいわゆる脱線屋である。聖霊に全く信頼している者は、よく祈る者であるが、そのおさしずのもとに救霊にもあたるべきである。

六、従来は救霊のための祈りであった。実は祈った結果、救霊となって現われるとなるのがほんとうである。われらは後者をば真の救霊事業と言う。前者は伝道事業を本位とする傾向があるから、主の再臨を待ち望まない。したがって祈りが下火になるのである。

七、われら主の再臨を待ち望む者をば、主のためにあかしもせず、警告もせずにおる者と見るか。福音使はあちこちにつかわされて、祈りの祭壇を築き、また時々聖別会や聖会を開くのはなんのためであるかを知るならば、そう見る人がないはずである。

八、祈りのみして伝道せずにおる人と、伝道ばかりしてろくろく祈りもしない人と、どちらに組みするかと予に問う人あらば、予は前者に加担すると答える。できるならば、聖霊に導かれて野に行きたまいし主と、十日間エルサレムの高殿において、祈りばかりしていた弟子たちのごとくなりたいとは予の念願である。

九、主の再臨を祈る人は神の国を求める人であるから、その一部である天国、すなわち千年王国を待つ者である。されば千年王国の中心的国民であるユダヤ人の回復を祈るようになるのは当然である。伝道は主の花嫁なる教会の完成であると言う人があるが、その完成は主がなしたもうことで、教会がなすべきものではない。教会がおもに求むべきは神の国である。

十、祷告と警告、祷告は第一のもので、警告は次のものである。近日のうちに主は来たりたもうとすれば、何よりもまず祈祷に身をわたすべきではないか。

警戒せよ、悪魔のごまかしを。

歩調を整えよ

わがホ教会は四重の福音という大綱において信仰の統一がとれている。しかし主の再臨が切迫しているので、ばくとした足並みではなく、信仰の歩みがこまかくなってきた。これをホ教会の教役者も信者も知ってもらわねばならぬ。ことばをかえて言えば、力こぶの入れどころ一つにせねばならなくなったと申すのである。

救われ、きよめられておればいつかは主は再臨したもうではいけない。何ともあれ、主イエスよ、来たりたまえと、主の花嫁なる教会は祈らねばならぬ。この祈りは祈っても祈らなくともという、よいかげんのものではない。あれやこれやとなさねばならぬことがたくさんあるだろうけれども、この祈りは何をさしおいても祈るべき祈りである。この点についてわが教会は、一糸乱れず歩調を整えねばならぬ。

その祈りは別語で申せば、御国を来たらせたまえと祈ることである。かく祈る人は当然、イスラエルの回復のために祈るべきである。なぜならばきたるべき天国の中心国民はイスラエルであるからである。これを今日に至るまで多くの教会が祈らずにいた。最後のあかしの教会としてたてられたホ教会に、神はこのことを命じたもうた。ホ教会はよろしくこの点について歩調をそろえるべきである。この祈りについても、てんで勝手な態度をとってはならぬ。これはホ教会の使命である。それに伴って日本民族の使命という問題が起こってくるが、この民族中から選び出されたホーリネス人は、この末の世における最高最大の職分とも言うべき祭司職をおびて祷告に尽くすべきである。「エルサレムのために平安を祈れ」(詩篇一二二・六)と主は命じたもう。それを十分理解しておらぬ人もあるだろう。多くの人は、いわゆる主の祈りの内容がわからんでも祈っているのではないか。聖霊をあがめて祈っているうちに自然とわからせていただける。さればある人々は無理押しするように聞こえるだろうけれども、悪いことを勧めるのではないから、予の言うことを受け入れて、このことにおいても歩調を一つにしていただきたい。

世間は予を目して、絶対権を行使していると評している。しかり予はホ教会の教役者と信者が予を監督に選挙して、予に支配権をゆだねられたのである。予はこの権を無視するならば、選挙した人々を侮辱する者と心得ているから、教会が統一した行動をとるために、慎重な態度をもってこの権を用いている。予は委員が協議してでっちあげた任命書を読みあげるような、でくの坊であるべきではない。予はどこまでも教会の政治または信仰において一致したる行動をとるよう、聖霊の御導きのもとに「そは彼らはことばをさしいだす者として、なんじらのたましいのために目をさましおればなり」(へブル一三・一七、新契約)とあるごとく努めている。これがためにはまれには強くきびしいことをも言う。これいかにしても歩調を整えて、最後のコースを完全に走って、ともに主の御喜びにあずかりたいからである。これをば軍隊式だ、法王流だと言うか。何とでも言うがよい。もうしばらくのところである。主の御名のためにしんぼうし、むしろ不完全な予のために祈っていただきたい。

血と火と煙

「われ上なる天にふしぎを現わし、大なる地にしるしを示さん。すなわち血あり、火あり、煙あるべし」(使徒二・一九)

これはペンテコステの聖潔のバプテスマを受けて、預言することに続いての出来事である。この預言は言うまでもなく、預言中の預言であるキリストの再臨である。これが聖霊によって預言されるようになると、血と火と煙のふしぎとしるしが起こるのである。これを配時的に学んでみると、これはいまの時代に起こるもので、この次は二十節の患難時代の出来事となり、また二十一節の大リバイバルが起こって千年王国に入るという段取りである。

血のしるしは何であるか。これは過越の時のごとく、未信者と信者とを明白に分かつところの血である。血は二つのものを一つにするが、また分かったものである。これによって未信者と信者の間に線が引かれるのである。

火のしるしは何であるか。これは尋常一様のことではない。「われなにをか望む。すでにこの火の燃えたらんことなり。……しからず、かえって分かたしむ」(ルカ一二・四九、五一)。焼き尽くすところの神は、分ける神である。火をもって答うる神は、少しの汚れをも容赦したまわない。これはすなわちリバイバルの火である。この火は信者間に投ぜられる時には、五十二節と五十三節にあるごとく、親しい間柄でも分かたれる。これは実に恐ろしきことである。

次は煙である。アラビアの野において、この煙がしばしばモーセを聖別して見えなくした。これは香の煙である。「香の煙聖徒の祈りにそいて、天の使いの手より神の前に昇れり」(黙示録八・四)。この煙はイザヤをして「災いなるかな、われ滅びん」(イザヤ六・四、五)と叫ばしめた一つのものである。われらはこの煙によっていっさいを離れ、祷告に入らねばならぬ。このきよき煙に隠されてしまって、だれにも見えないようにならねばならぬ。

血の分かち、火の分かち、煙の分かち!本文をかく解釈すべきものであるかいなや、予はおおかたの教えを乞うものであるが、とにかく、血と火、煙の出来事をば、上のふしぎ下のしるしとしてあるから、われらが従来解釈しているようなものでないことがわかる。

予はこれを平凡の出来事と見ていない。驚天動地の事件と見ている。聖霊のバプテスマはこのことがすでに驚くべき出来事であるが、それに伴ってきたる預言は、悪魔を怒らせることであり、その結果主の血があがめられ、火が高調せられるから騒ぎがいっそう大きくなり、ついに祈祷三昧にはいる聖徒が起こるようになるのである。これがすなわち一種の雲隠れとなるのである。かくなってくると「かく言える時輝ける雲彼らをおおう。声雲よりいでて言いけるは、こはわが心にかなうわが愛子なり。なんじらこれに聞くべし」(マタイ一七・五)。これに達するならば、主イエスはいっさいであると言うようになる。

さればわれらを分かちたもう、主に従いつつ、そのなしたもうままにまかせまつるべきである。人間はへたに手を出してはいけない。