「主の恵みにより主の御顔を仰ぐ時、それは栄光、私にとって栄光です」と楽しく歌ってきた多くのクリスチャンは、キリストの裁きの御座の前に立って、それが自分にとって栄光ではないことを見いだす時、恐ろしいショックを受けることになります。
私たちがイエスに会う時、それは恵みの御座においてではなく、彼の裁きの御座においてです。その時、「一人一人の(弟子の)働きは明らかになります。なぜなら、かの日がそれを明らかにするからです。それは火によって示されます」。そしてクリスチャンは各々、自分の働きにしたがって報いを受けます。
肉的なクリスチャンたちはよく、「私は報いなんて気にしません。将来はとにかく幸いでしょう」と言います。不従順だった少年は、その働きに応じて報いを受けます。おそらく、少年も報いなんて気にしたくないでしょうが、それにもかかわらず報いを受けるでしょう。
D.M.パントンのこの書物を再印刷する理由は、この本が不従順なクリスチャンたちの将来の不幸な状態に関して聖書が教えていることを生き生きと示しているからであり、また、この教えを無視してきたことが今日の教会の沈滞した状態の大きな原因だからです。