聖書の中に何度も述べられている信者の裁きの真理は、大きな実際的力であり、一度魂を捕らえるなら計り知れないやる気を起こさせるものであることは明らかである。なぜなら、しばしばなされる推測とは裏腹に、この真理は永遠の命に関する私たちの確信を大いに強めるからである。なぜなら、報いに関する無数の条件付きの約束と、信仰のみに基づいて与えられる永遠の命に関する単純な保証とのもつれを解くことにより、この真理は無条件の賜物を分離して輝かしい光の中に置く一方で、これまでローマの拠り所だった、大きな困難と疑いをもたらす、多数の警告の節を報いの領域に退かせるからである。永遠の安全を再確認する一方で、しかし千年間の危険について警告することにより、この真理は魂を解放して矢が飛ぶようにまっすぐ神の最高最善に向かわせる。さらに、聖書のすべての真理の中で、キリストの教会がこれほど必要としている真理はない。神の僕の中でも群を抜いているアウグスチヌスは、申し開きをしなければならないという自覚ほど、自分を訓練に向かわせる恒常的な力強い動機はなかった、と述べている。私たちの主がテアテラに向けて表明しておられる真理が一度でも魂の中に打ち込まれていれば、今日の多数の真の信者たちの間に蔓延している、この世と罪に対する耽溺の中にあえて飛び込もうとするクリスチャンはだれもいなかっただろう――「すべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探る者であることを知るであろう。そしてわたしは、あなたたち一人一人に、あなたたちの働きに応じて報いを与える」(黙示録二・二三)。最後に、この真理は贖われた心に恐るべき力で数々の事実を突きつけて十分な衝撃を与える。文字どおり来るべき恐るべきことから肉体的に取り去られること、文字どおり不朽の命の拍動と共に墓から飛び出すこと、文字どおり王座につき、白い衣を着てキリストと共に歩んで文字どおり諸国民に対する権威を持つこと――これらはすべて聖潔と苦難を条件とするものである以上、他の志はすべて塵のようになり、殉教でさえ過大な代価にはならないのである。
しかしこの真理の数々の長所は、ローマの誤り、そしてその誤りがいかに生じたのかを支持する光では少しもなく、とりわけローマの煉獄の教理を支持する光では少しもない。なぜなら(最初に見たように)、私たちの主のご自分の者に対する愛はきわめて独特であり、愛する人が完成されるまで決してやまないからである。「わたしは愛している者を叱ったり、懲らしめたりする」(黙示録三・十)。「彼が私たちを懲らしめるのは私たちの益のためであって、私たちが彼の聖にあずかる者となるためです」(ヘブル十二・十)。彼の聖は完全である。それゆえ私たちの訓練は、それがいかに過激で長引いたとしても、決して彼の敵意の証拠ではなく、彼の愛の証拠なのである。また、今であろうと裁きの御座においてであろうと、弟子の究極的滅びのしるしではなく、究極的完成のしるしなのである。他の者たちは甘やかすことで愛を示すが、キリストは懲らしめによって愛を示される。「わたしにある枝で実を結ぶものはみな、彼は清めます」(ヨハネ十五・二)。このように信者に対する裁きが(だれもが認めているように)恵みの時代に完全に執行されており、聖書もそう述べている以上、このような裁きは、たとえそれが今生(一コリント十一・三〇)や来世(ルカ十二・四六)で死に至る罰だったとしても、恵みの諸々の原理を犯すものではありえないことは明らかである。私たちが受ける懲らしめは完成への大路なのである。
さて、私たちの主は神の僕たちが互いに赦し合うべきことを命じられる際、今生の後に起きることを恐るべき力で抗しようがないほど明確な言葉で描写された。しかし、その言葉はほとんど受け入れられておらず、教えられてもいないため、ロバートソン・ニコル卿が言ったように、「クリスチャンの教会はこれらの御言葉に直面したことがほとんどない」のも同然である。無慈悲な僕(マタイ十八・二四)は再生されていたことが決定的に啓示されている。この赦さない僕は彼自身、赦された人だった。王は言う、「あなたがわたしに願ったので、わたしはあなたの負債をすべて赦した」。未信者が赦しを求めてそれを得るとき、それにもかかわらず依然として未信者のままであり、再生されていないということがあるだろうか?十字架の血を通してでなければ、どんな罪も赦されないし、赦されることはないであろう。このような赦しが救いに伴わないことがあるだろうか?ケリー氏は、「この僕はユダヤ人を表しており、これは異邦人に対するユダヤ人の憎しみである」と言う。また、バリンガー博士は、一万タラントの負債とは十字架刑のことである、と言う。しかし、ユダヤ人は悔い改め、告白し、赦しを求めて、それを得たことは決して無く、十八世紀のあいだイスラエルの上には純然たる裁きが臨んできたのである。この人は自分の罪を告白し――「負債すべて」、赦しを求め――「あなたはわたしに赦しを求めた」、赦しを得――「わたしはあなたを赦した」、責任と信用ある地位に上げられた――「あなたの僕仲間たち」。さらに王は、この違反者は赦された人である、という事実に完全に基づいて非難しておられる。「わたしがあなたをあわれんだように、あなたも自分の奴隷仲間をあわれむべきではなかったか?」。
たとえこの僕が再生されたユダヤ人であり、私たちの主の時代や大艱難時代のレムナントだったとしても、この真理は原理的に影響を受けず、適用の仕方が変わるだけである。なぜなら、彼は(赦されているがゆえに)救われた人であり、それゆえ私たちの主は救われた人に対してこのように行いうるからである。再生された人に対する裁きがこのように痛々しいものであることは、このように将来起きる事実である。それゆえ、この事実の背後にあるこの原理に対する反対は、すべて地に落ちなければならない。しかし文脈からは、彼がユダヤ人なのかどうか、救われているのかどうかはわからない。これは、呪いはすべてユダヤ人に対してであり、祝福はすべて教会に対してである、という昔の陳腐(に思われる)説の復活である。このような思想は、特権を持てば持つほど責任は軽くなる、ということを前提としている。それが前提としているのは、光に乏しいユダヤ人の弟子が罪を犯すなら、いっそう厳しい罰を招くということである。しかしパウロの警告の叫びはその正反対であり、「なおさらではありませんか!なおさらではありませんか!」(ヘブル十二・二五、ローマ十一・二四)である。さらに、私たちの主はこの僕を天の王国の者と見なしておられる。天の王国はユダヤ人から取り上げられて(マタイ十一・四三)聖なる国、教会(一ペテロ二・九、改訂訳)に与えられたのである。
しかし、もう一つのさらなる事実も同じように決定的である。私たちの主は質問に答えられた――「私の兄弟が私に対して罪を犯したら、何回まで赦すべきでしょうか?イエスは彼に言われた、七回の七十倍までである。それゆえ天の王国は、僕たちと清算しようとする王のようなものである」。このたとえはこの回答を強めるものである。それは、もし赦さなければペテロに何が起きるかの啓示であり、キリストの裁きの御座の光景である。私たちの主は教会の紛争をまさにこのように取り扱われた。「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯し」――これは兄弟間の争いであり、使徒間の争いでさえある――「教会に聞くことも拒むなら、その人を異邦人や取税人のように見なしなさい」。もしこの僕が未信者なら、このたとえはペテロの問いとは全くの無関係である。ペテロはイエスに、教会紛争における赦しの上限を定めるよう求めた。私たちの主が、未信者の赦さない心がもたらす結果について啓示されたとするなら、それはペテロに対する返答にはなりえなかっただろう。「兄弟」とは誰か?「だれでも神の御旨を行う者は、わたしの兄弟なのである」(マルコ三・三五)。
最も注目に値するのは、私たちの主は最も強烈な地獄の説教者だったが、それと同じように信者に対する彼の警告ほど重大な警告はない、ということである。彼ご自身のたとえの結末は恐ろしく決定的である。「そこでその僕の主人は怒って、負債を全部払うまでその僕を獄吏に渡した。あなたたちが自分の兄弟の一人でも心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたたちに対してこのようにされる」。「なぜなら、あわれみを示したことのない人には、あわれみのない裁きが下されるからです」(ヤコブ二・十三)。この節だけではない。他にも同じように恐るべき力を持つ節がいくつもあるのである。
(1)「もし人がわたしの中に住んでいなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れてしまいます。そして人々はそれらを集めて火の中に投げ入れ、それらは焼かれてしまいます。」(ヨハネ十五・六) (2)「だれでも(自分の兄弟に向かって)モレと言う者は、ゲヘナの火の危険に陥ります。」(マタイ五・二二) (3)「なぜなら、真理の知識を受けた後、もし私たちが故意に罪を犯すなら、もはや罪のためのいけにえは残っておらず、裁きと、敵対者を焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つしかないからです。」(ヘブル十・二六)
ぶどうの木に接ぎ木されたのに、みずみずしい新緑の後に枯れてしまった枝は、口先だけの信仰告白者を表すはずがない。他の「兄弟」をモレ――「神に背いた反逆者」――と怒って非難する「兄弟」は、ゲヘナの危険を冒す。なぜなら、その非難は偽りだからである。すなわち、二人とも神の子供であり、それゆえ、神の昔の原則(申命記十九・十六~十九)が自分に跳ね返って来るのである――偽りの証人は、人に下そうとした刑罰を自分の身に招くのである。また使徒は、故意に罪を犯すなら、「私たちは」――彼自身も含めて――恐ろしい目に遭うことになる、と言ったが、これ以上はっきりとは述べられなかったであろう。これらの節は信者全員の究極的救いと調和する余地がある(と私は信じる)。しかし、聖書を敬い、神の恐るべき聖と威厳を意識している思慮深い人なら――「主はご自分の民を裁かれる」という御言葉の直後に「生ける神の御手に陥ることは恐ろしいことです」という御言葉が続く(ヘブル十・三〇)――これらの御言葉を軽んじたり、いと高き方のこれらのきわめて鋭い警告の刃を鈍らせたりしようとは願わないだろう。神の義と聖の正しい要求を黙殺することは神の恵みに対する悪行だが、まさに万民救済主義者や万人救済論者は地獄の教理から逃れようとしているのである。
さて、ローマの煉獄の教理に向かうことにする。ローマによる真理の歪曲は、もし教会が信者の清めに関する聖書のすべての啓示を常に保持して教えていれば決してありえなかっただろうが、公式に二回決定されただけである。「もし真の悔悟者が、改悛にふさわしい実を結ぶことによって有為の罪や無為の罪に対する償いを終える前に、神の恵みのうちに死ぬなら」――つまり、自分自身の贖いに助力するなら――「その魂は死後、煉獄の刑罰によって浄化される」(フェラーラ公会議)。「そして煉獄に渡された魂は、真実な方のとりなし(祈りと黙想)と、特に最も喜ばれるミサのいけにえとにより助けを受ける」(トレント公会議)。ここに見られる明らかな誤りは――贖宥状販売の恐ろしい増加やミサの効力は別として――主に三つである。(1)煉獄の教理では、清めの場所はハデスである。聖書によると、清めの場所は今生と復活後の裁きの御座であり、決してハデスではない。すべての信者のために備えられているパラダイスは、キリストの特別な臨在がある「はるかに良い」ところである。(2)法王や祭司の力、仲間の信者たちの祈りは、いかなる人、信者、未信者についても、ひとたびその人が他界するなら、その人の受けるべき刑罰を変えることは微塵もできない。「人は一度死ぬことが定められており、その後裁きが臨みます」(ヘブル九・二七、改訂訳)。死者のための祈りは聖書にはない。今生においてすら、祈りは死の判決の下にある信者には効果がない(一ヨハネ五・十六)。これはローマの教理の周囲に成長した(贖宥状等のような)すべての忌むべきものの根を断ち切る。(3)しかし決定的誤りは、懲罰と救いを混同している点である。懲らしめは必要かつ有益であり、神により今生において例外なくすべての信者に課せられている(ヘブル十二・八)。極端な場合、恐ろしい肉体の病(出エジプト十五・二六)や、死に至ることさえある(一コリント十一・三〇)。また、死によって罪人が罪の無い人に変わるような魔法的変化は生じないし、訓練の間に犯した悔い改めていない違反が死によって解消されることもないので、裁きの御座においても懲らしめが同じように必要かつ有益であるにちがいない1――しかし、懲罰的苦難は決して永遠の命とは関係ない。カルバリの受難以外に贖いの受難はない。救われるための人の働きは罪深く致命的である。「働きによるのではありません。だれも誇ることがないためです」(エペソ二・九)。
1 信者に対する裁きは今生で終わるという信条は、明らかに受け入れがたい。なぜなら、この世の栄華をきわめて死んだ後退者たちを私たちはみな知っているからである。それゆえパウロは問題のある一人の信者のために「かの日、彼が主のあわれみを受けますように」(二テモテ一・十八)と祈り、他の人について「どうかこれが彼らの勘定に入れられませんように」(二テモテ四・十六)と祈った。なぜなら、来るべき時代に赦される罪――明らかに未信者の罪ではない――があるからである(マタイ十二・三二)。ホッグ氏とヴァイン氏の言葉によると、「(『悪を行う者は自分が行った悪の報いを受けます』(コロサイ三・二五)という)御言葉に対して、この法則が働くのは今生だけであると示唆することにより、その重要性を軽減しようと試みても無駄である。なぜなら、御言葉と文脈のどちらを見ても、種蒔きは今生であり、刈り取りは来生である、と読み取る以外ないからである」。
そこでもう一度聖書の真理に戻ることにする。神は二種類の清めを備えられた――血による清めと、懲らしめによる清めである。血による清めは懲らしめによる清めに先立たなければならない。「律法によると、すべては血によって清められる、と言っていいでしょう」(ヘブル九・二二)。「なおさらキリストの血はあなたたちの良心を清め、死んだ業から離れさせて」――自己を義とする致命的な努力から離れさせて――「生ける神に仕えるようにさせます」(ヘブル九・十四)。なぜならキリストは一度かぎり、本質的かつ根本的な清めを達成されたからである。「彼は私たちの罪を清めて、高き所にいます大能者の右の座につかれました」(ヘブル一・三)。そしてこの清めは、後に続くすべての清めの唯一の根拠であり、前提条件である。なぜなら、救われた人だけが懲らしめによって清めてもらえるからである。どれほど苦難を受けても、罪と違反の中に死んでいる人を命にもたらすことはできない。これは、死んだ木を手入れしても、実を結ばないのと同じである。懲らしめはその人を清められない。その人は清めてもらえるが、懲らしめによってではない。神はいつまでも悪人を懲らしめるようなことはなさらない。なぜなら、「すべての人(信者)が受ける懲らしめがあなたたちに無いなら、あなたたちは私生子であって、子ではないからです」(ヘブル十二・八)。矯正的苦難が与えられて効力を表すのは、カルバリの犠牲的苦難によってすでに法理的に清められている人たちだけである。グリフィス・トマスは言った――「真のクリスチャンは、たとえ後退したとしても、永遠にわたって法理的に刑罰を受けることはないであろう。しかし、そのような人はキリストの裁きの御座の前に立つ時、回心後に行った働きに応じて、個人的に実際の刑罰を大いに受けるだろう」。
二番目の清めは懲らしめによる。「実を結ぶ枝はみな」――すなわち、生けるぶどうの木に接ぎ木された生きている木はすべて――「彼はそれを清めます」(ヨハネ十五・二)。再生されたのに依然として自分の内に「肉」を持っている人は、自分の依然として問題のある性格を懲らしめによって清めてもらい、矯正してもらうことができる。この清めは今生で終わる必要はない。「昔のローマの聖人たちの中には、神の子供たちの中に残っている罪はみな、まさに死ぬ瞬間に与えられる最後の恵みにより全く取り除かれる、それゆえ、次の世に移される罪の痕跡はいささかも残らない、と教える者もいた」(アッシャー大司教のジェスイット教徒への返答、p.165)。この太古のローマの教えは、後のローマの煉獄の教理と同じく非聖書的である。なぜなら、不注意なまま眠りについた未信者は、不注意なまま目を覚まし――怠惰なまま死んだ僕は、怠惰なまま裁きの御座の前に現れるからである。この世における彼らの最後の姿が、道徳的に、次の世における最初の姿なのである。彼らは将来清められるだろうが、今は清められていない。死に魔法的な力はなく、問題のある弟子がハデスで矯正される機会もない。来るべき千年間の義の時代は裁きの御座によって支配されており、その本質的特徴は業が刑罰として跳ね返ってくることである。「悪を行う者は」――この文章は信者のみに宛てられている――「自分が行った悪の報いを受けます。それには人の分け隔てはありません」(コロサイ三・二五)。しかし、神の愛は私たち信じる者全員が「彼の聖にあずかる者となる」まで休むことはない。どんな懲らしめも私たちを滅ぼすことはない。遅かれ早かれ、私たちを完成させるのである。私たちの主が信者に宛てられたおそらく最も厳粛な節は、まさにこう結んでいる――「まことにわたしはあなたたちに言う。(信者の懲らしめはすべて清めのためであり、一時的なので)最後の一コドラントを支払うまで、あなたたちは決してそこから出られない」(マタイ五・二六)。
それゆえ私たちの主は家令のたとえの中で、この「悪い僕」が回心していたことを疑いの余地がないほど明らかに述べておられる。それは、この一人の人の中に二つの特徴があったことを示すことによってである。「しかし、もしその僕が」――主ご自身がご自分の家庭の上に立てた良い家令が――「自分の心の中で言うなら」(ルカ十二・四五)。私たちの主が言わんとしておられるのは、僕が代わったことではなく、その同じ僕の心が変わったことである。良い家令、あるいは悪い家令1に変わる可能性があるのは、この一人の同じ僕である。「自分の主人の意志を知っていながら用意せず、その意志のとおりに行わなかったこの僕は、多く鞭打たれるであろう」。この怠惰な僕が仲間の僕たちと共にベーマに現れることこそ、彼が回心していた決定的証拠である。なぜなら、聖書には未信者の携え上げはないからである。シース博士は言った――「この御言葉が意味しているのは、一人は救われ他方は失われるということでは全くなく、ただ、主が来られる時、一人は直ちに祝福に至り、他方は適切に目を覚まして用意できていなかったので、一時的な裁きで罰せられ、続く時代に『火をくぐってきたように』救われるということである」。
1 「この強調代名詞(ルカ十二・四五)には先行詞があるにちがいない。そして、『忠実で賢明な家令』(十二・四二)という言葉以外見あたらない。私たちの主がご自分の僕たちに何をなさるのか、あるいは何をなさらないのかを予め自分で決めておいて、その取り決めにそぐわない御言葉を脇に押しやるというようなことでは、真理に至ることはできない。」(G.H.ラング)
確かなことは、すべての信者が、遅かれ早かれ、ベーマに現れなければならない(二コリント五・十)、ということである。同じように、だれも霊だけではそのように現れることはできないことも確かである。しかし、常に見落とされていることだが、「永遠の命の力」(ヘブル七・十六)の中で復活した私たちの主を除いて、復活後に死ぬことは決して不可能ではないのである。記録された人類の歴史の中には、これと相反する例は一つもない――「女たちは復活によって自分たちの死者を返してもらいました」(ヘブル十一・三五)――これはラザロのように、死体が本当に実際によみがえることである。白骨でさえ再び肉体を着せられたのである(列王下十二・二一)。しかし例外なく、それは常に神の特別な目的を満たすための一時的復活にすぎなかった。永遠の時代に、よみがえらされたすべての人が都の中に最終的に入るまでは、死ぬことがありえない復活について述べられているのは、よみがえらされた人の一部についてであり、一部の群れだけなのである。「かの時代、そして死者からの復活に至るのにふさわしいと見なされる者たちは、めとることも嫁ぐこともしません。なぜなら、彼らはもはや死ぬことができないからです。彼らは御使いたちと等しい者になります。彼らは神の子らであり、復活の子らです」(ルカ二一・三六)。その時代にふさわしくなく、死者からの復活、第一の復活にふさわしくないと見なされた信者については、このような不朽性を持つようになるとは述べられていない。同じように、「朽ちないものによみがえらされる」(一コリント十五・五二)とパウロが述べているのは、王国にあずかる者たち(一コリント十五・五〇)だけである。
こうして神の警告は強い力で私たちに迫ってくる。「ですから兄弟たち」――キリストの教会――「私たちは負債を負っていますが、それは肉にしたがって生きるための肉に対する負債ではありません。なぜなら、もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ななければならないからです」(ローマ八・十二)――まさに死なんとしているからです。この「死」というギリシャ語表現はまるで千年王国を示すために聖別されているようだ、と言う人もいよう。この言葉は八回、ヘブル書の中で来たるべき時代について使われている(ガボット)。これは永遠の死ではない。なぜなら、信者は永遠の命を保証されているからである。これは現在の死でもない。なぜなら、聖化された信者はみな長生きし、後退した人はみな早死にするというのは、聖書にも事実にも反するからである。この死は千年期の死であり、ベーマで断ち切られることである。「欺かれてはいけません。神は侮られるような御方ではありません。なぜなら人が蒔くものは何であれ、それを刈り取ることになるからです。自分の肉に蒔く者は、肉から腐敗を刈り取ります」(ガラテヤ六・七)――「腐敗」は「肉」と同じように文字どおりの意味である。「(ローマ八章十一~十三節で)使徒は、未信者や聖化されていない信者の体のために用意されている定めについて述べているのではない。第一コリント十五章二〇~二八節も同様である。十三節の御言葉『もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ぬことになります』で十分である。特に、先行する御言葉に続く以上、これは救いに関する御言葉ではない」(ゴデット)。なぜなら、すべての信者が永遠の命を持つ一方で、その命はキリストのために多く放棄してきた信者に対して千年早く表されるからである。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟(中略)を捨てた者で、今の時に百倍を受け(中略)来るべき時代に永遠の命を受けない者はいないからです」(マルコ十・二九)。
今、私たちは追放に関して最後のまとめを行う用意が整った。「王国時代、追放された人はどこに行くのか」と尋ねる人もいるだろう。啓示された真理に関する難点をすべて解決しなければならないのは、その真理を受け入れた後のことである。さもないと、悪の起源や神の主権的選びに関する懐疑論者の疑問――人には答えられない数々の疑問――が福音を無効にしかねない。また、神が神聖な保留の内にとどめておられる事柄について、あまり掘り下げすぎるのは賢明ではない。さもないと、私たちは自分を見失って、「書き記されていることを越えて賢い」者になってしまうだろう。私たちは(認めることを良しとするなら)次のことを認めようではないか。すなわち、神は追放された人の一時的な運命を不可解な謎に包まれたが、追放の現実は残っており、聖書の多くの節に堅く基づいているのである。それにもかかわらず、聖書は追放された人の居場所について完全に沈黙しているわけではない。(1)ある人々は、おそらくエノクとエリヤの低い領域から見るだろうが――モーセがピスガから見たように――その中には入れないであろう(ヨハネ三・三、五)。(2)ある人々は、私たちの主以前によみがえったすべての人々と同じように一時的に腐敗して、ハデスが死(またはアバドン)と共に最後の裁きの時に空になるまでそのままであろう――そしてハデスから出てきた受刑者として救われるであろう(黙示録二〇・十三)。この両者は、おそらく追放された人の大部分であり、パラダイス――主の特別な臨在がある「はるかに良い」所――の状況を享受し続けるであろう。(3)ある人々は「外の暗闇」(マタイ二五・三〇)として知られている謎の領域にいるであろう。(4)ある人々は非常に重大な違反で有罪になり、一時的にゲヘナに入れられるであろう(マタイ五・二二、ヨハネ十五・六、ヘブル十・二六、二七、黙示録二・十一)。「わたしはわたしの友であるあなたたちに言う(中略)わたしはあなたたちが誰を恐れるべきかをあなたたちに警告しよう。殺した後でゲヘナに投げ込む力のある方を恐れなさい。そうだ、わたしはあなたたちに言う。この方を恐れなさい」(ルカ十二・四)。
1 命からがら救われる弟子は「罰金を課せられる」と述べられている(一コリント三・十五)。また私たちの主は、今生で自分の益を求める弟子のことを、自分の命すら捨てて殉教する弟子と対比的に描写して、その「罰金」とは「魂」あるいは命であることを啓示された(マタイ十六・二六)。「自分の命(魂あるいは動物的命)を見いだす者はそれを失います」――これはベーマでのことである。「わたしのために自分の命を失う者はそれを見いだします」(マタイ十・三九)これは第一の復活においてであり、不朽の命を受けるのである(ヘブル七・十六、改訂訳欄外)。
これらの厳粛な真理を否定することは、この世、肉、悪魔との死闘の中にある神の教会に神が与えてくださった最も強力な刺激剤のいくつかを無効にし、駄目にすることである。それは後退者への恐るべき警告から恐ろしさをすべて取り除くことであり、そしてその人を意識不明の眠りに陥らせはしないにせよ、その中に置き去りにすることである。また、それは特権を責任の上に置くことである――その災いについて教会は直接的な警告を受けている――「彼の慈愛の中にとどまっていなさい。さもないと、あなたたちも断ち切られます」(ローマ十一・二二)。歴代啓示されてきた物悲しい事実はこれである――すなわち、神の鋭い警告が恵みの誤用によって鈍らされてきた所では、それに罪が続き、往々にして特権が好色の覆いになる、ということである。神の突き棒を蹴って無事で済む人はだれもいない。「わたしが目をとめる人はこれである。すなわち、霊が貧しく、砕かれた、わたしの言葉に恐れおののく者である」(イザヤ六六・二)。私たちの主は最後の火について信者に警告し、何度も強調しておられるが、その言語を絶する厳粛な発言に関してアイザック・テイラーは言っている、「この時代に生きている私たちは、これらの恐ろしい御言葉を適切に思えるやり方で解釈するかもしれないし、これらの句を軽視するかもしれない。あるいは、もしそう願うなら、この教理を容認することも信用することもできないものとして、全く投げ捨てようではないか。そうしようではないか。しかし、疑問の余地がないほど歴史が示しているように、使徒時代の教会とそれ以降の時代の教会は、この御言葉の一言一言が持つ文字どおりの意味をすべて受け入れていたのである。その意味を和らげようとする試みが数回なされたのは事実である。しかし確かに言えるのは、苦難の諸世紀を通して、殉教者たちの唇には常に、将来の命に関するキリストの御言葉があった、ということである。しばしばその御言葉は火の真っただ中から聞こえたのであり、拷問台の上で苦悶している女や子供たちの震える唇から発せられたのである」。