Ⅱ.信者の裁きに関する注記

D. M.パントン

ガボットの言葉はきわめて鋭く、目を引くものである――

「この偉大な教理の結果をすべて予測することは不可能である。しかし、いくつかの重要な点については辿ることができよう。

この教理の反対者が、もし千年期の教理を保ち続けるとしたら、彼らは奇妙な窮地に陥るであろう。

現在のところ、大部分の反対者の姿勢は次のとおりである――
1.『将来報いがあることを我々は認める』
2.『信者も罪を犯すこと、そしてその結果として懲らしめを受けることを我々は告白する。しかし、それは今生だけである!』
3.中にはさらに踏み込む人もいて、過ちを犯した信者はキリストの再来の時、損失を被ることを認めるが、王国から追放されることはないと主張する。

しかし、この教理に反対する叫びはあまりにも痛烈なので、このように認める人々は非常に具合の悪い状況に置かれることになる。

この騒ぎで立ち上がった公平なクリスチャンたちは、この件の状況を知ってそのような人たちに言うだろう、『何ですって!あなたたちはこの人が支持しているのと同じ原理を保持していて、違うのはただその原理の適用範囲だけなのに、この人が真理を覆していて交わりにふさわしくないと叫んでいるのですか?あなたたちも認めているように、キリストは信者たちを彼の裁きの御座の前に招集されるでしょう。あなたたちの考えによると、それに続く報いはありません。この人の考えによると、極端な場合、報いとして罰せられることもあります。この大騒ぎが起きたのは、たったそれだけの違いのためなのですか?あなたたちはその原理を認めており、ただその適用範囲が違うだけです。ですから、もしこの人が強盗だというなら、あなたたちはけちな窃盗で有罪ということになります』。

このような攻撃者たちもまた、真理に対する大半の裏切り者たちと同じように、この教理にさらに強く反対している人たちから疑いの目で見られるであろう。

それゆえ多くの人は、『懲らしめはあるが、今生だけである』という立場を取るだろう。

友よ、証拠は?

『御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを清めます(一ヨハネ一・七)。私たちの救い主は中途半端な救い主ではありません』。

しかしあなたも認めているように、イエスの贖いにもかかわらず、神の懲らしめは今生で過ちを犯す信者の上に下るのである。それならこの御言葉は、次の時代、懲らしめが信者の上に下ることを否定するものではないのである。私たちの主が現れる時、過ちを犯した弟子の上に懲らしめが降りかかることはない、と主張している聖書の箇所はどこにあるのか?

そのような節は見つからないだろう。

その逆の証拠ならたくさんあるし、明白である。福音書だけから抜き出したこれらの節を見よ:マタイ五・二二~三〇、七・二一~二七、十・三二、三三、三九、十六・二五、十八・七~九、二一~三五、二四・四五~五一、二五・一~三〇。

それゆえ、これはあまり批判に耐えうる根拠には思えない。懲らしめが今生で終わらなければならない理由は、見つけるのがとても難しく、証明するのがとても難しいのである。多くの信者たちは、罪のために正当な理由で教会から追放され、教会の交わりの外で死んだ。教会にいるのにふさわしくないとして追放された者たちが、王国にいるのにふさわしいと見なされるだろうか?

最後に、友よ、あなたも認めているように、イエスが現れる時、聖徒たちが行った良い業に対する報いがあるだろう。それなら、来るべき時代は『正義(裁き)の時代』である以上、悪い行いに対する刑罰があるにちがいない。私たちは執事として私たちの適切な支出だけを報告するのだろうか?それとも、浪費した無駄使いの分も報告するのだろうか?そうでないことを私たちは願うが、こう書き記されている――各々は『良いことであれ悪いことであれ、自分の行ったことに応じて、体で行ったことの報いを受けます』(二コリント五・十)。『を行う者は、自分が行った悪の報いを受けます。それには人の分け隔てはありません』(コロサイ三・二五)。

それゆえ、あらゆる危険を冒してでもこの教理から免れようとする者は、次のように言い張る立場以外、いかなる立場も安全には思えないであろう:(1)神の選民に与えられた道徳的教えはなにもない、(2)そしてその結果として、彼らは決して罪を犯すことも、懲らしめを受けることもない。

この不信仰の恐ろしい立場について、私はここでは非難しない。私の唯一の目的は、この論争の主な論点を示すことであり、この問題を祈り深く、神の御言葉に服して調べるよう信者たちを促すことである。御父、御子、御霊に栄光あれ!アーメン」。