救い

D. M.パントン

神の恵みの喜ばしく素晴らしい点は、私たちの主の生と死による救いの功績が単純な信仰に基づいてすべて私たちのものになることである。「あなたたちが救われたのは、恵みにより、信仰を通してです。これは、あなたたち自身から出たものではなく、神の賜物です。それは働きによるのではありません。だれも誇ることがないためです」(エペソ二・八)。罪人の働きは、罪人を救うどころか、実は悔い改めるべきものである――「死んだ働きからの悔い改め」(ヘブル六・一)とあるとおりである。なぜなら「神の無代価の賜物」は、与える側が強いられて与えるものではなく、それゆえ、私たちの功績とはなんの関係もないからである。――「神の無代価の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」(ローマ六・二三)。フッカーは単純活発な信仰の救いの効力を感動的な言葉で見事に表現した。「キリストはご自分の中に見いだされる者のために義の功績を獲得してくださった。そして、神は私たちを彼の中に見いだしてくださる。なぜなら、信仰により私たちは彼の中へと合併されたからである。私たち自身は全く罪深く不義であり、不敬虔で罪に満ち、不法に満ちている者である。そのような者でも、信仰を通してキリストの中に見いだされるようになり、悔い改めを通して罪を憎むようになるなら、神は恵み深いまなざしでその人をご覧になり、罪を責めることなく罪を取り去り、罪を赦して罰を完全に撤回されるのである。そしてその人を、まるで律法に命じられていることを全うした者であるかのように、完全に義なる者としてキリスト・イエスにあって受け入れてくださるのである。律法全体を全うした以上に完全に義とされた、と言ってもよいだろうか?父なる神の目に、私たちは神の御子ご自身の中にある者なのである。これを愚かとか、馬鹿げているとか、恐ろしいと思うなら思えばよい。これは私たちの知恵であり、私たちの慰めなのである。私たちはこの世の知識をかえりみない。私たちがかえりみるのはこれである。すなわち、人が罪を犯し、神が苦難をお受けになったこと、神はご自身を人の罪とされ、人は神の義とされたことである」。こうして私たちはもっぱら神の御子から永遠のいのちを汲み出す。「神は私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。そして、このいのちは御子の中にあります。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持ちません」(一ヨハネ五・十一)。このように永遠のいのちは永遠に、単純な救いの信仰に基づく。信仰は瞬時の再生、キリストへの合併、聖霊の内住、朽ちないいのちを生み出す。「御子を信じる者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ三・三六)。