精妙な美しい旧約の型により、今や、まさにあらゆる贖いの開始点において、神の二重の真理が啓示される。動物学者は動物のたった一本の骨から骨格全体を再構築できると言われている。したがって、型を説明するには確かな手がかりが一つあれば十分である。そして、血とパン種の中に三つの明確な手がかりが聖霊によって与えられており、疑問をすべて解消するのである。「私たちの過越であるキリストがほふられました」――したがって、小羊の血はキリストの血を予表する。「ですから、私たちは祭りを守ろうではありませんか」――したがって、初臨と再臨の間の七日間である教会時代は種なしパンの祭りの本体である。「古いパン種をもってではなく、また悪意と邪悪のパン種をもってではなく」――したがって、パン種は罪である。「誠実と真実である種なしパンをもって、そうしようではありませんか」(一コリント五・八)。これより明確で確かな型はありえない。
エホバの最初の命令は、家に血を塗ることだった。「彼らはその血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱とかもいにそれを塗らなければならない」(出エジプト十二・七)。滅ぼす天使がすべての家を捜し回った。どの家にも罪人がいたからである。しかし彼は、血を見るときはどこでも、剣をおさめて過ぎ越した。「わたしは血を見るとき、あなたたちを過ぎ越そう」。なぜか?死がすでにその敷居をまたいでいたからである。小羊が初子の代わりに死んでいたのである。しかし、それ以外のすべての家の中に、その天使は足を踏み入れた。キリストの血が私たちの魂とエホバの間で立ち上がる時、それは私たちの魂にとって「始まりの月」である。それは再生であり、新しい神聖ないのちから生まれることである。私が意識的にカルバリを自分のものとする時、その瞬間、私は霊の中でこの世を去り、神に向かう家路の旅につく。「その同じ日に、主の全群衆はエジプトの地から出て行った。主が彼らをエジプトの地から連れ出されたゆえに、それは主に向かって大いに祝うべき夜である」。血を塗ることから巡礼の生涯が始まるのである。
エホバの第二の命令は、パン種を家から除くことだった。「七日間、あなたたちは種なしパンを食べなければならない」。これは「最初の日から」、すなわち、回心の瞬間からである――「あなたたちは自分たちの家からパン種を取り除かなければならない」。イスラエルは、七日間持ちこたえるのに十分なだけの甘いパン生地を携えて、巡礼の生活を始めた。古くて苦いパン生地――見いだされうるすべての罪――はエジプトに残さなければならなかった。エホバは切迫するあまり、パン種を取り除くよう九回も命じておられる。同じようにパウロも切迫している。「実は、あなたたちの間に姦淫があると報告を受けています。少しのパン種が練り粉のかたまり全体を発酵させることを知らないのですか?その古いパン種を一掃しなさい」(一コリント五・一、七)。
ここに、神の二重の真理が美しく啓示されている。血を塗ることは義認を表し、パン種を取り除くことは聖別を表す。血を塗ることは私たちのためのキリストの働きを表し、パン種を取り除くことは私たちにおける御霊の働きを表す。さて、注意してほしい。血を塗る前にパン種を取り除くようにという命令は一つもないのである。小羊を種なしパンと一緒に食べなければならないのは事実である(八節)。キリストを自分のものにしようとするとき、心はすべての罪に背を向けて離れなければならない。しかし、血のゆえに神にささげる前に、家をパン種から清めようとするべきではない。
ありのまま、弁解せずに しかし、あなたの血が私のために流されたゆえに、 そして、あなたが御許に来るよう私にお命じになるゆえに、 ああ、神の小羊よ、私は参ります。
「今は彼の血によって義とされているのですから、私たちは彼を通して神の怒りから救われます」(ローマ五・九)。
しかし、成就された義認の働きは、直ちに相補的な聖別の働きをもたらす。そして、血が扉の上に塗られているときだけ、私たちはパン種を取り除く力を持つ。「あなたたち自身の救いを成し遂げなさい」――これはパン種を取り除くことである。「恐れとおののきをもってそうしなさい。なぜなら、あなたたちの中で働かれるのは神だからです」(ピリピ二・十二)――聖霊が今や家の中におられる。家の中にパン種があるのは、扉に血が塗られていない証拠である、とはエホバは仰せられない。むしろ、身に覚えのあるパン種や見いだされるおそれのあるパン種、にもかかわらず取り除かれていないパン種こそ、一軒一軒の家が常に陥りかねない危険であると見なされている。血の下では受け身的すぎることはありえず、パン種を一掃することではやりすぎることはありえない。「私の罪が私の救い主を殺した。今、私は私の罪を殺さなければならない」。
これらの神の命令は深刻な結果を伴う。血を適用することを拒んだり無視した者は、イスラエル人でもエジプト人でも滅びたのである。その人は神の御手により滅び、エジプトで滅びて、滅び失せた。エジプトにいる「私たちはみな死ぬ」(出エジプト十二・三三)。たとえその人の家が比較的パン種から清められていたとしても、滅ぼす天使が滅ぼしたのである。不従順な弟子もまた、無傷で逃れることはできなかった。パン種を取り除くことを拒んだり無視したイスラエル人は、たとえ血の下にあっても断ち切られた(十五節)。確かに、エジプトで断ち切られたのではなく、天使によって断ち切られたのでもなく、神から断ち切られたわけでもない。しかし、イスラエルから断ち切られたのである。つまり、血を塗った後、神に向かう途上、巡礼から追放されたのである。これは永遠の滅びではない。そこで追放に関して、パウロはイスラエルから切り離されることを示す言葉を実際に述べている――「その邪悪な者をあなたたちの間から除き去りなさい」(一コリント五・十三、申命記二四・七)。これは「肉体が滅ぼされるために」サタンに渡されるためであるが、最終的には救われるためであり、「その人の霊が救われるためです」。救いは保証されているのである。しかし、(近親相姦を犯したコリント人のように)罪を覆い隠すために特権を拡大解釈する者は、キリストの裁きの御座でその幻想を厳しく打ち砕かれなければならない。そのとき血に訴えても、パン種を食する者は裁きを免れられないのである。
血を塗れ。私の魂よ、パン種を一掃せよ!かつて一人の旅人が、ナザレの大工がパン種がないか家を捜すのを見た。その大工は帯を締め、板をすべてひっくり返し、すべての引き出しを開き、食器棚を全部掃除した。すると突然、乾いた恐怖の叫び声をあげて、後ずさりし始めた。ある職人が麻布の小袋の中に古いパンを残していったのだった。大工は真剣に恐る恐るそれを二本の木の棒でつかみ――指でつかむのではなく――それを火の所に持って行き、袋を中身ごと炎の中に落とした。「私たちは肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れて聖別を完成しようではありませんか」(二コリント七・一)。