義の日

D. M.パントン

さて、決定的に重要な事実を見ることにする。来るべき時代が帯びている厳格な裁きの性質は、報いについての決定的な啓示である。なぜなら、「その日」は今の時代と対比されており、恵みの時代としてではなく義の日として啓示されているからである。「神の怒りと神の義なる裁きの現れる日。彼は、おのおのにその働きにしたがって報われます」(ローマ二・五)。したがって、来るべき時代にすべての裁きが行われ、三種類の法廷で裁きが完全に行われるのである。(1)ベーマにおいて主はご自分の僕たちと精算される。これが裁きの過程の始まりである(一ペテロ四・十七)。(2)メシヤの栄光の御座で、彼の再来のとき地上に生き残っている諸国民がふるい分けられる(マタイ二五・三一、三二)。(3)大きな白い御座(黙示録二〇・二)で、死者に対する力強い裁きが遂行される。このように、すべての裁きが来たるべき時代に行われるのである。そして、永遠の裁き(ヘブル六・二)は地獄に基づくが(ヘブル六・二)、永遠においては裁く行為はなされないようである。これで終わりではない。携挙によって直ちに幕があく神の日(二ペテロ三・十二)は、恵みのの終結のしるしであり(しかし、すべての恵みが終結するわけではない)、主の日あるいは大艱難を含み(二テサロニケ二・二)、この期間の間、神に公然と反抗する地上には裁きの雨が降り注ぐ。また、キリストの日(二テサロニケ二・二)あるいは千年間の統治も含み、初めから終わりまで恵みの時代としてではなく正義の時代として続く。キリストと共に統治する聖徒たちについてこう記されている――「彼は鉄の杖をもって、陶器を打ち砕くように、彼らを治める」(黙示録二・二七)。また、王国が始まる時にキリストの共同相続人たちに与えられる裁く権威は、その後もずっと罪人を断ち切り続け(イザヤ六五・二〇)、すべての諸国民を苦しめ続ける(ゼカリヤ十四・十八)。この時代はもっぱら裁きの時代である。このように、人の日、恵みの日の終結は、延期になっていた義の日の始まりのしるしである。この時代にすべての裁きが行われ、以前蒔いたもののすべての収穫が現れる。この時代の本質的性格は、初めから終わりまで、行いが将来に反映されることである。

さて、この正義の復権と統治こそ、本質的かつ必然的に報いを招来するものなのである。あわれみは義人の報いを遅らせる。なぜなら、それは罪人への恵みを引き延ばすからである。この世のために、弟子を苦難の中にとどめて、報いを妨げているのは、恵みなのである。しかし、恵みの御座(ヘブル四・十六)が正義の御座(黙示録四・二)に取って代わられる瞬間、悪人には正義が、義人には報いが臨まなければならない。そこで使徒たちは主に言った、「見てください、私たちはすべてを捨てて、あなたに従ってきました。それで、私たちは何をいただけるのでしょう?」。イエスは言われた、「復興において、人の子が栄光の座に着く時、あなたたちも十二の座に着くであろう」(マタイ十九・二七)。なぜなら、「死者が裁かれる時」は「僕たちに報いを与える時」でもあるからである(黙示録十一・十八)。諸国民に対する裁きは、神の聖徒たちが即位する合図である。「私はいくつかの座を見た。そして彼らはその座に着き、裁く権威が彼らに与えられた」(黙示録二〇・四)。今、神の子供たちが即位して、神が最後に与えようとしておられる富や栄光を冠せられるなら、それは邪悪なことである。「あなたたちは私たち抜きで統治しています」と、パウロはコリント教会の豪商たちを穏やかに叱責した。「あなたたちが実際に統治してくれていたらと思います。そうすれば、私たちもあなたたちと共に統治できたでしょう」――王国が到来していたであろう。しかし、「私たち使徒はこの世の屑、すべてのもののかすのようになっています」(一コリント四・八)。それゆえ、正義が来たるべき時代を最初から最後まで統治するので、その時代は恵みの原理に訴えても無駄である。「なぜなら、人の子は彼の父の栄光の中で天使たちと共に来る。そしてその時、それぞれに行いにしたがって報います」(マタイ十六・二七:二テサロニケ一・六)。「そして、あなたたちは義人の復活の時に返礼を受けます」(ルカ十四・十四)。

そこで、私たちの主は教会に対する裁きの絵を黙示録(裁きの書)の中に絶妙な形で挿入された。教会に対する裁きは現在進行中だが――なぜなら諸教会はこの時代に裁かれ、弟子たちはもっぱら来たるべき時代に裁かれるからである――それでも、この絵はベーマ特有の行為を示している。なぜなら、それは一貫して裁きの事柄だからである。このように、この七つの手紙――私たちの主の私たちに対する最後の言葉としてだけでなく、あらかじめ恵みの時代に与えられた、私たちに対する裁きの見本としても、きわめて重大な価値を持つ――は、私たちが彼の裁きの御座で直面しなければならない取り調べの種類を啓示しているのである。前提としての信仰に基づいて行われた働きだけが現れる――「わたしはあなたの働きを知っている」。それぞれの天使の行いの内容が、良いことも悪いことも厳密に審理される。それぞれの集会は勝利者と敗北者に分けられ、勝利者にはふさわしい約束が、敗北者には厳粛な警告が与えられる。これらの事柄は宇宙教会の真理のモザイクの中に織り込まれており、再来の時、すべての信者に臨む――「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞きなさい」。なぜなら、私たちの主が十分に強調しておられる報いと危険は、全くかの日のことだからである。今の時代、彼はこれをもって賞賛か叱責か、栄光か恥辱かの問題とはされない。これは絶えざる交わり、完成された恵み、危機的聖化、霊的乾燥腐敗とも関係ない。これは有用性の喪失、証しの失墜、不安な良心ではなく、今日における懲らしめでさえない。たとえ、これがみな真に関係していたとしても、そうなのである――私たちの主が挙げておられるこれらの事柄は、彼の再来と裁きを条件としているのである。すべての約束とすべての警告は、彼の再来という重大局面で実現するよう定められている。「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録二二・七)。「そしてすべての諸教会は、わたしが内なる部分と心を探る者であることを知るであろう。そしてわたしは、あなたたちの働きにしたがって、あなたたち一人一人に報いよう」(黙示録二・二三)。

たとえ恵みの中にあっても、今生で裁きが信者を断ち切ることもありうる。「このことのゆえに、あなたたちの間では多くの者が弱く」――病弱であり――「病気であり」――消耗しており――「多数の者が眠ったのです」(一コリント十一・三〇)。救いの信仰は永遠の裁きから永遠に解放するが(ヨハネ五・二四)、それにもかかわらず、人の法律の中で最も重い判決を、たとえ恵みの日でも、神はご自分の民に下すことを余儀なくされることがあるのである。「もし私たちが自分自身を裁くなら」――自分自身の振る舞いを分析し、自分自身の行動を細かく調べて、すべてが聖潔に合致するようにするなら――というのは、ある程度、大いなる農夫の手から剪定ナイフを取り上げることは可能だからである――「私たちは裁かれることはありません」。自分を調べ、自分を批判し、自分で内側に裁きの座を設けるなら、今だけでなくこれから先も、あらゆる罪定めから解放してもらえるのである。「しかし、私たちが裁かれるのは」――ここでベーマの前に、懲らしめ全般に関する主要な啓示が示される――「主に懲らしめられることであって、私たちがこの世と共に罪に定められることがないためです」。カルバンは言う、「もし私たちが最初に釈明し、悔い改めの霊に燃えて、神の怒りにふれないよう祈るなら、私たちは差し迫った刑罰を防ぎ、軽くするのである――神が御手を伸べて裁かれるのを待つ代わりに自分自身を罰するのである。なぜなら信者もまた、一時的な刑罰によって抑制されなければ、永遠の滅びに向かって突進していただろうからである」。このように、信者に対する裁きは恵みをおびやかすものではないし、地位と特権の喪失は信じられないありえないことでもない。それはまさに、(ここで聖霊が明らかに述べておられるように)その地位を確固たる、安泰で、取り消しえない、永遠のものとするための一つの手段なのである