D. M.パントン

このように裁きの御座の司法的性格が完全に明らかになった。次に、この取り調べの客観的結果に移ることにする。直ちに明らかになるのは、冠が承認された奉仕に基づく条件付きのものであるということである。冠は額の周りにかぶる花飾りであり、その額を他の額より目立つものとする。それは地位の象徴であり、受け継いだ名声あるいは獲得した名声のしるしであって、それ自身の固有の値打ちとはかけはなれた価値を持つ。冠には大きな値打ちがあることがしばしばである。ジョホールのサルタンの冠には二百万スターリングの値打ちがある。英国の冠は元々二十五万スターリングの値打ちしかなかったが、今では世界最大のカリナンダイヤモンドが加わったことで遙かに高価なものになっている。宮殿の土台自体を宝石で築く方は、ご自分の王たちに無価値な記章をお与えにはならない。他方、ロンバルディの鉄の冠やスコットランドのオーク材の冠のように、冠自身にはほとんどあるいは全く値打ちがないこともある。ギリシャの精鋭の男たちが争ったイスミアの冠は一握りのベイリーフやオリーブの葉でできていて、それ自身にはなんの値打ちもない。彼らが走った目標はではなく、葉が授与する栄光だったのである。したがって、本来ささやかな値打ちしかない冠でも――そしてこれは聖書を解明するのに決定的に重要な点であるが――それが帯びている意味合いのゆえに、あらゆる冠の中で最も貴重なものかもしれないのである。預言の学徒なら、パリのルーブルにあるシャルルマーニュの冠を見た時の興奮を忘れられないだろう。それは世界で最も古く、最も威厳のある冠だが、それにもかかわらずきわめて簡素で、幾星霜も重ねて古ぼけている。恐らく、反キリストはある日、この冠をかぶるだろう。冠の価値は、それが何であるかではなく、何を意味するのかによって決まる。「競技で走る者はみな走りますが、を受けるのは一人だけであることを、あなたたちは知らないのですか?」。パウロは何の賞について述べているのか?「さて、彼らがそうするのは朽ちる冠のためですが、私たちは朽ちない冠のためです」。また、パウロは誰に語っているのか?「コリントにある神の教会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別され、聖徒として召された者たち、それと共に、私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人へ。彼は彼らのもの、また私たちのものです」(一コリント一・二)。つまり、教会に対して、のためにレースを走るよう求めているのである。血によって聖別された者たちに、栄光ある地位に到達するよう勧めているのである。再臨の時に与えられる冠は、新生に基づいて与えられるのではなく、達成に基づいて与えられる。「冠」を表すために御霊が用いておられる言葉は、個人の勝利に対して授与される花飾りを意味する。パウロはこれをすべて自分自身にあてはめることで特に明らかにしている。パウロは回心者だった。彼は復活した主を礼拝していた。彼は新生の結果、内住の御霊を持っていた。彼は永遠のいのちという神の不変の賜物を獲得していた。それにもかかわらず使徒自身、冠を得られるかどうかわからない、と述べているのである。「私は自分の体を打ち叩いて従わせます。それは他の人々に宣べ伝えておきながら、自分自身(冠を)得損なうことが決してないためです」。ジョージ王が一九〇二年、彼の父の戴冠式の時にかぶった冠には、きわめて珍しい極楽鳥の羽の房がついている。この鳥は生け捕りにして羽を抜かなければならない。鳥が死ぬと、たちまち羽からつやがなくなってしまうからである。この鳥は虎の生息地によく現れるので、その捕獲には大きな危険が伴う。ウェールズの王子の冠は羽を集めるのに二十年要したが、一万ポンドの値打ちがある。しかも、数十名の猟師の命が犠牲になったのである。殉教者たちの冠のなんと素晴らしい比喩だろう!「死に至るまで忠実でありなさい。そうすればわたしはあなたにいのちのを与えよう」(黙示録二・十)。

それゆえ、パウロは戴冠の条件を明らかにして、全教会をそれに召す。(1)自制が冠を獲得する上で必要不可欠である。「試合で競技する人はみな、あらゆることで節制します。(中略)それゆえ私は自分の体を打ち叩いてそれを従わせます」。信者が戦う敵は内側にいるのである。神が救うのは傷ついた魂だけであるように、彼が冠を賜るのは傷ついた体だけである。「こういうわけで、地上にあるあなたたちの肢体、すなわち、淫行、汚れ、情欲、邪悪な欲、むさぼりを死に渡しなさい」(コロサイ三・五)。訓練中の選手は有害なものを断つだけでなく、疑わしいものも差し控える。「私たちもあらゆる重荷と、いとも容易にからみつく罪を放棄して、忍耐をもってレースを走ろうではありませんか」(ヘブル十二・一)。(2)冠の栄光は人にやる気を起こさせる。コリントの運動選手は十ヶ月苦しむことにより、パセリの花輪または野生のオリーブの冠を勝ち取る。その栄光は冠と同じようにしぼんでいった。「さて、彼らは朽ちる冠を得るためにそうしますが、私たちは朽ちない冠を得るためです」。私たちの冠は「しぼむことのない」冠である(一ペテロ五・四)。それは永遠に色あせず、だれも私たちの額から取り去れない。それはルールに従って競う者に保証されている。「ですから私は目標のはっきりしない走り方はせず空を打つような拳闘しません」。仮にこれが述べているのが、パウロが確実に冠を得ることだとしても、彼が「多くの」(二四節)失敗者たちとは違って受賞者であることを(後に彼が知ったように、二テモテ四・八)彼が啓示によって知っていたことを意味するにすぎない。しかし、これはそういう意味ではない。そのすぐ後で(二七節)自分も安全ではないことを彼は断言しているからである。彼が示しているのは、条件を満たすなら、間違いや、審判のえこひいきや、考え得るいかなる誤りによっても、賞を奪い取られることはありえない、ということである。どれほど完全に訓練を積んだ運動選手でも、イスミアの試合では追い抜かれるかもしれない。しかし、神の規準に合格したすべての人のために、十分な冠が存在するのである。(3)不従順によって冠は剥奪される。「だれもあなたの冠を奪うことがないように、あなたが持っているものをしっかりと保っていなさい」(黙示録三・十一)。この激励はパウロの魂をしっかりと捕らえた。「それは、(救いの名簿のために)人に宣べ伝えておきながら、(賞に関して)自分自身失格することがないためです」。

このように、どの冠も信じた後に行われた働きに基づく条件付きのものであること、また、どの冠も業績によって獲得できるものであることは確かである。私たちの主ご自身、多くの冠をかぶって戻ってこられる。神の御子が身にまとっておられるもの、彼の受難、性格、王権の上に押された最終的な証印と神が見なしておられるものが、無意味な装飾や不当な区別であるはずがない。私たちが恵みの中で私たちの主に近づくように、私たちは栄光の中で彼に近づくし、また、そうするよう心がけるべきである。「彼の頭上には多くの王冠(または冠)がある」からである(黙示録十九・十二)。これはティアラであり、法王のティアラはその偽物である。これは各種の要素から成る冠であり、幾段も積み重なっていて、多くの冠を統合したものである。英国の王や王女の戴冠式の時、四つの冠が用いられる――聖エドワードと聖エドギタの冠、それに国家の二つの冠である。後者の二つは君主の個人的資産として、戴冠式のたびに造り直されることがある。(1)朽ちない冠――「レースではすべての人が走りますが、賞を受けるのは一人だけです。さて、彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠のためです」(一コリント九・二四、二五)。走行中落伍した走者が冠を受けられようか?「あなたたちは賞を得るように走りなさい」。(2)喜びの冠――「私たちの主イエスの来臨の時、御前での私たちの希望、喜び、喜びの冠は何でしょうか?」(一テサロニケ二・十九)。決して一人も義に立ち返らせたことのない者が、多くの人を義に立ち返らせた功績に対する冠を受けられようか(ダニエル十二・三)?(3)栄光の冠――「こういうわけで、私はあなたたちの間の長老たちに勧めます。(中略)神の群れを牧しなさい。(中略)そうすれば、牧者の長が現れる時、あなたたちは栄光の冠を受けます」(一ペテロ五・一~四)。決して牧したことのない者が、神の群れを牧した報いを受けられようか?(4)義の冠――「私は信仰を守りました。今からは、義の冠が私のために用意されています。(中略)私だけでなく、彼の出現を慕ってきたすべてのにも授けてくださいます」(二テモテ四・七~八)。決して用心深くなかった者が、用心深さに対する冠を受けられようか?(5)いのちの冠――「誘惑を耐え忍ぶ人は幸いです。なぜなら、良しと認められた時、いのちの冠を受けるからです」(ヤコブ一・十二)。誘惑に屈した者が、誘惑に抵抗したという理由で冠を受けられようか?信者が冠を失うかもしれないことは、聖書の他の真理と同じように確かなことである。「だれもあなたの冠を奪うことがないように、あなたが持っているものをしっかりと保っていなさい」(黙示録三・十一)。冠は報いであり、条件を満たさなければ与えられないからである。「試合で競技する人は、規定どおりに競わなければ冠を受けることはできません」(二テモテ二・五)。神は聖潔を冠への通行証とされたので、冠はその聖潔の現れにほかならない。冠が与えられるのはレースの最初ではなく最後である。それは勝利を得た走者にのみ与えられる栄光の飾り輪であり、勝利を得た走者は注意深くレースの規定を守った者である。「このように冠を受けられるというのに、それを勝ち取るためにすべてを犠牲にして準備しないなら、私は愚か者以外の何者でもないだろう」(ウェッブ-ペプロー)。一八八一年、ルーマニアに王国が建国された時、そこには冠がなかったのでチャールズ王は言った、「武器庫に人を遣わし、戦利品の大砲を溶かして鉄の冠を作成せよ。戦場で勝ち取ったしるしとして、また、我々の命で買い取ったしるしとしてである」。