冠を得損なうおそれ

D. M.パントン

さて、パウロは直ちに極めて重要な究極的型を用いて、贖いのまさに最初からこのように何度も予示されている神の二面の真理を強調する。パウロは言う、荒野におけるイスラエルは私たちに対する現実的かつ実際的な型である、と。「これらの事柄において、彼らは私たちの型となりました。これらの事柄が彼らに起きたのは、予表としてです」(一コリント一〇・六、一一)。神が彼らの経験を選ばれたのは、ご自分の性格を示す例外的啓示としてではなく、恒久的啓示としてである。人が経験することはみな、彼らの経験同様私たちの経験も、神の唯一不変の性格から発しなければならない。さらに、神は教会のために目的をもって、このように働き、このように書き記されたのである。「これらの事柄において、彼らは私たちの型となりました。それは彼らが欲望に耽ったように、私たちが欲望に耽らないためです」。「これらの事柄は私たちへの警告として書き記されたのです」。この霊感された記録は並行する事柄を立証するために存在するのである。神がこのように働かれたのは、私たちが神の性格を知るためであり、神がこのように書き記されたのは、私たちがそれを永遠に覚えるためである。さらに、この並行する事柄は特に裁きのわざを指し示す。「彼らは荒野で打ち倒されました。さて、これらの事柄は」――何度も繰り返された打ち倒しは――「私たちへの予表です」。これらの裁きは岩のように御言葉の中に永遠に埋め込まれている。それは、荒野が教会の幼稚園となるためである。この並行する事柄を拒否することは霊感を覆すことであり、それを無視することは聖書を封じることであり、それを認めることはキリストにある信者に重大な危機を開示することである。

使徒は予表を用いて、私たち自身の霊的立場として広大な基盤を据える。「私たちの父祖たちはみな雲の下にあり」――小羊の血によって贖われ――「みな海を渡り」――神なき世から分離され――「そしてみな雲の中で、また海の中で、モーセへとバプテスマされました」――人々は罪に対して葬られたのである。「そしてみな」――主の食卓から――「同じ霊の食物を食べ」「みな同じ霊の飲み物を」――打たれた主からの御霊を――「飲みました」。「彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」。恵みの立場をたった数語でこれほど包括的に述べることはほとんど不可能であろう。もし特権のゆえに免除されていたなら、イスラエルは倒れなかったはずである。さて、驚くべき、熟考された対比に注意しよう。「ところが神は、彼らの大部分を喜ばれませんでした。なぜなら、彼らは荒野で打ち倒されたからです」。みな雲の下にあり――みな浸され――みな食べ――みな飲んだにもかかわらず、大部分が打ち倒されたのである。なぜなら、「競技で走る者はみな走りますが、賞を受けるのは一人だけ」だからである。すべての者――全イスラエル――のうち、大部分――全イスラエルから二人を除いて――が打ち倒された。「ですから、立っていると思う者は倒れないよう注意しなさい」。

二人の生者――カレブとヨシュア――と二人の死者――ヤコブ(創世記四九・二九)とヨセフ(ヨシュア記二四・三二)――が、王国の四重の継承(ルカ一三・二四)を見事に表している。ヤコブとヨセフの骨は約束の地に運び入れられた。

神の鋭利な二者択一の問いが、私たちを左右の角で突き刺す。打ち倒されたイスラエルは、信者の永遠の滅びか、あるいは、報いの喪失の型である。もしそれが栄光の喪失でないなら、いのちの喪失である。しかし、これは文脈から決定される。「競技で走る者はみな走りますが、を受けるのは一人だけであることを知らないのですか?ですから、賞を得られるように走りなさい。(中略)なぜなら兄弟たちよ」――あれほどまでに特権を受けていた――「私たちの父祖たちが投げ倒されたことを、あなたたちに知らずにいてもらいたくないからです」。危機に瀕しているのは永遠のいのちの賜物ではなく、賞なのである。神が私たちを血の下に置かれるとき、その効力は決して私たちから取り去られることはない(ローマ八・一、ヨハネ一〇・二七~二九、ローマ一一・二九、ヘブル九・一二)。また神は、賞を取り消せない賜物としてこれまで示されたこともない。特権が五重で打ち倒しも五重だったのだから、最も優れた聖徒ですら最悪の罪に注意する必要がある。「規定通り競わなければ冠を受けることはできません」(二テモテ二・五)。神の選びという祝福された現実も、選ばれた者の罪に対して何の保護にもなりえないのである。モーセを思い出してほしい。さて、これらの事柄が彼らに起きたのは予表としてです。これらの事柄が書き記されたのは、諸々の時代の終わりに臨んでいる私たちへの警告のためです」。ディーン・ファラーの話によると、ビクトリア王女はかつて付き添いの牧師――おそらく彼自身――に再臨について告げて言った、「私が生きている間に主が来られることを、私はどれほど願っていることでしょう!」。彼は、「どうしてでしょうか、女王陛下?」と尋ねた。女王は震える口で答えた、「ぜひとも私の冠を彼の足下にささげたいからです」。ただ聖別された奉仕における私たちの成果にしたがって、かの日、私たちは彼の足下に栄光をささげるのである

改訂訳と校訂版を見よ。
モーセは独特な方法で葬られ、一四〇〇年後に変貌の山の上に現れた。この点で、モーセの生涯には型としての別の面がある。以前モーセは型として良き地から締め出されたが、すべての預言者たちと共に(ルカ一三・二八)王国にあずかることを個人的に確信していた。モーセは変貌の山の上で死んだ聖徒たちの唯一の代表として進み出た。なぜなら彼は「僕として彼(神、民数記一二・七)の家全体において忠信」だったからである(ヘブル三・五)。