クリスチャンの責任

D. M.パントン

資産を任されるなら、必然的にその収支報告をする日が来ることになる。それゆえイエスは、ご自分が僕たちに預けたタラントで僕たちが商売を行う長い期間の後、「これらの僕たちの主人が帰ってきて、彼らと精算した」(マタイ二五・十九)と仰せになる。このたとえ話は、高貴な生まれの人の出発から帰還まで――すなわち、私たちの主の昇天から再臨まで――の全期間を網羅する。したがって、およそ二千年にわたって地上で彼の商売を行ってきたすべての人を含む。また、キリストの教会が存在する期間、その期間だけを網羅しており、教会の働きと裁きの全歴史もそうなのである。託された物はわずかだが、その支出によって得られる見返りは莫大である。一タラントを十タラントに増やして最も稼いだ僕に対して、私たちの主は「あなたはごくわずかなものに忠信だった」(ルカ十九・十七)と言われる。私たちは目立たない無名の存在で、土地もなく、家もないかもしれない。友人さえいないかもしれない。地位も力もないかもしれない。それにもかかわらず、私たちには託された資産があるのである。それを正しく用いるなら、メシヤ王国の時代、それは計り知れない富と力になりうるのである。

さて、私たちの主の主要な強調点は三番目の僕である――失敗したこの三番目の僕に対しては節費やされているが、成功したそれぞれの僕には節しか費やされていない。したがって、この僕は誰かという点に、このたとえ話におけるキリストの中心的教えがかかっている。そして、この僕は自分自身かもしれない、ということを私たちが理解しないなら、森の木の葉の下に隠されている人捕り罠のように、私たちは自分を隠れた危険にさらすことになるのである。なぜならどの真理も、それを得るとき、電気ショックのように魂の上に降りかかるからである。この節を自分に適用することを拒む信者は、この三番目の僕が有罪になった過ちをことごとく犯しているかもしれないにもかかわらず、自分自身を鉄の鎧で覆ってしまい、自分の上に振り下ろされる神の剣を鈍らせて無害なものにしてしまうことは明らかである。この三番目の僕の霊的立場を知ることは決定的に重要である。

さて、この僕は神の子供であることが以下の事実から立証される。(1)他の僕と同じように、彼は主の昇天の際、私たちの主の資産を任されている。しかし、キリストは地上におけるご自分の働きを救われていない人に託されたことはないし、現にそうである。したがって、この人は他の人と同じように救われた人である。イエスは彼ら全員を「ご自分の僕たち」と呼んでおられる。文字どおりには、主人が金で買い取って所有している「奴隷たち」という意味である。「旅立つ時、この高貴な人は、自分の財産を以前のように自分で個人的に管理できなくなるので、不在の間、それを忠信な者の手に預けなければならなくなった。そこで彼は、見知らぬ労働者ではなく、僕として所有している自分自身の僕たちを呼んだ。そして彼らの主人として、彼は彼らが自分の益を自分たち自身の益と見なすであろうと期待された。それゆえ、自分が後に残していく資産を彼らに、彼らの手に託したのである」(ゲーベル)。この僕たちの能力は大いに異なっている――両極端では五対一という具合である。しかし、彼らは共通の資産を所有しているという点で違いは全くない。(2)三人の僕たちは同じ場所で同じ時に一緒に裁かれる。しかし、邪悪な死者は大きな白い御座(黙示録二〇・五、十二)まで裁かれることはなく、それは贖われた者の裁きの千年後のことである。そこでこの怠惰な僕は最後によみがえらされて最後に携え挙げられ、三人のうち最後に裁かれるのである。なぜなら彼は、「主の御旨を知りながら、用意もせず、主の御旨を行いもしなかった僕」(ルカ十二・四七)だからである。三人の僕たちは一緒に裁かれているので、全員贖われている。彼らは一度きりの裁きで裁かれる。その裁きに出廷するのは教会であり、ただ教会だけである(二コリント五・十)。そしてこの裁きはパルーシアの中で行われるので、その場に至る唯一の道は携え挙げであり、必然的に救われていない人はみな物理的に除外される。救われている者以外、だれも裁きの御座に来ることはできないのである(3)三人の僕たちはみな、七つの教会のように、ただ自分たちの働きに基づいて裁かれる。不在の王に対する彼らの信仰と愛が示唆されており、前提となっている。彼らの立場が問われることは決してない。もしこの三番目の僕が救われていない人だったなら、彼の働きは決してどんな理由があっても受け入れてもらえない。初臨と再臨の間、働きに応じて裁かれるのは贖われた者だけである。なぜなら、キリストから受け入れてもらった者たちだけが彼のために働けるからである。神の僕にはみな、この世でキリストのために行うべき奉仕があり、遂行すべき委託がある。この任務、この委託こそ、人を「僕」とするものである――この称号を名乗ることを使徒たちはこよなく愛した(ローマ一・一、二ペテロ一・一、ヤコブ一・一、ユダ一)。信者が受けた救いこそ、信者が商売を行える唯一の立場であり、ただ教会だけが、神の取引が永遠に行われ続ける市場である。「このたとえ話の意図は、信仰から完全に堕落してしまった人、背教者を描写することでないのは明らかである。僕としての関係を解消したり、自分のタラントを浪費したりしてはいないが、主の益のためにそれを用いなかった人、自分の義務を果たさなかった人を描いているのである」(オルシャウセン)。(4)圧倒的なのは最後の証拠である。このタラントと対をなすたとえで、救われていない人が救われている人と注意深く対比されている。一方は市民として、他方は僕としてである。世界にはこの二つの階級しかなく、人類を鋭く二分している。僕たちに私たちの主は地上の全財産をお預けになったが、市民たちは昇天したキリストの後から、「私たちはこの人に私たちを支配してほしくありません」と伝言を送った。この伝言は、トレンチ大司教が言うように、終末の大背教のとき完全かつ最終的に成就されるだろう。三人の僕たちはみな、イエスを主として受け入れ、神の奉仕の中に絶対的に入ったのである。「彼ご自身の僕たち、すなわち、信仰によって彼のものになった者たちは、そうなろうとしない市民たちと対照的である」(ステア)。この市民たちは彼の御前であわれみを受けることなく滅ぼされる(ルカ十九・二七)。「この一人の僕は、キリストのからだである教会の機能していない肢体を表しており、自分の義務を果たすことに失敗した人である。それに対して、この市民たちは公然たる敵対者であり、それゆえ、彼らの主は彼らを殺すよう命じられるのである。この処罰はこの一人の僕に言い渡された叱責と本質的に異なることは明らかである」(オルシャウセン)。

トロントの集会で一人のクリスチャン女性が講師の所に来て言った、「私はびっくりしてしまいました!自分はどんな裁きにも遭うことはない、と思っていたのです。それではどうすれば自分が救われているかどうかわかるのでしょう?」。講師は言った、「ご婦人、答えはいたって簡単です。裁きの御座の前に立つ瞬間、あなたは自分が救われていることを知るでしょう。救われている人以外、だれもそこに立つことはないからです」。死者の間の失われた者たちは大きな白い御座まで裁かれず、それは千年後のことである。

それゆえ今、私たち全員が直面している危機がわかる。その危機を私たちの主は警告灯のように閃かせておられる――その危機に最も瀕しているのは、特筆すべきことに、最も低い弟子なのである。その危機とは何か?神が私たちに賜ったものを過小評価することである。キリストはそれぞれの僕に、賢く用いることができると思うものをお与えになる。その分量は、僕が扱うことができ、それによって利益を上げられる分である。どの僕も、「主よ、あなたは私になにも与えてくださいませんでした」と言うことはできない。キリストはどの僕にも、能力や条件以上の成果をあげるようにとは期待しておられない。最も貧しい者、最も無学な者、最も無名なものでさえ、「ごくわずかなもの」を持っており、それで将来莫大な富を築けるのである。「怠惰な僕にも『彼自身の能力に応じて』一タラントが託されている。それゆえその僕は、他の僕たちが自分の賜物を用いて働けるのと同じように、自分の賜物を用いて自発的に働けるし、またそうする義務を負っているのである」(ゲーベル)。しかし彼は、自分の条件を過小評価するあまり、それを地面の中に――世俗の中に――埋めてしまったのである。彼の肉欲は彼の恥である。なぜなら彼は神の子供だからである。彼の肉欲は彼の資産を台無しにしてしまったのである。「彼を有罪にした事情とは、その金の所有者は彼の知らない人ではなく、彼の主人だったことである。その主人に彼は僕として拘束されていたのである」(ゲーベル)。なぜなら、タラントを所有することによってではなく、ただそれを活用することによってのみ、私たちの報いが決定されるからである。報われるのは最初の五タラントや二タラントではなく、二番目の五タラントと二タラントである。そこでイエスは、三番目の僕を最初の二人と対照的に描写して、「良い」「忠実な」僕と言う代わりに、「邪悪で」「怠惰な」僕と述べておられる。一般的な意味で「良く」ないのではなく、良いではないのである。同様に、一般的な意味で「悪い」(邪悪)のではなく、悪いなのである。一方が良かったのは忠信さのためであり、他方が悪かったのは怠惰のためである。「怠惰な僕よ、というこの特色ある呼びかけが、彼の咎をすべて言い表している」(ステア)。役に立たないことであって(マタイ二五・三〇)、再生されていないことや、背教者だということではない。金を悪用したり、横領したり、浪費したわけでなく、ただ隠してしまったのである。私たちの主は彼を何の咎で叱責しておられるのか?不信仰、再生されていないこと、反逆、背教、姦淫、盗み、殺人だろうか?否、神の僕として自分の一生を全く有効に用いなかった点だけである。彼が犯した過ちは、自分の力を差し控えて神に仕えなかったことだけである。彼は費やすべき時にしまいこんでしまったのである。彼には神聖な義務感というものが全くなかったのである。「このたとえはひどい罪人たちに対するものではない。この警告は、神の王国の活動圏のために神によって装備されているのに、自分のタラントを隠している人たちに対するものである」(トレンチ)。彼の言い分はこうである、「神が要求しておられるように聖くなることはできないので、このように厳格な要求を満たそうとするのはやめよう」「私は働きに応じた報いの教理を心底拒絶する。キリストの僕としての責任をすべて否定して、回心の時に託された恵みの賜物を維持する責任だけ負うことにしよう」。しかし彼の言い分は(彼の主が言うように)彼が真理を知っていることを暗示している。裁き主の返答はこうである――「この原則の厳しさを意識していたからには、その要求を満たすようより多く――より少なくではなく――注意を払うべきだったのである」。「したがって、この邪悪な僕はこの内奥にある真理、このごく正当な要求を自分の口で証ししなければならない。この真理、要求にしたがって、主は蒔いたり授けたりしたものからを要求されるのである――神は実と働きを求めておられるのである」(ステア)。裁きの時、もし信者が回心のとき授かったものしか持っていないなら、それは非難されるべきことである。彼の生活が良くなかったので、彼の罰もそのとおりである。彼は明るく照らされた祝祭の大広間の外の暗闇に追い出される。「ここではこの僕について、それ以上の罰は述べられていない。主の王国にあずかれない、ということだけで十分である」(ゲーベル)。失われた機会、浪費された恵み、ないがしろにされた特権、売り渡された長子の権について、泣いたり歯がみしたりするのである。

パルーシアは濃い暗闇の場所であり(詩篇十八・九)、その中にシェキナの栄光が宿っている(マタイ十六・二七)。したがって、内側の光の輪から王国の境界に追い出されることは、外側の雲のテントの暗闇の中に追放されることである。
「もしこの僕が信者ではなく、口先だけの者なら、忠信でなかったクリスチャンを表すものがこのたとえにはなにもないことになる」(C.G.トランブル)。

忠信な僕の二人は、「裁きの日に大胆さを持つ」(一ヨハネ四・十七)顕著な例である。二人とも喜びながら前に進み出る。彼らは自分たちの手に証拠――倍になったタラント――を持っているからである。二人とも直ちに彼らの主の喜びの中に入るよう招かれる――それは彼の王国における私たちの主の喜びであり、そのために彼は恥をものともせず十字架を耐え忍ばれたのである。「彼が王の力と栄光を帯びて天から再臨される時、神は彼にメシヤ王国を打ち立てる権威を賜るのである」(ゲーベル)。三番目の僕も忠信だったなら、そうなっていただろう。「彼は彼の主人の王国になんの分け前も持たない。したがって、彼のような人はキリストの王国になんの分け前も持たないであろう」(ゲーベル)。忠信な僕の二人は、彼らの主人の権益のために、自分たちの能力と力をすべて活用した。主人の帰りが長引いても、彼らは怠けたり不注意になったりしなかった。むしろ反対に、その長引いた時間を利用して、より多くの利益を上げたのである。彼らは教会の中で得たものを王国の中で刈り取る。「良くやった」という言葉は、「彼らがよくやった」からにほかならない。「この期間が与えられているのは、彼らがなにもせずに待っているためではない。彼ら自身にとって、これはきわめて重要な期間である。なぜなら、この期間は彼らに試験期間として定められており、それをどう用いるかによって、キリストの王国に入れるかどうか、そして王国における彼らの地位が決まるからである」(ゲーベル)。私たち自身の利益を増す方法は、私たちの主の利益を増すことだからである。主のために一セント得るたびに、自分も一セント得る。そして、一タラント毎に報いとして一つの町を与えられる(ルカ十九・十七)。献身的な生涯を送れば送るほど、ますます栄光が照り輝く。どの僕もタラントより多くは持たなかったし、一タラントを持たない僕もいなかった。どの僕も十タラント稼ぐ平等の機会を有していたのである。しかし(私たちの知るかぎり)ただ一人だけがそうしたのだった。「これは未来の王の試験であり、その過程で王の僕たちはまず、わずかな金に忠実かどうか身の証しを立てるのである。そして次に報いとして、彼らは彼の王国の運営に参加するのである」(ゲーベル)。この十の町と五つの町は比喩である。なぜなら、たとえの中の文章はみな ipso facto 比喩だからである。それにもかかわらず、私たちの主が啓示しておられるように、彼が忠信な僕に管理させる「多くの事柄」は王権より劣るものではないだろう。「勝利を得る者、最後までわたしの働きを保つ者に、わたしは諸国民に対する権威を与える。彼は鉄の杖をもって彼らを治める」(黙示録二・二六、二七)。次に、イスラエルと異邦人の間の悪人に対する裁きが続く。「こうして王は、ご自分と近しい僕の関係にある者たち、彼ご自身の家の者たちに、賞賛と叱責、報いと処罰を与えた後、彼の敵たち、彼への忠誠を公然と拒んで彼の家に属することを全く拒絶したすべての者たちに対する報復の執行に着手されるのである」(トレンチ)。

これは千年王国にちがいない。なぜなら、神の御子としての私たちの主の永遠の王国は――高貴な人が受けに出かける王国とは別のものであり(ルカ十九・十二)――元々彼のものであり、始まりも終わりもなく、決して贈られたものではないからである。「御子について彼は言われる、あなたの御座は、おお神よ、永遠に続く」(ヘブル一・八)。

したがって、「来るべき方はなおもこの僕たち全員の主である。忠信な僕に対してだけでなく、忠信でなかった僕に対してもそうである。後者に対しては、清算の時、彼はご自身を主として示されるのである」(ステア)。なぜなら、怠慢に対する刑罰が厳しいように、忠誠に対する報いは素晴らしいからである。二つの道に分かれるのである。忠誠に対して約束された膨大な賞金を受けるその程度に応じて、私たちは不忠信に対する結果の重さを覚悟しなければならない。「彼らの主の出発から再来までの期間、彼の弟子たちは、彼が出発の時に彼らに託されたものを用いて、彼とその目的のために、忠信な勤勉さをもって働くべきである。なぜならキリストが戻られる時、そのような忠実さには最も輝かしい報いが待っているからである。他方、受けたものを活用することを拒む利己的怠慢さには、最も重い刑罰が待ち構えているのである」(ゲーベル)。

こうして私たちは危機に直面する。王国の運営には幹部が必要である。そこで神は二回の来臨の間にわざと長い期間を差し挟んで、私たちの主が彼の不在の時に僕たちを試せるようにされたのである。それは彼が戻って来られる時、誰が責任ある信頼のおける地位にふさわしいかを見いだすためである。この高貴な人は、出かける前、王国の運営で自分を助ける幹部たちの選任案を用意された。彼が帰って来る時、その幹部たちが誰かわかるよう計画を立てられたのである。この計画は現在進行中であり、職務のための能力を個人的に有しているかどうか、その人が信頼にふさわしいかどうかわかるよう、目的をもって計画されている。そして――とりわけ印象的なことに――この長旅は今や終わりかけており、この取調べがいつ始まってもおかしくない。「急いでキリストに似た性格を涵養せよ。収穫は多く、労苦は重い。日は西に沈みつつあり、清算の時は近い。無駄に費やす時間はない。以前にもましてこれに取り組み、『私はこの事に励んでいます』と言え」(マクラーレン)。