聖地からの追放

D. M.パントン

計画された型――聖書中のすべての型同様、よく熟考された念入りな型――が、非常に明快にこの追放の問題を解決する。詩篇九五篇で述べられている安息はこれまで実現したことがなく、それゆえ私たちに対して開かれていることを、パウロは明らかにしようとする。ダビデ自身は王座について安息していたが(サムエル下七・一)、の安息をなおも将来の事として書き記した。この事実は、この安息が三千年前の創造後の神の安息や、ダビデが書き記した三百年前のカナンにおけるイスラエルの安息とは異なることを示している。「したがって、安息日の安息残されているのです」――この言葉は聖書中他には使われておらず、古文書にも使われていないが、完了した労苦を表現するために聖霊によって造られた――それは「神の民のため」である(ヘブル四・九)。したがって、この安息は千年期の統治である。それは安息日の安息、あるいは七番目の千年期であって、六千年に及ぶ贖いの労苦に続くものである。それは古い地球の終結期における神の安息であり、律法の下のすべての安息日によって予表されている。それは永遠の安息ではない。なぜならそれは結びの区分、結びの七番目にすぎないからである。それはパウロがまさに述べたように「来るべき時代(単数形であって複数形ではない)」であり、「それについて、私たちは語っているのです」(ヘブル二・五)。このようにカナンはキリストの千年王国の型なのである。

ラビは安息日をこのように理解した。「七年目に安息が始まるように、千年間の安息が七千年の期間を締めくくるのである」(デリチェによる引用)。

さて私たちは直ちに、聖霊によって大いに強調されている問題に行き着く。いったい誰に対してこの追放の誓いが発せられたのか?「(神の実際の御声を)聞いた時、誰が神を怒らせたのか?」。エジプト人、カナンの七部族、モアブやアマレクではない。彼らは砂漠で神の唯一の民として全世界から分離され、エホバにつくものとされたことは一度もない。そうではなく、「エジプトから出てきたすべての者ではなかったか」――過越の血と紅海のバプテスマを経過したイスラエルだったのである。「彼は誰に対して四十年間憤られたのか?罪を犯した者たちに対してではなかったか」――ただ信者だけが罪を犯すことができる。つまり、特権と光に対してである――「誰の死体が荒野に倒れたのか?」。これらの死体はあの誓いの証拠だった。彼らはあまりにも体の欲望に耽ったので、たんなる体になり果てて、腐敗を刈り取ったのである。「決してわたしの安息に入らせはしない、と彼は誰に対して誓われたのか」――神の追放の誓いは誰に対して発せられたのか――「不従順な者たちに対してではなかったか?」。義とされたが聖別されていない民に対してだったのである。ウェストコット司教は言った、「この警告が必要である。クリスチャンはこれに配慮する必要がある。なぜなら、神をこれほど怒らせたのは誰だったのか?神がすでに束縛から解放された者たちだったのである」。

エジプトから脱出したことがなく、紅海を渡ったこともない、カナンに入った世代(カレブとヨシュアとは別に)は、この型を構成しないので無視される。

しかし、この誓いを招いた罪とは何だったのか?「彼らは不信仰のゆえに入れなかったことがわかります」(ヘブル三・十九)。しかし、に対する不信仰か?イスラエルの荒野における立場は全く信仰に基づいていた。「信仰によって(モーセは)過越を守り、血を注ぎました。(中略)信仰によって彼らは乾いた地を行くように紅海を渡りました」(ヘブル十一・二八)。この不信仰は基本的事柄に対するものではなかった。イスラエルはエジプトからの救いや血による贖いを疑った、とは決して述べられていない。反対に、神の誓いが御口から発せられる時、その瞬間と理由が明らかになる。敬虔な偵察者たちの報告を拒絶したせいで、イスラエルの聖別は全うされなかったのである。「これらの者たちはみなわたしを十度も試みた。彼らがその地を見ることはないであろう」(民数記十四・二二)。「彼らは良き地を軽んじた。それゆえ、彼は御手を上げて(誓われた)」(詩篇一〇六・二四)。イスラエルは将来に対する神の構想と、それから生じる自分たちへの命令に頑固に逆らった。それは再生された人の部分的不信仰であった。「このことで、あなたたちはあなたたちの神である主を信じなかった」(申命記一・三二)。それゆえパウロは言う――「彼らが聞いた言葉は」――カレブとヨシュアによってもたらされた、ヨルダン川の向こうの王国に関する報告は――「彼らの益になりませんでした。なぜならそれは」――過去に向かって血を指し示す良いたよりではなく将来に向かって冠を指し示す良いたより、恵みの福音ではなく王国の福音は――「聞いた人たちの中で」――すなわち神の民の中で――「信仰と混ざり合わされなかったからです」。神は私たちが信じるよう、過去の事実だけでなく将来の事実をも与えてくださる。過去の事実を信じないなら失われることになり、将来の事実を信じないなら、神の子供は直ちに罪の中へと漂っていき、追放の誓いの危険を身に招くことになる。

そこで使徒は神の教会に対するきわめて明快な警告で締めくくる。「信じた私たちは入ります」――入りつつあるのである。信者はみな、先にあるゴールを目指して走る走者であり、まだゴールのテープを切っていない。「ですから私たちは」――パウロは自分自身も含めている――「彼の安息に入る約束がまだ残されているのですから」――この約束は条件付きであり、導き入れるという誓い(出エジプト記十三・五)は、聖さを全うしないなら、追放という逆の誓いに置き換わる――「あなたたちの内のだれも」――三度も御霊はこの魚雷を教会、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち(ヘブル三・一)の胸元に打ち込む――「それに達し損なうと思われるようなことが決してないよう」――人の判断は必ずしも無謬ではないので、たとえそれが確証できないものであっても、失敗するおそれすら生じないよう(ウエストコット)――「畏れようではありませんか」――優れた聖徒たちですら堕落することがかなり頻繁にあるからである。「ですから不従順の同じ例に倣って」――隠れた不信仰から発する聖くない歩みの例に倣って――「だれも(あなたたちの内のだれも)堕落することがないよう」「この安息に入るために」「励もうではありませんか」――熱心に努めること(デリチェ)、文字どおりには急いで熱心に追い求めること、なぜならこの賞は誉れ高く、危険が大きいからである(ウエストコット)。荒野は宮殿への回廊だが、私たちはこの回廊から滑り落ちて宮殿を失うかもしれない。「私たちは神の怒りを恐れるべきである。神の怒りはなおも、選ばれた民の領域内ですら、信じないすべての者たちの上に裁きの恐怖をもたらしたのである」(ランゲ)。

律法の下でのこの誓いは、恵みの下での二重の否定的誓い(マタイ五・二〇等)に似ている。