破門と追放

D. M.パントン

旧約聖書の一つの節が――おびただしい節からわかることだが――追放の可能性を決定的に証明している。それを調べることにしよう。再生された人においては、善に向かう傾向が主流であり、悪は傍流である。それと同じように、再生されていない人においては、悪に向かう傾向が主流であり、善を求める努力は傍流である。これがつねに再生の規準である。「義を行う者は義ですが、罪を行う者は悪魔から出ています」(一ヨハネ三・七、八)。「信仰だけが救うことができる。しかし、信仰のみの信仰は信仰ではない」(ルター)。しかし、再生された人でもひどい罪を犯しうること、そしてそのような罪の中で死ぬことがありうることも確かである。なぜなら―― 一つの例として――かの近親相姦を犯した兄弟のことを聖霊は永遠に決定的証拠としておられ、彼が再生されていたことは三つの事実から確実だからである。(1)破門は彼の霊ではなく彼の肉をサタンに渡すことだった。サタンはヨブのように彼の体に触れることはできたが、彼の魂に触れることはできなかった。「それは主イエスの日にその霊救われるためです」(一コリント五・五)。さて、この滅びはアナニヤのようにたちまち起こりうるものであるが(私たちの読むところではその逆である)、彼の救いは保証されていた。それゆえ、彼は破門の前に再生されていたのである。「私たちが裁かれるのは」――死にさえ至るのは(一コリント一一・三〇)――「主から懲らしめられることであって、この世と共に罪に定められないためです」(一コリント一一・三二)。(2)パウロははっきりと、教会の裁きの対象を信者に限定している。「あなたたちが裁くのは中の人であって、外の人は神が裁かれるのではないでしょうか?その邪悪な人をあなたたち自身の間から除き去りなさい」――判決を下しなさい、なぜなら彼は中にいるからです。未信者を裁く権利は神にのみ属するとパウロは言う。したがって、パウロの命令により教会によって裁かれた、この近親相姦を犯した兄弟は信者だったのである。(3)この兄弟は完全に破門されたが、速やかに回復された。というのは第二の手紙でパウロは「彼を赦し慰めてあげなさい。彼に対するあなたたちの愛を示しなさい」(二コリント二・七)と述べているからである。これはまったく決定的である。この厳しい懲らしめによって彼は自分の罪から離れたのである。霊感を受けた命令の下で行動することにより、教会は彼をキリストの生ける肢体として完全な交わりへと回復したのである。したがって、信者はこのように罪を犯しうるし、犯してきたのである。そして――肉の滅びもありえるので――罪の中で死ぬこともありえるのである。荒野では自然な死は一切記録されておらず(モーセやアロンの死すら記録されていない)、姦淫などによって殺された人はみな、それによってカナンからすでに追放されていた。破門されて体の滅びのためにサタンに渡された人も、それと同じである。

「邪悪な」という言葉はここでは聖霊によって不道徳な信者に対して用いられており、私たちの主はこの言葉を怠惰な僕に対して用いられた(ルカ一九・二二)。これはその人が回心していなかったことを示すものではない。邪悪さは救われていない人の生来の性質であるが、贖われた人においては偶発的である。
幸いなことに、弟子が罪を告白してそれを放棄するなら、直ちに罪を清められることは確かである。「もし私たちが自分の罪を告白するなら」――回心後に私たちが犯した特定の違反を、それを犯した時に告白するなら――「彼は忠信で義ですから、私たちの罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」(一ヨハネ一・九)。それゆえ、ペテロは主を否んだにもかかわらず、彼の王座を失わなかったのである。「多くの最後の者が最初になります」(マタイ一九・三〇)。

しかし、決定的証拠となる事実がまだ一つ残っている。特定の罪は会衆全体に伝染するおそれがある、とパウロが述べていることである。「わずかなパン種が粉のかたまり全体を発酵させることをあなたたちは知らないのですか?」。この「粉のかたまり全体」はすべてが良いものだったのか、それとも半分は悪かったのか?「古いパン種を取り除きなさい。それはあなたたちが新しい粉のかたまり」――まったく新鮮で純粋な粉のかたまり――「となるためです」「あなたたちは、事実パン種のない者だからです」。パウロが話している相手はみな、回心の時、純粋な甘い粉のかたまりとして神の御手を離れたのである。全員再生されていた。「あなたたちはパン種のない者なのです」。パウロは言う、「今そのままでいなさい。もし何かのパン種が戻ってきたら、粉のかたまり全体を新鮮に保つためにそれを取り除きなさい」。なぜなら、姦淫は――名前があがっている他の悪徳も同じように――教会全体に広まるおそれがあるからである。「わずかなパン種が粉のかたまり全体を発酵させることをあなたたちは知らないのですか?」。パウロは近親相姦を犯した兄弟を姦淫のゆえに信者と見なさないのではなく、まったく逆の主張をしている――すなわち、大胆な措置でからだを清めないなら、悪徳がからだ全体を汚染するおそれがある、と述べているのである。危険を免除されている信者は誰もいない。それゆえパウロはこの章の残りの部分を費やして、聖霊によって内住されている人が犯す姦淫の罪の重大性を立証する。「ですから私は」――使徒ですら罪を犯すおそれがあるため――「キリストの肢体を取ってそれを遊女の肢体として良いでしょうか?」(一コリント六・一五)。もしパウロが未信者のことを念頭に置いていたとするなら、彼は彼らが犯しえない罪のことで彼らに警告したことになる。なぜなら、キリストの肢体を取って、それを遊女の肢体とすることは、キリストの中にある人だけが行えるからである。パウロがこの文章全体で述べているのは、ただキリストのからだの肢体についてなのである。

このように、信者がこのような罪を犯しうることは確かである。そして確かに、コリントのある人たちはそうしたのであり、そのような人はみな破門されなければならない。パウロはここで、重大な啓示を明らかにする。その啓示とは、教会から追放されるほど汚れている弟子は王国からも追放されなければならない、ということである。つまり、破門された人は追放されるということである。破門の名簿はいかなるものか?姦淫を犯す者、偶像を拝む者、強欲な者、酒飲み、罵倒する者、盗人である(一コリント五・一一)。また、追放の名簿はいかなるものか?「あなたたちは自ら悪を行った」。どのような危険と引き換えだったか?「悪を行う者(冠詞無しの同じ言葉)は神の王国を継げないことをあなたたちは知らないのですか?欺かれてはいけません」――コリントのようによく教わっていた教会が、再生されていない姦淫者が神の王国に入るなどと考えることがありえたのだろうか?――「姦淫を犯す者、偶像を拝む者、(ここで四つの新しい罪が追加される。三つは姦淫の拡張であり、一つは強欲の拡張である。追放の対象は破門の対象より広いのである)強欲な者、酒飲み、罵倒する者、盗人は」――破門の理由となる各々の罪は追放の理由となる罪でもある――「神の王国を継ぐことはできません」。同じ名簿なのである。正当な理由で破門された人は間違いなく追放されるであろう。なぜなら、「あなたたちが赦す罪は(姦淫を犯した兄弟の罪のように)赦され、あなたたちが赦さずにおく罪は」――その前提は常に、神が命じられた破門であることである――「そのまま残るであろう」(ヨハネ二〇・二三)。というのは、「あなたたちが地上で縛るものは何でも、天でも縛られるからである」(マタイ一八・一八)。

「神の王国はここでは終末論的な意味で用いられている」――ゴデット。「神の王国はここでは、将来のある期間における、その外的現れのことを言っている」――オルハウセン。「王国」は千年王国であって永遠の王国ではないことを、まさにこの手紙が告げている。「彼は父なる神に王国を渡されます」(一コリント一五・二四)。
同じく決定的な他の節も、同様の明確さで信者に宛てられている。「なぜなら、姦淫を犯す者、汚れた者、強欲な者はみな、キリストと神の王国を継げないことを、あなたたちは確かに知っているからです。誰も空しい言葉であなたたちを欺くことがないようにしなさい」(エペソ五・五)。人々は私たちに王国への無料入国券をくれるかもしれないが、それらの証明書は入口では通用しないであろう。ガラテヤ人にパウロは最も完全な一覧を与えている。「さて肉の働きは明白であって次のようなものです。すなわち、姦淫、汚れ、強欲、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、ねたみ、怒り、党派心、分裂、分派」――明らかに教会の罪である――「嫉妬、酩酊、遊興、その類のものです。このことを私はあなたたちに予め警告しておきましたし、これらのことを行う者は神の王国を継がないことを確かにあなたたちに予め警告しました」(ガラテヤ五・一九)。

パウロは最後の結論の言葉で締めくくる。「あなたたちの中にはそのような人もいましたが、あなたたちは洗われ」――血と水を通してである――「聖別され」――聖なる者として神のために分離されたのである――「義とされました」――神に受け入れられるキリストの義を通してである。このような人たちに対して、パウロは追放の警告を与えているのである。あなたたちは汚れていたが清められ、俗であったが聖とされ、不義であったが義とされた。それなのに、あえて元の木阿弥になろうとするのか、とパウロは問う。もし未信者だけが追放されるなら、パウロの警告は的外れであるだけでなく不正である。なぜなら、信者が罪を犯しているのに未信者が追放され、「あなたたちが悪を行った」せいでこの世が罰せられることになるからである。神は人々の中の誰か一人の罪を示して、別の人に刑罰の警告を与えるだろうか?「あなたたちは私が望んでいるような人ではないことがわかるのではないかと私は恐れます」。その理由は「彼らが犯した不潔、姦淫、強欲」(二コリント一二・二〇)のためである。危機に瀕しているのは、洗われ、聖別され、義とされた人である。偽善者たち――口先だけの信仰告白者、偽兄弟、教会の審査官をすり抜けた人々――は洗われ、聖別され、義とされただろうか?御霊が諸教会に言うことを聞け。「悪を行う者は、自分が行った悪の報いを受けます。それには人の分け隔てはありません」(コロサイ三・二五)。「サルデスには自分の衣を汚さなかった者が数名いる。彼らは白い衣を着て私と共に歩む。なぜなら、彼らはそれにふさわしいからである」(黙示録三・四)。「私に向かって主よ、主よ、と言う者がみな」――特に弟子独特の言葉である――「天の王国に入るのではなく天におられる私の父の御旨を行う者が入るのである」(マタイ七・二一)。

死の床での回心には「信仰の働き」の余地がない。私たちの主は瀕死の盗賊の嘆願を無視して(ルカ二三・四二)、単純な救いの保証をもって彼を慰められたことは確かである。私たちの主は山上の垂訓を締めくくるにあたり(マタイ七・二一~二七)、語り始めたときと同じように(マタイ五・二〇)、神の王国に入るための素晴らしい義の標準として垂訓を示された。なぜならこの垂訓においては、私たちの主の他の発言や書簡全体における御霊の命令体系と同じように、私たちの能動的な義が見いだされなければならないからである。「あなたたちの義(あなたたちの能動的な従順)が律法学者やパリサイ人の義(モーセの律法の標準)にまさっていなければ、あなたたちは決して天の王国に入れない」(マタイ五・二〇)。

特筆すべきことに、聖書の大いなる恵みの章のまさに中心に、クリスチャンの報いはもっぱら自分自身の忠実さによる、という真理が深く埋め込まれている。カルバンが述べたように、「働き恵みと全く矛盾しない」。「もし一人の人(アダム)の違反によって、死が一人の人を通して支配したなら、なおさら」――神はご自分の敵に報いることよりもご自分の僕に報いることを愛されるが、それと同じようになおさら――「豊かな恵みを」――溢れ流れるほど超越した恵みを(ゴデット)――「受ける者たちは」――常に継続的に受ける者たちは――「命の中で支配するはずだからです」(ローマ五・一七)――「命」という言葉は、千年王国の同義語として福音書(マルコ九・四三、四五、四七)の中で用いられている限定的な言葉である。報いは恵みを脅かすものでは決してない。報いは豊かな恵みであり、ただそれによってのみ報いを受ける権利を得るのである。恵みは無代価の賜物として人を義とする。しかし、慎重に絶えず受け取る豊かな恵みだけが、人を真の命の中でキリストと共に栄光を受けるのにふさわしい者とするのである。恵みがすべての基礎である。アウグスチヌスが麗しい言葉で述べているように、「もしあわれみ深い御父が恵みを賜っておられなければ、義なる裁判官は誰に冠を授けられるだろう?もし受けるべきでないものを前もって与えられていなければ、どうやって受けるべきものを受けられるだろう?」。なぜなら恵みは、私たちの主の功績のみに基づいて救いを与える一方で、再生後の私たちの行いを無視できないからである。また、二千年のあいだ教会を引き裂いてきた痛ましい論争の後、永遠の祝福が過去に覆いをかける前に、私たちの心は本能的に正義を求めてやまないのである。「その世界では完全に和解が成立し、ルターとツビングリは合意を得る」。それゆえパウロは断言する、「しかし、あなたたちはどうして自分の兄弟を裁くのですか?また、どうして自分の兄弟を軽んじるのですか?なぜなら、私たちはみな神の裁きの座の前に立つからです。ですから、これ以上互いに裁き合わないようにしようではありませんか」(ローマ一四・一〇)。しかし、周知の真理をすべて堅く守る一方で、すべての裁きを私たち自身のものではない威光ある恐るべき法廷に委ねよ。