第一の復活

D. M.パントン

聖書は、何度も未信者を十字架に導くように信者を冠へと召すが、ここで再び水晶のような透明さでこの二重の真理を提示する。パウロはこのうえない絶望と共に、一つのささやかな素晴らしい啓示を開示する(ピリピ三・四~十五)。それは何か?自分自身の善を通して神に最も近づいた人が罪人の頭であった、ということである。パウロの比類ない長所を考えてみよ。前にも後にも、このように最高の真珠をいっぱい持って神の御顔の前に上った者はいない。彼は割礼を受けた者であり、幼少時より神のものであるという証印を受けていた。彼はイスラエル民族であり、救いの権利を生まれつき持っていた。彼はまたベニヤミン族に属し、この部族は決して離反したことのない部族だった。彼はヘブル人の中のヘブル人であり、遠い祖先まで遡れる純血のユダヤ人だった。彼は神の律法に熱心なパリサイ人であり、きわめて正統的で教会を迫害したほどだった。律法については非の打ち所がなく、律法の一点一画にも従順だった。人となりや行いによってこれほど勝利の生活に接近した人は決していなかったのである。「もしだれか他の人が」――年齢、種族、地方の異なるだれかが――「肉を頼みとするなら、私はなおさらです」。パウロは永遠に全律法主義者の上にそびえ立つ。しかし、突然の恐ろしい発見により、彼の見通しは打ち砕かれた。「私はかつて(自分の目から見て)律法から離れて生きていましたが、(「むさぼってはならない」という)戒めが来た時(私の良心をぐさりと突いた時)、罪がよみがえり(跳び起きて生き返り)、私は死にました(自分を死人と見なしました)。(神の意図によれば)命に至るはずだった戒めが(実際は)死に至るものであることを私は見いだしました」(ローマ七・九、十)。「もしだれか他の人が肉を頼みとするなら、私はなおさらです」。しかし彼の内なるビジョンは何を啓示したか?――神の御前では死体であることである。パウロの失敗と共に、全世界は望み無き絶望の中に陥るのである。

しかし依然として、最後までわからない問題が残る。これは衝撃的な言葉である。「兄弟たちよ、私はまだ自分はとらえたとは思っていません。(中略)しかし、私は進み続けます」。何をとらえていなかったのか?「なんとかして死者の間からの(優れた)復活へと至るためです」。「パウロはなにか特別な復活、第一の復活を目指していたことは明白である。そしてそれにあずかるために、彼は神経を張り詰めていたのである」(J.マックニール)。何に向かって前進していたのか?「目標に向かって走り、上に召してくださる神のを得るためです」。「なんとかして」――条件付きで危機に満ちている――「死者の間からの」―― 一部の人に限られている――「格別な復活に」――えり抜きの復活に――「至るためです」――まだどうなるかわからないのである。エリコット司教は言った、「文脈が示すように、第一の復活のことである。たんなる倫理的復活をここで引き合いに出すのは不可能である」。パウロが肉体の復活を述べていることは、この章の締めくくりの節から明らかである。「私たちの卑しい体を新しくして、彼の栄光の体と同じにしてくださる救い主を私たちは待ち望んでいます」。死者からの復活に言及している節はすべて(マルコ九・十、ルカ二〇・三五、ローマ一・四、黙示録二〇・四)、肉体の復活のことを言っている。「例外なく全員が確実に復活する、この世の終わりのよみがえりに関して、彼はなんの疑問も持ちえなかった。仮に、彼が労苦して苦難を受けたのはこの一般的復活に至るためであり、彼はこの復活を高度なキリスト者の完全に至らないかぎり到達できない目標として掲げていた、と解釈すると、この節は意味をなさないのではないか?他方、第一の復活はクリスチャンの美徳上の高度の達成に対する特別な報いであると仮定しよう。すると、すべては単純で容易になるのである。比喩的な意味の復活、すなわち再生についてパウロが述べているとは考えられない。なぜなら、彼はすでにダマスコ平原でそれに達していたからである」(モーゼ・スチュアート)。救いが不確かになることはありえないが、賞は勝ち取るまでわからないのである。なぜか?(1)それは賞だからである。もし賞が信仰に基づいて働きなしで与えられるなら、それはもはや賞ではない。「競技で走る人はみな走りますが、賞を受けるのは一人だけであることを知らないのですか?ですから賞を得られるように走りなさい」(一コリント九・二四)。(2)過去の奉仕の栄光は後退することから守られる保証ではないからである。パウロほど自分を放棄し、苦難を受け、奉仕した人はいないが、それでも彼は賞を受ける確信がなかったのである。(3)神から彼の栄光を奪い取る誤った教理は、私たちから私たちの栄光を奪い取るからである。それゆえ、「だれにもあなたたちの賞を奪い取らせてはいけません」(コロサイ二・十八)。(4)肉的な罪によっても失格者となるからである。それゆえ、「私は自分の体を打ち叩いて従わせます。それは私が他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が(冠を受けるのに)不適格となることが決してないためです」(一コリント九・二四~二七)。使徒の頭だった人が賞を受ける確信を持っていなかったことは、賞を受ける保証はどこにもないことを永遠に神の教会に告げる。「私はすでに獲得したとか、すでに完全にされたというのではありません。しかし、捕らえることができるよう、私は進み続けます」。すなわち、獲得することは完全さと不可分につながっているのである。

第一の復活についてディーン・アルフォードは言う、「使徒たちの次の時代に生きた人々、そして全教会は三百年間にわたり、『第一の復活』を単純な文字どおりの意味で理解していた。近年、いにしえの時代を敬うことにかけてはだれよりも率先している注解者たちが、太古の時代が示す最も強力な事実を喜々として投げ捨てるのを見かけるが、これは奇妙な光景である」。再び死んだラザロのような事例から、復活の行為は復活の状態とは異なることは確かである。それゆえ、私たちの主は第一の復活を来るべき時代と同一視しておられる――「かの時代、そして死者の間からのその復活に到達するのにふさわしいと見なされた者たち」(ルカ二〇・三五)。ベーマの前に現れるという復活の行為は、このように第一の復活あるいは千年期にあずかることとは別なのである。大昔の殉教者たちが命を拒んだのは、一時的ではない復活――復活の行為ではなく復活の状態――にあずかるためであった。「女たちは復活によって死んだ者を返してもらいました」――これは一時的な復活である。「他の者たちは解放されることを受け入れないで拷問を受けました。それはさらにまさった復活を受けるためでした」(ヘブル十一・三五、マタイ十・三九)。パウロは自分の死を想定していたわけではない。なぜなら、最後の時になってはじめて、神は彼の殉教を彼に啓示されたからである(二テモテ四・六)。復活の状態に到達して不朽のものしか入れないかの王国に入ることが、生きるにしても死ぬにしても彼の強い願望だった(一コリント十五・五〇)。それゆえ、王国のために命じられたバプテスマは(ヨハネ三・五)、そこからキリストと共同の植物が彼の第一の復活の中で芽生える苗床を描写している(ローマ六・五)。モーセの中へとバプテスマされなかった者はだれもカナンに入れなかったが、そのようにバプテスマされた者たちの多くはバプテスマの後に失敗した。テルトゥリアヌスは証ししているが(シース博士が「終わりの時」誌の二四二頁で私たちに思い起こさせているように)、使徒時代直後の彼の時代、第一の復活にあずかれるよう祈ることがクリスチャンたちの習わしだったのである。
パウロが最後の時に賞を勝ち取ったことを啓示によって知ったように、確固たる従順と神との近しい歩みは「望みの確信」を与えることができる(二テモテ四・八)。「それゆえ、イエスの血によって大胆に至聖所に入れるのですから、信仰の完全な確信を持って近づこうではありませんか」(ヘブル十・十九)。私たちの永遠の命は、贖いの覆う血に基づいており、神のように確かである。しかし、広大な景色が彼方に広がっている。「最後まで同じ勤勉さを示して、望みの全き確信へと至りなさい。それはあなたたちが怠けることなく、信仰と忍耐を通して約束を相続する人たちに倣う者となるためです」(ヘブル六・十一)。私は救われることを望むのではなく、信じるべきである。反対に、私は賞を得たと信じるのではなく、賞を得られるよう望むべきである。なぜなら、「最後」の時初めて、自分がどのように走ったのかがわかるからである。しかし、戦いに勝てば勝つほど、先に進めば進むほど、私たちはますます成熟して望みの全き確信に至ることができる。「私たちは十分勝利することができます」(民数記十三・三〇)。

したがって、ついにすべては最大の努力という結果になる。「この一事に私は励んでいます」。これはパウロだけのことだろうか?「したがって私たち」――なぜなら彼は霊感を受けた私たちの模範だからである――「完成された者たちは、このように心がけようではありませんか」。「第一に神の王国を求めなさい」(マタイ六・三三)が、すでに奥義的王国においても、私たちの主の弟子たちに対する言葉である。どのように求めるのか?(1)「後ろにあるものを忘れる」ことによってである。賞の計り知れない価値は、それを得るのに必要な大きな代価から算出できる。「天の王国の入場料は無料である。しかし、その予約申込には――持ち物すべてが必要である」。この世を十字架につけることがその代価なのである。「この世とその栄誉というぼろ切れに対して十字架につけられている人、絞首台上の盗人以下の価値しかこの世に置かない人は幸いである」。この世を拒否することほど、来世をより現実的で幸いなものにすることはないのである。(2)「前にあるものに向かって身をのばす」ことによってである。イーディー教授が言うように、これは奮闘して苦しみつつ希望を抱く走者である。すべての筋肉は張り詰め、すべての静脈は始動する。胸はゼイゼイとあえぎ、額には大きな汗粒が浮かぶ。体は前のめりにかがみ、ゴール到着寸前の走者のようである。「それゆえ、だれも(どの弟子も)不従順の同じ例にならって落伍することがないよう、この安息の中に入るために励もうではありませんか」(ヘブル九・十一)。(3)「この一事に励む」ことによってである。彼の宣教の情熱、魂への渇望、諸教会のための労苦といえども、彼の魂のこの圧倒的情熱にはかなわない。なぜなら、賞のための競技用走路を神はこれらの聖なる奉仕を通して定めておられるからである。今日の労苦は明日の栄光の大きさである。「第一の復活は、救いを受けた後になされた従順に対する報いである。パウロは、神がご自分の目的にしたがって定められた水準を知らなかったのである」(G.H.ペンバー)。「天の王国は激しく襲われている。そして、激しく襲う者たち力ずくでそれを奪い取っている」(マタイ十一・十二)。(4)それは「上への」召しであり、それゆえ召しているのは神である。「あなたたちをご自身の王国と栄光の中へと召しておられる神にふさわしく歩きなさい」(一テサロニケ二・十二)。神は私たちを地上のすべての栄光から御座へと召しておられる。「それはあなたたちが神の王国にふさわしいと見なされるようになるためです。そのためにあなたたちも苦しみを受けているのです」(二テサロニケ一・五)。十字架は永遠に私たちのものである。私たちが良しと認められた時、私たちは冠を受ける(ヤコブ一・十二)。私たちが神の計り知れない諸々の報いを切望すればするほど、私たちはますます神を敬うことになる。使徒は拒むだけでなく、忘れるのである。進むだけでなく、押し迫るのである。見つめるだけでなく、身をのばすのである。それを行うだけでなく、それだけを行うのである。「ですから、私たち完成された者はこのように心がけようではありませんか」。「ああ、この思想、この千年間の至福の希望が私を突き動かし、神を畏れて聖潔を全うさせますように。それは、この幸いな状態に取って代わる恐ろしい裁きから逃れるのにふさわしいと見なされるためであり、第一の復活にあずかることができるためです!」(マデレーのフレッチャー)。なぜなら、「第一の復活にあずかるのは祝福された聖なる者である。彼らは生きて、キリストと共に千年間統治した」(黙示録二〇・四、六)。

パウロは遺言と遺言補足書を区別しているが、これは賜物と賞の違いを際だたせる。「神の相続人なのです」――これには再生以外になんの条件もない。「しかし、もし私たちが苦しみを受けるなら、キリストと共同の相続人です」――「彼が苦しんだように私たちが苦しみを受ける場合」(オルシャウセン)、「私たちも彼と共に栄光を受けるために彼と共に苦しみを受けるなら」(アルフォード、ローマ八・十七)。どちらの相続権にも永遠の命が含まれる。しかし、遺言補足書は彼の千年間の統治におけるメシアとの共同相続権を遺贈するものであり、私たちの主がそれを受けるのと同じ条件でそれを遺贈するのであって(ピリピ二・九、ヘブル一・九、イザヤ五三・十二)、遺言書に千年間先行する。それは「嗣業の報い」(コロサイ三・二四)であり、永遠の王国に「あふれるばかりに供給されて入る」よう資格づける遺産である。どちらの相続権も遺言に含まれており、全員に提供されている。遺言と遺言補足書のどちらも、遺言者の死に基づいて発効する。しかし、条件を満たさないかぎり、遺言補足書は効力をあらわさない。「彼と共に苦しむことは、私たちの合一による苦痛を暗示しているにちがいない」(モール)。「もし私たちが苦しむなら、私たちも彼と共に治めるようになります」(二テモテ二・十二)。遺言書は無代価の恵みによる無条件の遺産だが、遺言補足書は経験的にキリストと一体化されるという条件に基づく栄光なのである。
時論の十三番目の「第一の復活」も見よ。