私たちは今、千年王国への入国に関して、私たちの結論をまとめるところにいる。王国は――そこでの階級も――クリスチャンが目指して走るべき賞であり、神だけが知っておられる聖潔の水準に達しなければ失ってしまうものなのか?その答えは然りである。
一.なぜなら、私たちの主は福音書の中でそう述べておられるからである――聖霊もほとんどすべての書簡でこれを繰り返しておられる――これは七つの教会に対する約束と警告の基礎である――そしてこれは黙示録の預言の中で実際の経験としてあらかじめ告げられているのである。
(1)マタイ七・二一、ルカ二〇・三五、他 (2)エペソ五・五~六、ガラテヤ五・十九~二一 (3)黙示録二章と三章 (4)黙示録十一・十八、二〇・六
二.なぜなら、旧約の予表が――ほとんどは未採掘だが――これを見事に裏付けており、そうして新約の字義どおりの節に関する私たちの理解を確証し、すべてを素晴らしい啓示のモザイクへと織り込んでいるからである。 一コリント九・二四~十・十二、出エジプト十二・十五、ルカ十七・三二、ヘブル四・十一
三.なぜなら、来るべき時代は――恵みのみに基づく永遠の状態とは異なり(黙示録二〇・十五)――「千年間から成る最後の一日、全く完全な裁きの時代」として啓示されているからである。今の時代に蒔かれた種はすべて、その時代に収穫として刈り取られ、信じた後に行った働きの不利な結果はその時代に限定されるのである。 ローマ二・五~十一、一ペテロ四・十七、一ヨハネ四・十七、ガラテヤ六・七~九
四.なぜならそれは、キリストにあるすべての信者が立つ完全な永遠の立場を確立することにより、私たちの主の転嫁された義と神聖な犠牲という無限の功績を保護する一方で、すべての信者に来るべき栄光を失うかもしれないという痛みの下で自分の歩みに責任を持たせることにより、人の責任と神聖な正義をも保護するからである。1 (1)ヘブル十・十四、ローマ八・三三 (2)ピリピ二・十二、黙示録三・十一
1 私たちの主は永遠にわたって彼の教会を比類ない恵みの水準と究極的栄光に上げられたが、これは教会に責任を免れさせるものではなく、かえって教会の責任を深めるものなのである。「主人の意図を知りながら用意せず、彼の意図を行わなかったかの僕は、多く鞭打たれるであろう。しかし、知らずに鞭打ちに値することを行った者は、少なく鞭打たれるであろう。多く与えられた者からは多く要求され、多く任された者からは多く求められるであろう」(ルカ十二・四七)。「裁きを意味する刑罰はあるはずがなく、誤導された人を道徳的に更正するための愛情に満ちた懲らしめがあるだけである、と福音的立場から信じる人々は、このような宣言の恐るべき重大性を正しく評価することがほとんどできないのである」(ランゲ)。
五.なぜなら――ご自分の民に対する神の取り扱いは常に神の性格に基づいていなければならず、神の性格はあわれみだけでなく義でもあるので――信者の生活がたとえ聖くなくても1栄光が陰るだけでそれ以上の深刻な影響をその人の将来に及ぼさない、ということは考えられないからである。
1 ひどい罪や相当問題のある奉仕だけが追放という結果になるわけではない。私がどんな人であるのかが、私が何を行うのかと同じように、この問題に関わっている。これを学ぶことはきわめて重要である。激しい気性(マタイ五・三)、傲慢な精神(マタイ五・五)、赦さない気質(マタイ六・十四)、金銭を誇る心(マルコ十・二四)、かたくなな性格(マタイ二〇・二二)は、主と共に統治するのにふさわしくないだけでなく、これまで教会を混沌に陥れてきたし、王国をも速やかに混沌に陥れるであろう。「あなたたちが」――使徒たちが――「悔い改めて、小さな子供たちのようにならないかぎり」――信頼に満ちた、純粋で、へりくだった、愛する者とならないかぎり――「あなたたちは決して天の王国に入ることはない」(マタイ十八・三)。「なぜなら、天の王国はそのような人たちのものだからである」(マタイ十九・十四)。さらに、真理を拒絶するなら、その結果は厳しいのである。「小さな子供のように神の王国を受け入れない者はだれでも、決してそこに入ることはない」(マルコ十・十五)。
六.なぜなら、信者の働きに対して裁きがあること、そしてそれはあわれみの座ではなく裁きの座の法廷の前においてであることを認めるなら、それによって私たちはさらに、その取調べは厳格な裁きの性格を帯びているにちがいないこと、そしてそれゆえ叱責にせよ賞賛にせよ厳密に査定されるであろうことを、認めないわけにはいかないからである。1 二コリント五・十、ローマ十四・十~十二、コロサイ三・二四~二五、二テモテ二・五
1 現在の懲らしめについては――ミリアムが神ご自身の御手によって打たれてらい病になったように(民数記十二・十)、あるいは罪のために苦しみを受けて切り離された教会員のように(一コリント十一・三〇)、肉体的な懲らしめさえも――みなが認めている。しかし大部分の人は、懲らしめはすべて今生のみに限られる、と思い込んでいる。それによって、裁きの御座は全く司法的機能をそがれ、完全に非現実的なものとされているのである。聖書は反対に、現在ふりかかる裁き(一テモテ五・二四)は例外的であることを強く主張している。すべての子らに対する現在の懲らしめ(ヘブル十二・八)は別として、最高に裁きの性格を帯びているのは来るべき時代である。死は性格の上に魔法的な働きをしない。裁きの御座を否定する基本的論理がいかに深刻であるかは強調するまでもない。「懲らしめが今生で終わらなければならない理由は見つけるのがとても困難であり、確立するのもとても困難であろう。したがって、危険をかえりみずにこの教理を放棄する人は、以下のことを主張する立場以外は安全なものに思えないであろう。すなわち、(1)神の選民に与えられた道徳的指針としての教えは何もなく、その結果、(2)神の民は決して罪を犯すことがなく、懲らしめを受けることもない、という立場である。この不信仰の恐るべき立場について、私はここでは非難するまい」(ガボット)。もし後退した人、最悪の後退者でさえも、死ぬ時、死ぬ行為によって、直ちに奇跡的に清められて完成されるなら、生涯に及ぶ苦しみを通して長期間の聖化の過程を経る必要はないことになるし、苦悩を通して聖潔に到達した無数の受難者に対する正義もないことになる。
七.なぜならそれは、神の民の罪を神になすりつけて非難することから神の聖と義を守り、そして、主の転嫁された義と常にやむことなく協力する弟子の積極的な義に対してのみ神の最高の栄光が与えられるようにするからである――従順が愛の唯一の証拠なのである。 一コリント三・十七、一テサロニケ四・六、マタイ五・二〇、黙示録二〇・六
八.なぜなら、それはパウロとヤコブを最もよく両立させるからである――つまり、永遠の命に至る信仰を通しての義と、千年期の報いに至る働きを通しての義を最もよく両立させるのである。なぜなら、永遠の王国に入ることは賜物だが、豊かな入国は先んじて入ることにほかならず、それは働きの七重の基礎の上に築かれているからである(二ペテロ一・五~十一)。
(1)働きの前――ローマ四・十、創世記十五・六 (2)働きの後――ヤコブ二・二一、創世記二二・十六
九.なぜなら、それはおそらく、カルバン主義者とアルミニウス主義者の間の長年にわたる論争に対する一つの解決に迫るからである。なぜならそれは、救いの輝かしい確実性に関するすべての節を確立する一方で、最も厳粛な警告に対する広大な展望をも残すからである。それは聖書の両方の御言葉の組をありのまま受け入れるのである。1 ヨハネ十・二七~二八、ローマ六・二三、ローマ十一・二九、ヨハネ十五・六、ヘブル十・二六、マタイ五・二二
1 アルミニウス主義のグループ――高教会、ウェスレー主義者、救世軍――は、信者が永遠の滅びに遭う可能性を肯定している。カルバン主義のグループ――低教会、清教徒の反体制派、兄弟団――は、信者が被る損失以上の不利な裁きをいっさい否定している。ここで主張している聖書理解では、信者は永遠の滅びより軽い損失を被るおそれがあること、しかしそれは千年期の時代に限られることを支持する。これは少なくとも、二つの両極端の間の中庸の立場である。あまりにも長きにわたって、諸教会の指導者たちは邪悪で怠惰な僕に対する神の恐ろしい御言葉を握りつぶしてきた。それゆえ、神の御言葉全体に忠実な人は今や自分たちの見方を再調整することを余儀なくされており、それが遅々とした痛みを伴う嫌々ながらのものであることの究極的責任は彼らにあるにちがいない。しかし、聖潔と謙遜を深め、私たちを主のかたちにさらに似た者に造り変える教えはすべて、地獄から来たものであるはずがない。何度も何度も、私はこの教えが人生を変えるのを見てきた。また、私自身の人生にこの三十年の間に臨んだ恵みや祝福の大部分は、激しく攻撃されているこれらの厳格な真理のおかげなのである。
十.なぜならそれは、教会生活にまつわる数々の事実だけでなく聖書の単純な御言葉に対しても自然で無理のない解釈を与え、現在の時代の特徴と義なる報いの両方に関して両者がいかに互いに一致しているのかを啓示するからである。選択的携え上げ、一部の人だけの復活、冠の喪失、賞を失うこと、働きが焼かれること、限定された共同相続権、刑罰――証拠は山のようにあり、その蓄積は圧倒的である。 二コリント十二・二〇、ヤコブ二・五、マタイ十八・十八、ローマ八・十二、十三
十一.なぜなら、肉的な生活の劇的な結果を見ることにより、神の教会の大部分は清められるし、ただそれによってのみ清められうるからである。そして、これらの結果を率直に恐れず告げることに欠けているせいで、弟子の大群は今や深い眠りに包まれているからである。1 一コリント五・五、十一、六・九、マタイ二四・四八~五一、ルカ十二・四七、四八、黙示録三・十六、二一
1 聖霊が私たちの目の前で働いて示しておられる裁きの御座の懲罰的効果(マタイ二五・三〇)を弟子が否定するとは、驚くべきことである。宣教士たちは中国のリバイバルについて記している(一九一〇年)――「あらゆる階級のクリスチャンたち――牧者、長老、助祭、伝道者、聖書を読む女たち、教会員――が数々の罪について告白した。それらの罪はパウロの手紙に記されているあらゆる形の罪――偶像崇拝、姦淫、賭け事、盗み、詐欺、憎しみ――を含み、十戒のすべてを網羅し、とりわけ多かったのが七番目の戒めに対する違反であった。彼らが告白した理由の一つは、今地上で告白しないなら、将来天で告白せざるをえなくなるかもしれないことだった。私は彼らが自分の手で自分の頭を打つのを見た。また、彼らが自分の頭を地面に打ち付けるのを見た。私は彼らが大いなる肉体的苦痛の中で自分の頭を前にある長椅子に打ち付けるのを見た。私たちは大いなる裁きの御座の一部を目撃している、と時折思われたのであった」。聖霊は恵みの時代でさえこのように働くことができるのである。「私は有益な刑罰という考えに身震いする。それにもかかわらず、聖書は何と言っているか?」(R.ガボット)。「もしあなたたちが心から自分の兄弟の一人を赦さないなら、わたしの天の父もあなたたちに対して同じようにされるであろう」(マタイ十八・三五)。
十二.なぜなら、それはキリストの裁きの御座の恐るべきビジョンですべての動機を清め、愛に次ぐ動機として弟子がこの世から分離する動力となり、神の王国に対する情熱で弟子を満たすからである。そして、それは神のすべての子供のために、神がメシヤの王座を分配される貴重な機会だからである。 一ペテロ一・十七、黙示録二・二一~二三、ピリピ三・十一~十四、黙示録二・二六、二七