大逃亡

D. M.パントン

この原則の最後の適用、最も差し迫った緊急のものがまだ残っている――それは、最後の裁きが迫っているのに目を覚ましていない危険性である。「これらの起ころうとしているすべてのこと」(ルカ二一・三六)。どんなことか?押し寄せる災害、天からの恐るべきこと(十一節)、太陽、月、星に現れるしるし(二五節)、天の力が震われること(二六節)である。なぜなら、これらは刑罰の日(二二節)、迫害の日(十七節)、諸国民の悩みの日、人々が恐怖で気絶する日(二五節)だからである。「その時には、世の初めから今に至るまで、かつてなく今後もないような大きな艱難が起こるからである」(マタイ二四・二一)。逃れることをこれほど重大なものとする、これ以上恐るべき危険はないのである

逃れることは可能である。「これらすべてのことから逃れるために」。さて、苦難は宇宙的なものなので、天に逃れることしかありえない。「なぜなら、それは地の面に住むすべての人に臨むからである」。人の住む全世界には、安全な場所はどこにも存在しないであろう。逃れるのは、「力と大いなる栄光を帯びて雲に包まれてやって来る人の子」へと逃れることである。「彼は天をたれて下られ(中略)高いところから御手を伸べて、私を捕らえました」(詩篇十八・九)。それゆえ、これはユダヤ人の残りの者を解放することではありえない。なぜなら、(1)ユダヤ人が逃れる先は荒野であってではないからである(黙示録十二・六)。地的逃亡は洪水を通ったノアによって予表されており、天的逃亡は洪水から完全に逃れたエノクによって予表されている。これは「人の子の前」への逃亡である。(2)ユダヤ人の逃亡は能動的だが、この逃亡は受動的である。忠信なユダヤ人は「山に逃れる」べきだが(マタイ二四・十六)、忠信な弟子はここでは取り除かれること、「(御使いによって、アルフォード)人の子の前に置かれること」を祈るべきである。(3)ユダヤ人の逃亡は純粋に物理的理由に基づく――直ちに顔を山に向ければ、その人の道徳的状態がどうであれ、逃れることができる。しかし、この逃亡は道徳的に受け入れられるかどうかに決定的にかかっている――「逃れるのにふさわしい者と見なされるために」。

他の聖書の御言葉が決定的に示しているように、この逃亡はクリスチャンの逃亡である。(1)クリスチャンの教会の責任者に私たちの主は約束された――「あなたはわたしの忍耐の言葉を守ったので、わたしもあなたを試みの時から、全世界に臨もうとしている時からあなたを守る」(黙示録三・十)。(2)クリスチャンの教会の責任者に私たちの主は警告も与えられた――「もしあなたが目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。そしてあなたは、いつわたしがあなたに来るのか(あなたを見るのか、ギリシャ語)わからないであろう」(黙示録三・三)。それゆえ、テサロニケ人への第一の手紙五章四節に基づいて、パルーシアは盗人のように信者に臨むことはない、と言うなら、私たちの主のこの御言葉はその推測を直ちに否定するのである。なぜなら、いつ来るのか全くわからず、盗人のように下ってくるというこの警告は、クリスチャンの牧者に宛てられているからである。(3)型が見事にこれを確証する。畑は世界、麦は教会、刈り取る者たちは御使いである(マタイ十三・三九)――刈り取る者たちは第一に初穂を集め、次に収穫を納屋に収め、最後に、わざと刈り取らずにいた畑の隅々から落ち穂を拾い集める(レビ記二三・十~二二)。それゆえ、初穂は収穫の前に天に見いだされるのである(黙示録十四・四)。そして収穫のにも(黙示録十六・十五)、目を覚ましているようにとの警告がなおも発せられる(黙示録十四・十五)。「救い主が戻られるのを熱心に待ち望んでいる人たちだけが、最初に取り去られるであろう」(シース)。

この事実が決定的に証明しているように、テサロニケの弟子たちは(一テサロニケ四・十五)教会全体ではなく、目を覚ましている人だけを表している。これは逃れる約束がヒラデルヒヤの御使いに宛てられており、「わたしの忍耐の言葉を守った」ヒラデルヒヤのすべての人には間接的に宛てられているだけなのと同じである。テサロニケの弟子たちには、パルーシアが盗人のように突然臨むことはないであろう。それゆえテサロニケ人が表しているのは、準備不足ではないので決して驚かない人々なのである(一テサロニケ五・四)。

逃れられるかどうかの道徳的岐路は状態にかかっている。「どんな時にも目を覚まして、逃れることができるよう懇願しなさい」(ルカ二一・三六)。これらの神聖な御言葉は、もしそれになんらかの意味があるとするなら、ふさわしくなければ逃れられず、夜通し祈るのでなければふさわしい者になれないことを意味するにちがいない。「絶えず目を覚まして祈りなさい」。「これほどよく繰り返される命令、これほど厳粛な印象を受ける命令は他にない」(ディーン・アルフォード)。なぜなら、逃れることは信仰に付随する特権ではなく、神だけしか知らない聖潔の水準に付随する報いだからである。「その時、二人の男が畑にいると、一人は取られ、一人は残される。二人の女が臼を引いていると、一人は取られ、一人は残される。だから目を覚ましていなさい。あなたたちの主がいつ来るのか、あなたたちは知らないからである」(マタイ二四・四〇)。「私たちの主がここで前提としておられるのは、彼が御口の息で『あの邪悪な者』を滅ぼすまで、彼の愛する教会は地上における彼の羊として顧みを受け続けるであろうということである」(トレゲレス)。

「Watch」という言葉は、聖書の偉大な包括的言葉の一つである。気をつけること(watch oneself)、世界的危機の進展を見守ること(watch)、王を待つこと(watch for)、キリストの最高の権益を見守ること(watch for)、過ぎ去って行く機会を見張ること(watch for)、死に行く人々に注意を払うこと(watch for)、サタンを見張ること(watch)、神を見つめること(watch)である。目を覚ましていること(watchfulness)は、神のために全能力を行使して厳戒態勢を取ることである。しかし、それは特別な祈りを伴わなければならない――「ふさわしい者と見なされるために祈りなさい」「逃れることができるよう祈りなさい」。目を覚ましていることは私たちのすべての力を神のために呼び覚ますことであり――祈りは神のすべての力を私たちのために呼び覚ますことである。しかし、それ以上である――目を覚ましていることは私たちの働きを神にささげることであり――祈りは私たち自身をささげることである。ハドソン・テーラーほど十九世紀にキリストのために大きな働きをした者はなく、(私が思うに)彼ほど神に近い歩みをした者はほとんどいないが、その彼が肉的な信者について述べている、「彼らはルカによる福音書二一章三四~三六節にある私たちの主の警告を忘れており、それゆえ逃れるのにふさわしい者と見なされることはない。彼らは『すべてのことを損失であると見なした』ことがなく、それゆえ、パウロが失うかもしれないと感じたかの復活に到達することもない。クリスチャン全員がかの復活に到達するわけではなく、そして空中で主と会うわけでもない、という私たちの真剣な確信をここに記したい」。思い込むより奮闘する方がどれほど安全であろう!

それゆえ、緊急の叫びが神の全教会に鳴り響かなければならない。なぜか?(1)「もし私の信仰が間違っているなら、私はそれを変えなければならない。もし私の信仰が正しいなら、私はそれを広めなければならない」(ホエトレー博士)からである。警告を差し控えることは、教会を危険から救うまさにその真理を教会から奪うことである。(2)私たちの天然の緩慢さを覆す、これ以上強力な手段は思いつかないからである。幾万の勧めより幾つかの事実の方が心を打つのである。信者に対する来るべき裁きは、特に信者の中の肉に向けられているので、それゆえ好評を博することはありえない。この真理を攻撃する苦々しさこそ、この真理の正しさを示す非常に鋭い説得力ある証拠なのである。カレブとヨシュアは自分たちの命を危険にさらして、近づきつつある王国について、そしてそれに入るには信仰だけでなく従順が必要であることを証しした(民数記十四・十)。主が予め告げておられるように、報いにふさわしくない僕は耐えられずに迫害を始める僕でもある(マタイ二四・四九)。責任を軽んじる者たちが、彼ら自身それに達し損なったとしても、少しも不思議ではない。(3)危険は差し迫っているが、まだ降りかかってきているわけではないからである。「なまぬるいラオデキヤ人は手遅れになる前に目を覚ますことができる。キリストは戸口に立っておられる」(G.H.ペンバー)。条件を満たすなら、王国を得る確かな見込みがあるのである。「危険な時代が私たちに臨んでいる。起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つのにふさわしい者と見なしてもらえるよう、絶えず目を覚まして祈れますように!」(ジョン・ウィルキンソン)。「わたしがあなたたちに言うことは皆に言うのである。目を覚ましていなさい」(マルコ十三・三七)。

さらに完全な説明については、「現在の時代」小冊子の第十号「携挙」を見よ(6d、ザイン)