永遠の裁き

D. M.パントン

義の日は最後の裁きで閉じる。王国は過ぎ去り(一コリント一五・二四)、古い天と地は逃げ去った。神の全宇宙には、一つの偉大な輝く白い御座以外何も残っていない。その御座の前に死者が、小さな者も大きな者も立つ。「そして諸々の書が開かれた。そしてもう一つの書、命の書が開かれた。そして死者は裁かれた」(黙示録二〇・一二)。諸々の働きが記された複数の書と、諸々の名が記された一冊の書。諸々の働きが記された複数の書は咎に丁度見合う罰を割り当てるためであり、諸々の名が記された一冊の書は、救われた人は命の書の中に名前しかないためである。働きは、信仰を持つ前であれ後であれ、消え去る。主権的な選びの恵みによってそこにあるのは小羊の書と、世の基が置かれる前からそこに記されていた、カルバリの血によって洗われた名である。したがって、私たちが永遠にその上に立つ功績は、ただキリストの功績だけである。それゆえ、族長の時代、律法の時代、クリスチャンの時代のすべての信者が、永遠の王国で統治する。「命の書に名が記されていない者は誰でも、火の池に投げ込まれた」。カルバリはこの世に対する神の愛の大きさであり、地獄はキリストに対する神の愛の大きさである。なぜなら、神は御子をカルバリに渡すほどこの世を愛されたからであり、御子を拒絶する者は誰でも地獄に渡されなければならないほど御子を愛しておられるからである。今や、矯正的な懲らしめはやむ。もはや刑罰が清めることはなく、永遠の刑罰となる。しかし、救われる者は驚くべき救いで救われる。「もはや呪いはなく」(黙示録二二・三)――永遠に罪はない。「その中に御座があり」――永遠の交わり。「彼の僕たちは彼に仕え」――永遠の奉仕。「彼らは彼の御顔を見」――永遠の喜び。「彼の御名が彼らの額にある」――永遠の安全。「もはや夜はない」――永遠の力。「主なる神が彼らに光を与え」――永遠の知識。「そして彼らは」――すべてのよみがえらされた、あらゆる時代の人々は――「永遠にわたって支配する」――永遠の栄光。

それにもかかわらず、主イエスが現れる時に勝利者たちに贈られる報い、あるいは冠は、決して古びることも、消え去ることもない。なぜなら王国が終わるのは、もはや制圧するべき敵はなく、介入や手当を必要とする無秩序はもはやない、という意味においてだからである(W.リンカーン)。