「勝利者」誌 一九一一年 第三巻 七月号 掲載
最近、ある未信者がこう書き記しました、「批判のせいで多くの人の心に真摯な疑いが生じている今日、大能の神は地上に御使いを遣わして何を真に信じるべきか教えることはできなかったのでしょうか?もし神がそうされていれば、それは永遠に証拠となっていたでしょう」。
御使いたちは神の小羊に対して空前絶後の驚異的な証しをしました。手には無限の正義の秤を持ち、その声は宇宙の果てまで届く、ひとりの強い御使いが、しみのない聖さと無限の価値を持つひとりの御方のために全被造物に向かって尋ねます。「ふさわしい者は誰か?」。神の手のひらの上、神たる方の秘められた炎の中に、小さな書物が横たわっています。誰がこの書物を見れるほど聖であり、それを手にするのにふさわしく、それを開く力を持っているのでしょう?そこに集った天の群衆の上に静寂が臨みます。その静寂を破ったのは、ヨハネのすすり泣きでした。「私は激しく泣いていた。ふさわしい者がだれも見つからなかったからである」(黙示録五・四)。身代わりになる功徳を持つ者はだれもなく、すばらしい聖さを持つ者はだれもなく、神々しい忠誠心を持つ者はだれもいませんでした。堕落した世界を解放するほどの聖さは、被造物の内にありません。
ひとりの御方にすべての視線が集中します。長老たちの中央、さらに近く、御座の中央に一人の人が立っています。「彼が来て、御座に座しておられる方の右手からその書物を受け取られた」。この方の目の前では、すべての者は透明なガラスのようです。そして、その御顔は決して曇ることがなく、その心は不信仰で脈打つことはありません。唯一しみのない、輝かしい、無限の価値を持つ人。それはイエスです!……この御方が御座の中央におられました。
この静けさは突然、ハレルヤの洪水で破られます。小羊はすべての心を引き寄せ、すべての目を照らし、すべての御使いを治めます。彼は全被造物を祝福されます。彼は天のすべての歌の主題です。天には小羊の前にひれ伏さずにいられるほどの力を持つ権力者はいません。人々が自分を高く上げて彼を礼拝しないのは、ただ地上だけです。
ヨハネは「ライオン」という声を聞きましたが、彼が振り返ると「小羊」が見えました――ライオンの力を持つ小羊、小羊の心を持つライオンです。しかし、なぜ小羊が御座に座しているのでしょう?なぜ全被造物の顔が小羊の方を向いたのでしょう?小羊には傷があり、その傷が栄光のさなかで輝きわたったからです――小羊は「ほふられたばかりのような小羊」だったのです。
ふさわしい者としての冠を天がキリストに与えたのは、カルバリのためです。輝かしい性質、比類ない栄光はみな、傷に集中します。小羊のいるべき場所は祭壇の上ですが、完全に成就された完全な贖いのゆえに、小羊は今や御座についておられます。傷は残ったままです。いわば、死んだばかりなのです。というのは、贖いがその新鮮さを失うことはありえないからです。神は決して贖いを忘れません。御使いは決して贖いを忘れません。贖われた者は決して贖いを忘れません。永遠の傷は永遠の赦しの保証です。受肉した神が人の罪のためにほふられたことを知る人は、真理の核心に立ち、天の決定的秘訣を知ります。
神のすべての御使いのこの証しは、今や、天の神学の何たるかを啓示します。「あなたはふさわしい御方です(中略)あなたはほふられたからです」。キリストがその上でほふられた十字架を、天は恥じません。なんという犠牲、なんという歌でしょう。
キリストは世の基が据えられた時から予め(prospectively)ほふられていました。彼は律法の下における数千のいけにえにより、型として(typically)ほふられました。彼は予め定められていた神の計画により法理的に(judicially)ほふられ、ユダヤ人と異邦人により実際に(actually)ほふられました。彼は彼の血を踏みにじるすべての者により、遡及的に(retrospectively)ほふられます。「あなたはあなたの血により、あらゆる部族、言語、民族、国々の中から、人々を神のために買い取られました」。この血だけが神のために罪人を買い取ることができます。御父が人の魂という嗣業の中に入るのは、ただ御子の血によります。ですから、御使いはみな小羊に何を与えるのでしょう?「権力と、富と、知恵と、力と、栄誉と、栄光と、祝福」です。なんという歌でしょう!すべての冠がこの額の上で会します。すべての権力が刺し通された両手の中にあります。すべての愛が貫かれた脇から流れます。神たる方のすべてがその御顔から輝きます。これが神のすべての御使いの神学です。