逃れるのにふさわしいと認められること――ルカ二一・三六

D. M. パントン

「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 十・十一月号 掲載。

携挙はみな原則上一つであり、究極的にはすべての信者を含む(二コリント五・十)。それゆえ、聖書は携挙を複数形で述べていない。にもかかわらず、携挙の複数性は証明可能な事実である。なぜなら、携挙がすでに複数回起きているからである(私たちの主の携挙や、おそらくマタイ二七・五二の聖徒たちのように)。また、教会とは別に、再度起きるだろう(たとえば、反キリストの下での殉教者。彼らはキリストと共に高き所にいる。黙示録十五・二)。なぜなら携挙は、原則上・包括的には一つだが、別々に段階的になされるからである。

(大艱難の前であれ後であれ)「教会の携挙」という句は聖書に一度も出てこない……教会の特権を最も徹底的に述べている手紙(エペソ書とコロサイ書)は携挙について沈黙している。これから、次のような合理的推論が導かれる。すなわち、携挙は信仰のみに基づいて与えられる特権ではないのである。また、携挙は恵みの経綸には起こりえないのである。なぜなら、携挙は神の大使たちを戦いのために召還することだからである――裁きの御座が据えられた後に*、「ここに上って来なさい!」(黙示録四・一)という叫びが発せられる――それは地上における教会の立場の消失を意味する。

* シース博士は、黙示録四・二の「据える」というギリシャ語は「据えられつつある」を意味する、と述べています。つまり、遂行されようとしている裁きのための携挙の時またはその頃、御座が据えられつつあったのです。(編集者)

すべての信者を含む一度きりの携挙を述べているように見える唯一の節は、次のように描写されている弟子たちに宛てられている。すなわち、善と愛に満ちている者たちとして(一テサロニケ一・三)、また、王国にふさわしいと認められる用意の整っている聖書的受難者として、描写されている弟子たちに宛てられている(二テサロニケ一・五)――つまり、差し迫った携挙のために資格づけられている信者たちに宛てられているのである。そして、これは次のことを明確に意味する。つまり、禁じられているのは、主の日に見舞われることを恐れる早まった恐れだけなのである*

*すぐさま心を動揺させられたりしないように」――早まって恐れたりしないように――「主の日はすでに来ているということで」(二テサロニケ二・二)。その日に見舞われる信者たちがパニックに陥るのももっともである。なぜなら、その艱難中の裁きは刑罰的性格を帯びているからである(ローマ二・五)。とはいえ、神の子供に対しては、矯正的性格を帯びている。パウロは、彼の主と同じように、まさにこの節で、霊的眠りに対して警告している(一テサロニケ五・六)。「各々は自身の群れの中で」は携挙における区分を意味する。「彼の臨在における」つまりパルーシアの間の区分を意味する(一コリント十五・二三)。したがって、一コリント十五・五二が述べているのは普遍的変化のことであって、同時に起きる携挙のことではない。

表向きまた明確に携挙の条件を扱っている節はみな*――したがってこの問題にとって決定的に重要である――は、個人的に目を覚ましていることと、それにふさわしくあることが必要であるとしている。用意できている処女たちだけが中に入る(マタイ二五・十)、用意できている家主だけが強盗に遭わない(マタイ二五・四四)。用意できている弟子だけが取られる(ルカ十七・三四)――「ですから、あなたたちも用意していなさい」。

* ルカ二一・三六。マタイ二四・四二。へブル十一・五。黙示録三・三、十。

こういうわけで、現在二つの見解があり、二つの対立するように見える御言葉の組に基づいている――つまり(1)すべての信者が艱難から逃れるという見解と、(2)全員がそれを通るという見解である――両者とも、解放・非解放を(いずれの場合も)恵みの経綸の一部として神に委ねることによって、個人の責任を排している。それに対して、神は逃れる責任をご自分の民に委ねておられるのである。神の御言葉をすべて一緒にすると、いつものようにここでも、まさに鮮明な両極端の間の均衡がわかる。それで、目を覚ましている教会に対しては(黙示録三・十)条件付きの約束が与えられており、目を覚ましていない教会に対しては(黙示録三・三)条件付きの警告が与えられているのである。

先例もまた、携挙の排他的優先性を支持する。なぜなら、すべての贖われた者がエノクや、エリヤや、キリストに伴ったわけではないからである。預言者たちの間でも、エノクは取られ、ラメクは残された――エリヤは取られ、エリシャは残された。(エリシャにせよ使徒たちにせよ、それは不名誉なことではなかった。なぜなら、当時、神は裁きの洪水を地に臨ませようとしておられなかったからである。)

この点について明確に啓示している予型が全く決定的である。というのは、麦は人の子が蒔かれた種、蒔いておられる種だからである(マタイ十三・三八)そして、倉に納めることは(予型によると)最初の実(キリスト)、次に初穂、次に収穫、最後に「畑の隅々」という順番でなされ、したがって、成熟の度合いにしたがって刈り取られるからである(レビ二三・十、十七、二二)。熟していない穀物は、遅かれ早かれ、艱難の厳しい熱で熟するからである。

私たちの主ご自身が断言しておられるように(マタイ五・十三)、彼の弟子たちは、地の塩として、その性質が変化することはありえないが、その塩気を失うおそれがある。そして、そのような塩はみな投げ捨てられて、人々の足で踏みつけられることになる。それゆえ、彼は逃れるために絶えず祈るよう命じておられるのである(ルカ二一・三六)。

私たちの主は、黙示録の観点と、彼の来臨の観点から、この経綸全体の教会(「現在の事」、黙示録一・十九)を七つの区分に分けておられる。それゆえ、黙示録はパルーシアの期間全体に及ぶ七つの携挙*を啓示している。あるいは少なくとも携挙に七回言及している。その大部分(たとえば黙示録十一・十二、十二・五、十五・二)は、おそらく、特別な復活・昇天である。

* 黙示録四・一、七・九、十一・十二、十二・五、十四・一、十四・十六、十五・二。

こういうわけで、携挙には二つの条件がある――信仰働きである。あるいは、私たちの主が示唆しておられるように(ルカ二一・三六)、絶えず目を覚まして祈ることによって強化される弟子たる身分である。(1)「信仰によって、エノクは死を見ないように移されました。神が彼を移してしまわれたので、彼は見えなくなりました。なぜなら、(2)彼が移される前に、彼は神に喜ばれているという証しを得たからです」(へブル十一・五)。