血による宥め(一)

D. M. パントン

「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 七月号 掲載。

身代わりのいけにえの必要性を、世の人々は太古から直感的に悟っていた。以下は、あらゆる文明の中で最も古いアッカド文明からの楔形文字で記された文章である。「人のための身代わりの小羊。その小羊を、ささげる人は自分の命のためにささげる。小羊の頭を彼は自分の頭のために与え、小羊の背中を自分の背中のために与え、小羊の胸を自分の胸のために与える」云々。

身代わりの思想は、まさに歴史の黎明期から世の人々の心の中に存在した。しかし身代わりは、待望する実際の贖いをこのように模索するうちに、人間になった。たとえば、アテネのターゲリアと呼ばれる祭りでは、一人の男と女がその都から連れ出された。彼らは、無価値な人物であることを示す白と黒のいちじくの葉をまとって、その都の清めのために荒野のとある場所で厳かに焼かれ、その灰は汚れたものとして捨てられたのである。中国でも、ある古代の碑文には、国家的災厄の時に、皇帝が祭壇の前にひざまずいて、自分の民の罪の贖いのために供え物をしている像が描かれている。ガリアでは、ドルイド僧の間で、人の巨大な像が神々へのささげ物として火で焼かれた。その巨大な像は枝編み細工でできており、百名もの犠牲者で満たされていたのである。

中央アフリカ、アルメニア、エチオピヤ、ヒンダスタン、モンゴル、サウスシェトランド諸島、ペルー――人身御供がなかった国は皆無であることを知るのは衝撃的である。

宥めを目的とした身代わり

では、この恐るべき虐殺に関して、人は心の中でどう思っていたのだろう?あるエジプトの碑文が、それに優しく大いに答えてくれる。いけにえにされようとしている一頭の雄牛に、一人の人の姿が描かれた印が押された。この印には、両手を後ろに縛られて、剣の切っ先を喉に突きつけられている人の絵が描かれていた。その雄牛は滅びの運命にある人のために死んだのである……それは宥めを目的とした身代わりだったのである。ギリシャでは、いけにえとして選ばれた無頼漢が国家の咎のための宥めとして海に投げ込まれた。次のような常套句と共に処刑されたのである――「汝、我らのために清めるものとなれ」。つまり、「救い・贖いの手段」である、と古代の歴史家であるスイダスは付け加えている。そのいけにえは明らかに宥めだったのである。

このように、動物のいけにえでは不適切だと感じたので、人になったのである。さらに、ささげる者にとって最も大切な人がいけにえとして選ばれる場合もあった。とても痛ましいのが子供のいけにえだった。彼らは二つの理由で選ばれた――(1)最も無垢な者として、彼らは咎ある者の身代わりになることができた。また、(2)彼らはささげる者にとって最も愛する、最も貴重ないけにえだった。両親らは彼らを抱きしめてキスすることで彼らの叫びを止めた。いけにえは沈黙しなければならなかったからである。いけにえは全く自発的なものでなければならなかったため、子供か親が泣くと、宥めの効力は失われたのである。カルバリの必要性に対するなんと盲目的な予感!メキシコでもささげる者は、宥めによって益を受けるために、いけにえの体に触れなければならなかった。また、エジプト人はどんな動物の頭も味わおうとしなかった。その頭に他人の罪を負っているかもしれなかったからである。ユダヤ人は伝統的に、聖書は全く別として、ささげる者にこう述べるようにさせていた、「ああ、神よ、私は罪を犯しました。悪行をしてしまいました。あなたの御前で違反を犯してしまいました。ご覧ください、今、私は悔い改めます。自分の悪事を本当に申し訳なく思います。このいけにえを私のための宥めとしてください」。ささげる者がいけにえに触れることで両者は一体となり、身代わりは完全なものとなった。それは信仰の手で受け取ることだったのである。

神は人身御供を拒絶された

さて、神はこれらの人身御供をどう思っておられるのだろう?「彼らはトペテの高き所を築いて、自分の息子と娘を火で焼いた。これはわたしが命じたこともなく、わたしの心に浮かんだこともなかった」(エレミヤ七・三一)。エホバがイサクをいけにえとすることを拒絶して、雄羊を身代わりとされたことは、彼は人身御供を全く拒絶されることを一度限り永遠に啓示する。人身御供を神が拒絶される理由は明確である。罪人は他の罪人の宥めには決してなれないのである。「私の違反のために私の長子を、私の魂の罪のために私のの実をささげるべきだろうか?」(ミカ六・七)。「人はだれも自分の兄弟を贖うことも、自分のための贖いの代価を神に払うことも決してできない」というのに。そのため、「永久に放っておかなければならない」(詩篇四九・七)。罪人のために罪人をささげることは、無益ないけにえに殺人を加えることである。

まだ、この問題はこれで終わらない。罪を宥めることができるのは血だけであることをすべての民族、すべての諸国民が感じてきたのは、どういうことか?その理由は明らかに、咎に対する恐れであり、死だけが律法違反を償えることを感じていたことである。親たちが本能を抑えて自分の赤ん坊を灼熱の血生臭い死に渡すほどだったからには、彼ら自身の咎と破滅の意識はさぞや恐るべきものだったにちがいない。人身御供は恐るべき、残忍なものだったが、それにもかかわらず、唯一の必然的な宥めの方法だったのである。それが人の必要という巨大な深淵の中に不浄な反響を引き起こしたのである。それは贖ってくださる救い主を求める世人の叫びだったのである。

そして救い主が来てくださったのである!「なぜなら、雄牛と山羊の血は罪を取り除くことができないからです。こういうわけで、彼は世に入って来て言われます、『あなたはいけにえやささげ物を望まないでを(注:人身御供のために。人の罪の身代わりを実現するには避けられない)わたしのために備えてくださいました。全焼のささげ物と罪のためのいけにえを、あなたは喜ばれませんでした』。その時、わたしは言いました、『見よ、わたし(注:偉大な全焼のささげ物であり罪のためのいけにえである)は、あなたのみこころを行うために、ああ神よ、来ました』。彼は第一のものを取り去られます(注:つまり、以前のすべてのいけにえのことである)それは第二のものを打ち立てるためです。そのみこころによって(注:つまり、神の御旨にしたがってであり、それによって世の基が据えられる前から小羊は屠られていたのである、神が罪人たちを愛してくださったからである)イエス・キリストの体が一度限り永遠にささげられたことを通して、私たちは聖別されたのです」(へブル十・四~十)。

なぜなら、私たちの主の死は唯一無二のものとして際立っているからである。霊感された書の先例を見ても、いけにえ・贖いの死として讃えられたり認められたりしている死は皆無である。主の死は四福音書の大きな部分を占めており、命を死に服させたものとして位置づけられている。主ご自身、それを背教を避けるための殉教とは決して見なされなかったし、むしろ、ご自身の命の確固たる目的はいけにえとなることだと見なされたのである。また、千九百年の間、神と共に歩んで、神を理解していた人々はみな、そのように受け入れてきたのである。イエスのいけにえは世のための一つの偉大な全焼のささげ物として際立っている。「この方は私たちを愛して、ご自身を私たちのために、神へのささげ物、またいけにえとしてささげられたのです」(エペソ五・二)。

血による宥め

普遍的な慣習――それはすべての時代を遡るものであり、すべての諸国民中に広まったものである――は、このようにいけにえの血を流すことである。すでに見たように、人はこれを本能的に知っている。これはまた神の定めでもあるのだろうか?ピタゴラスやプラトンのような太古の著者たちは、あまりにも奇妙な慣行について文句を述べている――それは理性にとってとても忌まわしいものであり、自然宗教の命じるところに全く反するものである――そのような慣行が当時世界中に広まっていたのである。現代の旅行者たちが証言するように、それは依然として人類同様世界中に広まっている。しかし、死んだ動物の血は神を喜ばせることができたのだろうか?最初のいけにえについて想像してみよ。人によって殺された動物はまだいなかった。食べるために屠られた被造物はまだいなかった。礼拝のために血を流すことを聖なる人の本能は要求していなかった。それでもアベルは自分の小羊ののどを細心の注意を払って切った。すると、その血が地面を濡らした。心臓が最後の鼓動を終えた時、その死体は炎に包まれた。そして、火がそれを焼き尽くして物言わぬ灰に帰した。命でみなぎっている血が注ぎ出されることは、悲劇的な恐るべきことである。それが神を喜ばせられるのだろうか?疑うことも否定することもできない情報源から発した命令によってのみ、血による宥めというこの悲劇に人類は導かれえたのである

そうであることがわかる。なぜなら、いと高き方はアブラハムに(創世記十五・九)、ヨブに(四二・八)いけにえを命じ、モーセにきわめて精緻ないけにえの体系を与えられたからである。それは世人がこれまで知らなかったものである。しかし一度ならず*、実際の火が天から下って、神の是認を証明したのである。それゆえ、神は最初のささげ物を受け入れられたのである。ご自身がそれを命じられたからである。

* レビ九・二四。士師記六・二一。一列十八・三八。一歴二一・二六。二歴七・一。

すべてのいけにえの最初のものである、アベルのいけにえが、すべてのいけにえ――神聖なものであれ異教のものであれ――に対する教訓的手がかりを与えてくれる。彼の唯一可能な動機が、その後のすべてのいけにえの動機でもあったのである。というのは、怒った神の恐ろしい口調が不従順な家族の耳に依然として鳴り響いていたからである。痛感したアベルはこのように感じたにちがいない、「私はもはや、子供のような無邪気さや感謝の念で紅潮しつつ神の御前に出ることはできません。彼が私を造られた御旨を私は破ってしまいました。私は罪を犯しました。今や私は罪です。このいけにえが焼かれて灰にされるのと同じように、私はまさに死に値します」。稲妻は火であるだけでなく、触れるものを即死させる火である。死んだいけにえの上に落ちた稲妻は、ささげ物をささげる生者の上に落ちていれば、その人を即死させていただろう。しかし神の稲妻が落ちる瞬間、それはいけにえによって逸らされて、ささげる人にではなく小羊の上に落ちたのである。アベルは神の赦しを感じただろう。自分の罪にもかかわらず、自分の命が助かったことを、彼は理解したのである。「神はどういうわけか喜んでおられます。その原理は私にはわかりません。どのようにして無垢な動物が私の咎ある人の魂の代わりになれるのか、私にはわかりません。私が知っているのはただ、私は火を免れたということだけです――女の裔が砕かれたのでしょうか?」。命には命を、であることを彼は理解したのである。

アベルのいけにえ

しかし、神は喜ばれたのだろうか?私たちは今、いけにえについての神の最初の啓示に到達する。「信仰によってアベルは」自分の小羊を「ささげました」(へブル十一・四)。そして、「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による」(ローマ十・十七)ので、神はアベルにそうするよう告げられたにちがいない。さもなければ、動物を生きたままささげてはならないことを、どうしてアベルは知ることができただろう?どの動物がいけにえか、どうしてわかっただろう?ご自身の可愛い生き物を屠っても神はお怒りにならないということが、どうしてわかっただろう?いけにえが人の考案したものだったとき、神は到底いけにえを受け入れようとされなかった。そのため、ナダブとアビフの非正規の独断による香(レビ十・二)は即座に死に遭ったのである。さらに、神は命のためにすでに屠っておられたのである。

屠られた最初の動物は、神によって屠られた(創世記三・二一)。人の食用のためではない。それは千年後はじめて許可された。そうではなく、人を覆うためである。命が奪われたのは、命が維持されるためだった。命には命を、だったのである。異教のいけにえはみな、堕落した人類の直感を明らかにするだけでなく、原初の啓示を反映するものでもあったのである――とはいえ、それを捻じ曲げるものでもあったのだが。

血を流すことの神聖な意味が、今や現れ始める。そしてそれは私たちに、卓越した啓示という一つの高価な真珠によって、決定的に啓示されている。死は決して神にとって喜びではなく、悲劇的な恐るべき必要事なのである。「肉のの中にあるからである。そして、わたしはそれを」――魂を含んでいる血を――「あなたたちに与えた。それは祭壇上であなたたちの魂のために贖いをなすためである」――つまり、覆うためである――「なぜなら」、その中にある「魂のゆえに贖いをなすのは血だからである」(レビ十七・十一)。魂には魂を、である。血にはなんの不思議な力もないが、その中にがある。そして、その中にある魂と共に血が注ぎ出される時はじめて、強烈な死が確実なものとなり、魂が魂のために与えられたのである。それゆえエホバは、あわれみのゆえに、血をすべていけにえのためだけに用意されたのである。「あなたたちのだれも血を食べてはならない。わたしがそれをあなたたちに与えたのは、祭壇上で贖いをなすためである」。魂には魂を、である。*

* このように自分自身の命つまり自分の命にとって、魂にとって、動物的な命の座は血の中にある――命を命の代わりにしてくれる方が見つからないかぎり、各人に責任がある。そのような方が見つかった場合、血は自分の頭から保証人の頭の上に移される。「だれであれ、あなたの家の戸口から通りに出て行くなら」と斥候たちはラハブに言った。「その人のその人の頭に帰します」――つまり、その人は自分自身を救わなければならず、自分の責任で自分の命を担わなければならない――「私たちに咎はありません。だれであれ、あなたと一緒に家にいるなら、その人の血は私たちの頭に帰します」――つまり、その人の命の責任を私たちが負うことになり、その人の命のために私たちの命が危険にさらされるのである。それゆえ、ユダヤ人たちがイエスについて、「彼の血はわれわれの上に」(マタイ二七・二五)と言ったまさにその瞬間、彼は彼らの血をご自身の上に担おうとしておられたのである。血には血を、魂には魂を、命には命を、だったのである。それゆえ、「血を流すことがなければ、赦しはありません」(へブル九・二二)。命には命を与えなければ、律法は満たされず、魂は清められず、罪は取り去られず、「罪を犯す魂は死ぬ」(エゼキエル一八・四)という判決は撤回されないのである。

神の上に降りかかった悲劇

この卓越した啓示は今やその圧倒的絶頂に達する。悲劇が神の上に降りかかったのである。羊や雄牛の血の中にはがある(黙示録十六・三)。ではなぜそれには贖いのための価値が全くなかったのか(ヘブル十・四)?その中に人の魂がなかったからである。贖いのためのいけにえは、罪を犯した者と同じ性質を帯びていなければならない。一人の人が人々のために死ななければならない。動物ではだめだし、御使いでもだめである。「悲しみのであり、彼は自分の魂を死に至るまで注ぎ出された。あなたは彼の魂を罪のためのささげ物とされた」(イザヤ五三・三)。しかし、なぜ他の人はそうできなかったのか?性質上罪のない、神聖な価値のある魂を持つ人はだれもいなかったからである。全人類のための贖いをなせるのはただ神だけだったのである。「だれも自分の兄弟を買い戻すことも、自分のための贖いの代価を払うことも決してできない」(詩篇四九・七)。神と等しい方だけが、無限に及ぶ完全ないけにえを成し遂げて、それを行いえたのである。「おお、剣よ、目を覚ましてわたしの牧者を攻め、またわたしの仲間であるを攻めよと、万軍の主は言われる」(ゼカリヤ十三・七)。なぜなら私たちは「神がご自身の血で買い取られた神の教会」(使徒二〇・二八)だからである。エホバが「あなたたちがそれを食べる日、あなたたちは必ず死ぬ」と言われた時、彼は、もし贖いがなされねばならないようなことがあれば、ご自身の上に死の判決を下すことになるだろうことをご存じだったのである。

それゆえ(一応注意しておくと)どのいけにえも――特にカルバリは――裁きの恐ろしさを軽減するのではなく、むしろ大いに強めるのである。なぜなら、聖なる律法の恐ろしさが、罪人を公に罰する場合よりも、カルバリにおいて無限に示されるからである。なぜか?彼は罪のない、聖なる、神聖な方だったにもかかわらず、神はご自身の御子さえも容赦されなかったからである。律法は罪のない方を打つことを――彼が罪人の立場を取られたがゆえに――一瞬たりとも躊躇しなかった。だとすると、どうして律法が罪人自身を容赦するだろう?また、矯正的であるだけでなく懲罰的でもある罰はみな、今や、不道徳であり報復的であると述べられることがしばしばあるが、もしどの罰も矯正的なものにすぎないなら、どうしてそもそもそれがキリストの上に降りかかったのだろうか?

カルバリは失われている者の過酷な運命を啓示する。罪なき十字架が、破られた律法の威光の恐るべき天罰として、永遠に立つ。「罪を犯す魂は死ぬ」(エゼキエル十八・四)。律法の呪いがカルバリを見逃した魂から取り去られることは、決してありえないのである。