血による宥め(二)

D. M. パントン

「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 八・九月号 掲載。

カルバリは神の御業である――というのは御子が、永遠の御霊を通して、ご自身を御父にささげられたからである――それゆえ、それを超えるものは皆無である。罪深い世に関するかぎり、神の愛はすべてを成し遂げている。その御業は十分なものなので、包括的・決定的である。第二のカルバリはありえない。もしキリストが私のいけにえでないなら、私が自分自身のいけにえにならなければならない。そして、罪はやむことがないので、いけにえもまたやむことはないだろう。

だから祭壇――その上ですべてのいけにえがささげられた――は、カルバリに関する神の明確な具体的絵図であり、世の基が据えられた時にまで遡るものである。祭壇はみな、その上で人が足を休めたことが一度もない、土と切り出されたのではない石で築かれた(出エジプト二〇・二五)――ゴルゴタの丘でも同じように、刻まれていない土や石で詰まった一つの祭壇が神の御手で築かれた。各祭壇の上に、そして木の上に、いけにえが横たえられた――同じように十字架は、その台座にはめ込まれて立てられる前に、カルバリに横たえられて、私たちの主はそれに釘付けられた。世界大の贖いという方位磁石の四方位を指し示す祭壇の四つの角はみな、いけにえの血で覆われた――同じように、釘が打ち込まれた時、血が額、両手、両足から流れ出て、その木の四つの枝の上に滴り落ちた。また、各祭壇の下に意図的に設けられた空洞の中に、いけにえの魂を含む血の残りが注がれた――同じように兵士の槍が聖なる血の残りを十字架のふもとに注ぎ出して空にし、私たちの主の魂*はアビスに(ローマ十・七)、地の低い部分に(エペソ四・九)、いけにえの山の地下深くにある空洞の下界に下って行ったのである。

* 「彼は死に至るまで自分の魂を注ぎ出された」――つまり、その中に魂を伴う血である。なぜなら神は、「彼のを罪のためのささげものとされた」(イザヤ五三・十、十二)からである。あるいは、私たちの主ご自身が述べておられるように、彼が「来たのは、自分の魂を多くの人のための贖いの代価として与えるため」(マタイ二〇・二八)だからである。

それゆえ、あらゆるいけにえの起源の裏で、神はカルバリを計画しておられたのである。最初から彼は、すべての血を咎を覆うものとして(レビ十七・十~十二)ご自身のために用意しておられたのである。それは、咎なき魂がすべての咎ある魂の上に注がれて、身代わりと覆いになるためである。身代わりのゆえに覆いとなるためである。というのは、「その不法を赦された者、またその罪を覆われた者は幸い」(ローマ四・七)だからである。エデンの戸口でいけにえの血が流され、さらに族長たちや預言者たちがそれを絶え間なく継続し、律法の下で、きわめて精巧な儀式体系、神の御心に満ちた式典となったが、そのようなものを世人はかつて見たことがなかった。その中から、一つの決定的で、十分な、唯一の供物が突然現れたのである。その前では予表はすべて消え失せざるをえない。神聖ないけにえをささげるすべての人に向かって、神は事実上、「彼が来るまで、あなたたちは主の死を告げ知らせるのです」と言われたのである。いけにえは、カルバリ前の主の晩餐だったのである。どの契約下でも、祭司たちは、吸収する信仰によって、自分たちの唯一の贖いを前に・後ろに向かって指し示すものを摂取したのである。*

* それは、パンとぶどう酒――つまり、肉体から流し出された血であり、両者はいけにえとして分けてささげられた――が今や、いけにえの肉と血に取って代わって、永遠の記念となるためである。しかし、それら自体がいけにえなのではない。なぜなら代々にわたって、罪を取り除くいけにえは一つだけだからであり、それはすでにささげられているからである。「そうでなければ、彼は世の基が据えられて以来、たびたび苦しまなければなりませんでした。しかし今や、諸時代の終わりに当たって、彼はご自身をいけにえとしてささげることによって、罪を取り除くために現わされたのです」(へブル九・二五)。

それは絶えず広がりつつ登って行き、完全な贖いへと至るものだった。人のための小羊――アベル。家族のための小羊――ノア。一家のための小羊――エジプトでのイスラエル。国家のための小羊――贖いの日のイスラエル。最後に、世界のための小羊――「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)。

最初のいけにえは小羊だった。小羊が毎日、千六百年間ささげられた。最後のいけにえ――これも小羊だった――は贖いのいけにえを永遠に廃止した。旧約聖書では二回小羊として名が挙がっており(イザヤ五三・七、エレミヤ十一・十九)、福音書と使徒行伝では三回(ヨハネ一・二九、三六、使徒八・三二)、書簡では一回(一ペテロ一・十九)、しかし黙示録では二十八回その名が挙がっている。彼のいけにえとしての称号は永遠の代々にわたって私たちの主の格別な栄光である。「見よ、神の小羊!」(ヨハネ一・三六)。

小羊は誰か

小羊は誰かが、予型により啓示されている。おそらく、聖書全体のどの箇所よりも、その成就の箇所で、詳細に、驚くほど啓示されている。というのは、過越の小羊はキリストであると、明確に聖霊は述べておられるからである――「私たちの過越であるキリストが、いけにえとしてささげられたからです」(一コリント五・七)。十字架につけられたときの私たちの主についてそう述べられている(ヨハネ十九・三六)。聖霊がイエスの上に下って、知られていなかったいけにえをヨハネに啓示されたので、洗者は「見よ、神の小羊!」と叫んだ。聖書全体を通して、キリスト以外のだれも神の小羊とは呼ばれていない。また、神もひとりの小羊だけを思ってこられた。過越のたびにおびただしい小羊が屠られた――一家ごとに一匹の小羊がいたからである――エホバは「それらを屠れ」とは決して言わず、常に「それを屠れ」と言われた(出エジプト十二・五。六)。神聖ないけにえはみな、ただ「世の基が据えられる前から屠られていた小羊」(黙示録十三・八)だけを体現していたのである。