私たちの命なるキリスト

ルツ・パクソン

キリスト・イエスが私たちのようになられたのは、私たちがキリストのようになるためです。受肉において神性が人性と一つになったのは、再生において人性が神性と一つになるためです。聖霊が信者の中に新しい性質を与えられたとき、キリストとキリスト者の生ける有機的な合一への扉が開かれました。そして、この合一は永遠に続きます。キリストとキリスト者は、永遠に一つなのです。高く挙げられたキリストは、今も生きておられ、ご自身の勝利と喜びに満ちた聖なる命を、私たちに余すことなく授けてくださいます。

キリスト者であるということは、栄光を受けたキリストが私たちの内に実際に臨在し、所有し、力強く生きておられるということにほかなりません。それは、パウロが言ったように、「私にとって生きることはキリストです」(ピリピ一・二一)と言えるほどに、キリストを私たちの命の命とするということです。キリスト者であることは、あらゆることでキリストの中へと成長し込むことです。それは、私たちの最も内なる霊に植えられた神の種が開花して、彼の完全な命へとますます同形化されることです。キリスト者であることは、キリストを私たちの思い、心、意志の命とすることです。そうすることで、キリストが私たちを通して思考し、愛し、意志を行使してくださるのです。それは、キリストの命だけが私たちの内をますます満たすようになることです。

しかし、現代のニコデモたちが「どうしてそんなことがありえるのか?」と言うのが聞こえてきます。どうすれば自分の家庭でそんな生活を送れるのでしょう、そこでは同情や助けではなく嘲笑と侮辱を受けるばかりであり、長い間罪深い敗北した生活を送ってきたというのに?どうすれば自分の社交圏で真に一貫したキリスト生活を送れるのでしょう、そこではほとんど誰もキリストのことを考えず、その御名が口にされることもないというのに?どうすれば職場で「御霊の中に」生きることができるのでしょう、そこでは「肉の中に」生きている人々に囲まれていて、雰囲気が悪で充満しているというのに?どうすればより豊かな命を生きることを学べるのでしょう、自分は全く世的な教会に所属していて、そこでは霊の命を養い強めるものをほとんど与えてもらえないというのに?

私たちが天におられるキリストの中にあるように、キリストは地上にいる私たちの中におられます。私たちの中におられるキリストは、どこでもこの命を生きることができ、それを願っておられます。この真理は、主が地上で弟子たちと交わされた最後の会話の中で語られました。主は弟子たちに、ご自身が彼らから去ることを告げられました。弟子たちは、彼から離れてどうすれば真の弟子でいられるのかと悩みました。この最後の会話の目的は、彼が霊的な臨在――それは弟子たちとのそれまでの関係よりもはるかに現実的で活力に満ちたものです――の中で弟子たちと共にいるようになることを彼らに確信させることでした。ぶどうの木である彼の中にある命が、枝々である彼らを通して流れるのです。

ヨハネ十五・五「わたしはぶどうの木であり、あなたたちはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ。わたしがいなければ、あなたたちは何もすることができないからである。」

それはまた、主が最後の夜に捧げられた大祭司の祈りの主題でもありました。

ヨハネ十七・二三、二六「わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるのは、彼らが成就されて一つとなるためです。また、あなたがわたしを遣わされたこと、あなたがわたしを愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るためです。それは、あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らの中にあり、わたしも彼らの中に(I in them)いるようになるためです。」

「わたしも彼らの中に(I in them)」――この三つの単純でありながら意義深い言葉が、この祈りを締めくくりました。この小さな内輪の者たちの中に、主はご自身の民に対する、世々を超えた心からの願いを注ぎ出されました。今も当時も、イエス・キリストの燃えるような願いは、キリスト者の内に再び受肉することなのです。

使徒パウロは、自分に与えられた啓示によって、この尊く栄光に満ちた真理を把握しました。その真理は、彼の経験、宣べ伝え、そして宣教活動の縦糸と横糸に織り込まれていました。「キリストが私の内に生きておられる」という言葉はまさに、彼の個人的な霊的生活の頂点だったのです。

ガラテヤ二・二〇「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのです。そして私は今、肉体の中で生きているその命を、私を愛し、私のためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。」

ピリピ一・二一「私にとって生きることはキリストです。」

「キリストが私の中に生きておられます」、ゆえに「私にとって生きることはキリストです」――これに優るものはパウロにとって何もありませんでした。栄光を受けたキリストが彼の命そのものであることは、パウロの霊的経験のすべてを包含するものでした。彼にとって、それこそが最高水準の命だったのです。

「あなたたちの内におられるキリスト」――これが、パウロが諸教会に送ったメッセージの核心でした。この真理は、彼のすべての教えと宣べ伝えの中で明瞭に響き渡りました。パウロの手紙のどの部分を見ても、この真理が太文字で記されていることがわかります。

コロサイ一・二七「神は彼らに、異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富がどんなものであるかを、知らせたいと願われました。それはあなたたちの内におられるキリストであり、栄光の望みです。」

「あなたたちの内におられるキリスト」――これこそが、彼の宣教活動の情熱の核心でした。パウロは神への奉仕において様々な方法を用い、すべての人に対してすべてのものとなったかもしれませんが、そのすべての目的、目標、そしてゴールはただ一つ――福音を聞く者一人一人の内にキリスト・イエスが形造られることでした。

ガラテヤ四・十九「私の子供たちよ、キリストがあなたたちの内に形造られるまで、私はあなたたちのために、再び産みの苦しみをします。」

キリスト者であることは、キリストを救い主として受け入れ、主として戴冠することです。しかし、さらにもう一つの段階があります。それは、キリストを命として受け入れることです。時計の内部の機構が時計の真の命であるように、信者の内におられる主イエスは信者の真の命です。「キリスト者の生涯は、単なる回心の生涯でも、献身の生涯でもなく、キリストの生涯である」。キリストはキリスト者の中心であり、キリスト者の外周であり、その間にあるすべてです。パウロが述べたように、「キリストはすべてであり、すべての中におられる」のです。

コロサイ三・四「私たちの命なるキリストが現される時、あなたたちも、彼と共に栄光のうちに現されます。」

完全な一つの成就

信者の霊的歴史は、二つの言葉で表すことができます。「あなたたちはわたしの中にある」と「わたしはあなたたちの中におる」です。神の計算では、キリストと信者は一つとなっており、キリストは天と地の両方におられ、信者も地と天の両方にいます。キリストなき教会は頭なき体であり、教会なきキリストは体なき頭です。かしらの豊かさはからだのためであり、からだは「すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ一・二三)。

コロサイ二・九~十「なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです。そしてあなたたちは、キリストにあって満たされているのです。彼はすべての支配と権威のかしらです。」

神は、キリストの豊かさがキリスト者の豊かさとなることがご自身の神聖な御旨であることを、これ以上明確に語ることができたでしょうか。これは驚くべき思想です!それが明白に示すのは、あなたも私も、そして他のすべてのキリスト者も、キリストを天から地へともたらし、人々に彼が誰であるか、何を成し遂げたか、そして彼が人間の生涯に何をなし得るかを示すべきである、ということです。それは、キリストの命を持ち、彼に全く似た者になることです。人々が私たちの内におられる彼を見て、信仰と愛の中で彼へと引き寄せられるほどにです。それは命の一体性であり、そこでは人の個性は単なる器となって、主イエスの美しさ・聖さ・栄光を曇りなき透明さで輝かせるのです。