第一回

ジョージ・B・ペック

このメッセージは一九二六年に出版された「勝利者」誌の第一号に掲載されたものです。
「彼と共に天上に座らせてくださったのである……」(エペ二・六、C.H.)

「御座の生活」というこの句は、もちろん、王座についた生活を意味し、敵に対して有利な地位を暗示する。クリスチャンのために霊の敵に対するこのような勝利の地位が備えられている、という考えは聖書的観点から正当化されるのだろうか?

一.御座の生活とは何か?

神が人類に備えてくださった救いは、すべてキリストを中心としている。また、われわれが経験的に理解する救いは、すべてわれわれのキリスト理解を中心としている。

さらに。神が備えてくださった救いの歴史的発展はみな、われわれのためのキリストの使命の連続的な諸々の出来事を中心としている。すなわち、彼の受肉、死、復活、昇天、再来である。そして、実現された救いにおけるわれわれの霊的発展はみな、これらの出来事――それらは豊かな救いをわれわれに保証してくれるものである――の意義に関するわれわれの理解を中心としている。

恵みにおけるわれわれの成長は、これらの出来事の意義についてのわれわれの理解にかかっており、ある程度、これらの出来事すべてと関係している。他方、それはこれらの出来事の特に三つと関係している。すなわち、われわれの主の死、復活、昇天である。なぜなら、この三つの出来事の道筋に沿って、聖霊は、われわれの照らされた信仰に応えて、われわれの身代わりであり保証であるキリストとの交わりを実現してくださるからである。

キリストの死についての信者の理解

第一に、われわれの主の磔殺について。二人の信者が、キリストがわれわれの諸々の罪を負ってくださったことを理解して、赦しと平安を感じて喜ぶかもしれない。しかしそれに加えて、そのうちの一人は、さらに深いものを見る。すなわち、キリストはわれわれの罪深さをも負って、十字架上でわれわれの腐敗した性質の身代わりとなられたことである。それは彼の死によってわれわれの呪われた「古い人」が処刑され、今後は「全く死んだ」ものと見なされて、キリストの墓の中に葬られるためである。その結果、この信者が経験する「束縛から解放された」という喜びの感覚は、他方の信者が経験する喜びの感覚を遥かに上回るものとなる。なぜなら、二人とも罪の呪いから解放されたことを見て喜ぶ一方で、そのうちの一人だけが、それに加えて、罪の支配から解放されたことを見いだすからである。

キリストの復活についての信者の理解

さらに、キリストの死と復活は相補的な教理なので、キリストのの力に関するこれらの信者の理解の違いは、必然的に、キリストの復活の力についても同じように理解の違いを生じさせる。そして、最終的な結果として、彼らが自覚する霊的経験に相応の違いが生じる。

キリストの復活に関して、この一人目の信者は、その特別な意義について比較的曖昧な観念しか持たないだろう。すなわち、キリストの復活は、贖いが完全に保証されていることに対する神の署名・証印と等しい、という観念である(ロマ一・四、二五)。彼は確かに、そしておそらくは大いなる明確さで、自分は再生されていること、そして今や愛と信仰の中で、神の御霊の働きにより、自分の復活された主に結合されていることを理解するかもしれない。しかし依然として、命の義認に関して、また復活した御方との復活経験における交わりに関して、他方の信者が享受する豊かな保証には遠く及ばないだろう。なぜなら後者の信者は、キリストをより明確に自分の身代わりとして、また神が絶えず受け入れてくださる復活した代表者として評価するからである。キリストがかつて彼の咎のために引き渡されたように、今やキリストは彼を義とするために復活されたことを、彼は見る。彼はまた次のことをも見る。すなわち、キリストの磔殺と葬りにおいて、彼自身も、彼の「古い人」「この死の体」に関して、十字架につけられて葬られたのである。それゆえ今や、同じように、彼が信じた時に、神の御霊の働きを通して、彼も復活したのである。そして今から後、死者の中から復活して神に対して永遠に生きる者として、キリストの復活との神聖な一体化にあずかるのである……。

しかし、キリストの死と復活に関するさらに進んだ理解と経験を得る三人目の信者がいるかもしれない。キリストの肉体の復活は彼自身の将来の栄化された体の保証・似姿であることを彼は認識する。さらに彼は、キリストの肉体の復活は今や信仰によって利用可能な特権であることをも認識する。現在、キリストの栄化された体と一体化されていることを考慮するとき(エペ五・三〇、一コリ六・十五、十九)、弱さ、病、退屈なクリスチャン奉仕のただ中で、肉体の力を神によって新しくしてもらえるのである。すでに内住している聖霊という仲介者を通して、キリストの命が彼の「内なる人」の中だけでなく、「外なる人」、「死すべき体」の「死すべき肉」の中にも働き始めるのを彼は見いだす(二コリ四・十、十一)。すでに「罪のゆえに死んでいる」と述べられている肉体の中に働き始めるのである。死んでいるのは堕落のためである。肉体は依然として死の呪いの下にあり、まだ復活・栄化された体にはなっていない。この信者は、このように理解して、欠乏の時でも、自分の体の命が生かされるのを自覚して喜ぶ。これは将来の栄化された体の保証であり、すでに内住しているキリストを死者の中からよみがえらされた御方の御霊による。

キリストの高揚についての信者の理解

最後に、われわれの主が昇天して、いと高き至上者の右に高く上げられたことについても、この同じ法則が成り立つ。つまり、霊的経験は理解の度合いによるのである……。われわれの主の現在の地位を明確に理解することによりクリスチャンが経験する様々な権利や特権については、後の章でさらに詳しく説明することにする。

キリストは今や自分のために御父の右におられることを理解する信者は、確かに大いに喜ぶ。しかし、自分自身もまたキリストにあってそこにいることを見るとき、その喜びはどれほど高まることか!今やキリストをわれわれの高く上げられた輝かしいとりなし手として、われわれの全く有能で常に勝利する弁護者として認識することは、確かに歓喜を引き起こす。しかし、次のことを見いだすとき、われわれの喜びはさらに増す。すなわち、われわれ自身もまた天上でキリストと共にそこで座についているのである。なぜならキリストにあって、彼の会衆――われわれ――はそこにいると神は認めておられるからである。このからだのかしらとすべての肢体は、神の御思いによると、またわれわれの正当な信仰により、主権者たちや権力者たちに対して共に勝利している。王座についたキリストについてのこのような展望は、必然的に、われわれの喜びを増す。さらにこれは、誘惑の時に逃れの道――この逃れの道はわれわれが誘惑者の前から逃げられるよう常に備えられている――を見いだすための実際的根拠であるだけでなく、とりわけ、積極的抵抗――これにより誘惑者はわれわれから逃げ出すのである――の道を見いだすための実際的根拠でもある。そしてわれわれは、われわれを愛してくださっている方により、圧倒的な勝利者となるのである。

光で照らされた信仰により、信者がキリストと共同の地位や特権を要求することに成功する、そのような幸いな時は常に、御座の経験と称しうるものの実例となる。自分はキリストと共に天上にあることを、信者が鮮やかに又つねに理解するようになる時、信者はそれに応じてますます勝利を経験するようになり、「御座の生活」という句の意味するところを理解するのである。

二.御座の生活への小径

さて、文字どおりのイスラエルと、霊のイスラエルつまり教会との比較に向かうことにしよう。われわれはこれらを一つの有機的なまとまりとして見ることにする。あるいは、その個々の信者について見ることにする。その目的は、彼らの歴史の三つの段階における諸々の誘惑について理解することである。これらの誘惑は(御座の生活に向かって進みつつある信者の)体・魂・霊を攻撃する誘惑に対応している。

(一)一番目の予型の段階……はエジプトにいるイスラエルの子らの住まいの中に見いだされる。それは享楽と苦難のどちらかと言うと肉的な類の経験だった。彼らは肉の欲に耽り、肉の諸々の危機を通った。彼らの食欲は肉鍋、メロン、きゅうり、ニラ、ニンニクを楽しんだ。他方、彼らの手は疲れ果て、彼らの背はパロの使役人の鞭の下で痛んでいた。彼らは、まだエジプトにいたとき、過越の血の下で、エジプトの滅びを免れることを約束された。しかし彼らは、さらにエジプトの交わりからも逃れる必要があることを、後に雲の柱に導かれて海の底を通るまで理解しなかった。それは本質的には初歩の段階にすぎず、言わば、外面的・肉体的段階だった。

(二)二番目の予型の段階……はイスラエルの子らが荒野の中をさまよったことと関係している。彼らはもはやエジプトの中にはいなかったが、エジプトが明らかに依然として彼らの中にあった。エジプトから解放されたが、彼らは直ちにエジプトを慕った。パロの束縛から逃れたが、彼らは自分たちの内にあるパロの似姿への束縛の中に喜んで陥り、自ら課した自己の支配の下でうめき続けた。すべてがエジプト化された。彼らの表面上のエホバ礼拝すらもエジプト化された。彼らは昔の肉鍋、メロン、きゅうり、ニラ、ニンニクをあえぎ求め、マナを嫌がった。彼らをエジプトから連れ出した神の御名により――したがってエホバを礼拝するつもりで――彼らは金の子牛の前にひれふした。そして次に、エジプトの偶像崇拝者たちの流儀に倣って、いわゆる「主の祭り」を祝った。「民は座っては飲み食いし、立っては戯れた」と記されている。このように彼らは誓いと失敗、つぶやきと悔い改めを続けた。こうしたことを彼らは、義なる律法に逆らって、しかもエホバの臨在を認識していたにもかかわらず、行ったのである!言わば、彼らの信条や言葉は「正統的」だったが、行いは間違っていたのである。文字については良く知っていたが、その霊についてはほとんど知らなかったのである。揺れ動く肉と霊の下で、移ろいやすい意思と混ざりあった諸々の欲望が戦っていたのである。それは誘惑の魂的段階であり、「目の欲」すなわち魂的欲望が実を結ぶ段階だった……。

この段階は自己に関する深い知識を持つために不可欠なように思われる。クリスチャンはみな、ある程度、この段階にあずかる。しかし、神がこの段階を許されるのは、移行段階としてにすぎず、この段階は短くなければならない。それゆえ、神の御旨は、イスラエルの子らが予型として、律法の下で短い指導を受けた後、また荒野で諸々の危険を少しだけ経験した後、約束の地の境界に到達することだった。しかし、彼らが不信仰のゆえに入れなかったように、今、故意に肉の重荷を負っている多くの弟子は、自分のためにここに残されている魂の安息の中に入るようまさに天によって定められた時だというのに、不信仰のせいでそれに達していないように思われる。そして万一、弟子が引き返して、イスラエルの子らのようにまたもや行きつ戻りつしようものなら、そのあてのない旅はずっと続き、ついにはその骸を荒野にさらすことになる。そして、死の間際になるまで、なんという祝福の可能性を自分が失ったのか、決して理解しないのである!しかし、神はほむべきかな!すべてのクリスチャンがこのように不誠実なのではない。カレブやヨシュアのように、忠信であり続けて、約束を偽りとする報告に困惑しない人々もいる。エシュコルのぶどうを自ら食した彼らは、その後、良き地で財産を得るまで、決して満足しない。

(三)三番目の最後の予型的な誘惑の段階は、人の霊の戦いに対応しており、この戦いの結果は――それが失敗に終わった場合――「生活の傲り」である。この段階は約束の地におけるイスラエル人の住まいと関係している。最初、彼らは恭しく、従順だった。団結し、勝利した。しかし、堕落の過程がやがて始まった。そしてすぐに、不従順、偶像崇拝、分派主義、隷属が主な特徴となった。彼らはカナン人を絶滅させるよう命令されていたが、自らの怠慢のせいで、カナン人は彼らの手に負えず、「その地に住む」ことになった。さらに、これらの諸国民は彼らを道徳的に征服し、社会的・政治的同盟を締結した。そしてそれにより、彼らはエホバ礼拝を様々な形態のカナン人の偶像崇拝に公然と置き換えた。個人主義に向かうこの初期の傾向は、士師たちの時代に絶頂に達した。「各々、自分の目に良しと見えることを行った」と書いてあるとおりである。国家解体のこの過程は、サウル・ダビデ・ソロモンの統治のあいだ食い止められていたが、再びかつてなかったほどの著しさで、その後まもなく再発して、国を二つに引き裂いた。最終的に、道徳的・政治的堕落が悪化したため、彼らをユーフラテスの向こうに追放して捕囚にするしか、神には解決策がなかった。つまり、レビ記十八・二八でモーセが予め警告していたことが成就したのである。その地は、諸国民をイスラエル人の前から吐き出したように、同じ忌むべきもののゆえに、イスラエル人をも吐き出したのである。

天上における諸々の危機

個々の信者に関する、これに対応する本体の段階は、キリスト・イエスにあって天上で占めている自分の地位についてクリスチャンが自覚することである。天上でクリスチャンは諸々の最高の特権を享受し、諸々のきわめて恐ろしい危機に遭遇する。なぜなら、肉的戦いと支配から逃れて信仰の安息に到達し、自己から比較的自由になって、キリストのために行動して耐え忍ぶという唯一の願いに没頭するようになった人々が、ひとたびこの約束の地の中に入る時、彼らは一方において自分たちを守り支える神の力と、他方において従事すべき戦いの現実とを、新たに且つ鮮やかに感じるようになるからである。なぜなら今や彼らは、かつてなかったほど、自分たちがいかに主権者たちや権力者たちと顔と顔を合わせて戦っているのかを理解するからである。この戦いは「この暗闇の世の支配者たち、天上にいる邪悪な霊の軍勢に対する」(改定訳)戦いであり、霊のカナン人たちに対する戦いである。このカナン人たちは自分たちの最初の地所を失った。そして今、彼らの住まいと世的支配権を奪い取らなければならない。その時、信者は見いだす。天上の経験の全領域を、キリストとの交わりにより、所有するのは容易であり、それは最初から自分のものなのだが、それでも、それをどれだけ享受するかはどれだけ前進するかにかかっていることを。完全な所有という意味では、自分の足で歩んだ場所はどこでも、その人のものである。そして、ああ!往々にして、このカナン人たちは弟子を非難し、巧妙な腕前で、誘惑し、駆り立てて、その堅固な姿勢を崩そうとする。前進するための断固たる弟子の努力を一掃しようとする。弟子は、偉大な将の御名により、捕らわれ人を虜として引いて行き、主権者たちや権力者たちを虜にし、彼らを公にさらしものにしようとするが、カナン人たちはこれをひどく誹謗する。この勇敢な信者は今や、はじめて、サタンの力から逃れることと、その力に打ち勝つこととの違いが、完全にわかるようになる。信者は次のことを学ぶ。われわれは比較的容易にエジプトの交わりの領域――そこは公の目に見える世的攻撃の舞台であり、われわれはそこに属しておらず、そこにとどまる権利もない――から逃げることができるし、シナイの経験――そこでの攻撃はより内面的・神秘的で辛いものである――を通るわれわれの巡礼を比較的早く終わらせることもできるかもしれないが、サタンに対して勇猛果敢に戦って、その世的支配権の選りすぐりの部分を侵略することは、それとは全く別の問題なのである。そこではわれわれに全権がある。これは血によって買い取られた権利であり、天から委ねられた権利である。この権利は現に存在しており、永続する。しかしそこでは、突然守備に降りかかって直面することになる敵の戦術は、全く未知のものなのである!これほどサタンとその軍勢を怒らせるものがあるだろうか?勇敢な信者に対して、彼らは自分たちの大きな力を示し、自分たちの最も狡猾な企みを試そうとするのである。

敵の戦略

ああ!サタンにはよくわかっているのである。神に栄光を帰すという単一の目的のためにささげられているすべての力を、信者が完全に且つ調和をもって用いるのを許すなら、その時、自分と自分の意図は最悪の結末を迎え、追いやられ、排除されてしまうことを。それゆえサタンは今や、自分の総力を挙げて、そして自分の知恵をすべて傾けて、狡猾な諸々の方法で、信者の思いを逸らそうとする。そして、言わば、信者の興味と愛情を個別化・区画化しようとする。なぜなら、このような手段によって、格好な妥協や部分的容認の機会や、可能であれば同盟や提携の機会を自分のために確保することを、サタンは望んでいるからである。このように侵入することにより、サタンは、さらに不遜な侵略を行うための有利な立場を獲得する。サタンがこれに成功するとき、信者は天的交わりを奪われ、神の懲らしめに遭うことになる。

しかし、サタンには次のこともわかっている。自分の陰謀を進めるうえで、この信者をもはや初心者を扱うようには扱えないのである。また、きらびやかに飾り立てられたこの世の安ピカ物を掲げることによってこの信者の心を勝ち取ることはできないし、罪を犯すことを望む自己と望まない自己との間に新たな戦いを生じさせようと公に煽り立てることによって信者の意志を獲得することもできないのである。そんなことをすれば、直ちに正体を見抜かれて撃退されることを、敵は承知している。信者は信仰の盾を取って、自分の顔面を突くだろう。この信者の目的は神の側にあり、その霊的感覚を行使して、並び立つ善と悪とを見分ける。それゆえ、サタンはいつにもまして、自分を隠そうともくろむ。ひずめの足跡をすべて消し去って、自分の歩みを覆おうとする。自分の存在の可能性を、その弟子がたまたま忘れていたり、あるいは疑っているなら、しめたものである。

サタンは今や、良心を通して意志に、理性を通して良心に、部分的知識の提示と半面の真理の示唆を通して理性にろうとする。今や目覚めて警戒している良心を罠にかけて、善悪の問題に関して間違った結論を下すようにさせなければならない。それは、所与の事例について、何が正しいのか或いは間違っているのかという当初の問題に関して、誤った情報を与えることによってである。頭脳に誤謬を抱かせることにより、心に罪を抱かせなければならない。頭脳または心のどちらかを嵐に巻き込むようなことを、サタンはあえてしようとはしない。成功を収めるには、非常に巧妙である必要があることを、彼は承知している。信者たちの想像という領域の中を彼は徘徊し、頭脳を通して心に、心を通して頭脳に回り込もうとする。それゆえ、諸々の誘惑は今や、光の天使たちの輝きの中で現れる。それは知恵や純潔さのように見えるもので輝いている。聖書的な外観、振る舞い、言葉遣いを装っている。

その結果、今や、この信者に対してサタンは、かなり立派な論拠を伴う偽りの徳・正義・優しさという道筋で、偽物の霊性を大々的に披露する。大量の洗練された精細な区別により、理性と良心を丸め込んで出し抜かなければならない。何が適切で合法的なのかに関して、困惑するような頻度で、決議論的な示唆を吹き込まなければならない。それゆえ、天上で信者を対処するためにサタンが選ぶ領域は、堕落した肉ではない。彼は、悩み、生来の弱さ、無能さ、欠点、遺伝的特異性、敵の策略によって異常に強められて誤導されないかぎり道徳的に問題にならない性癖を用いる。こうして、信者の性質――抜け目なさ、注意深さ、望み、善意、独立心――の中に、サタンは攻撃する隙を見いだす。これらの性格のどれかから発した行動と連携することにより、誘惑者はしばしば信者を促して傲慢な自負心や高ぶりに陥らせようとする。その結果は堕落である。

あるいはまた、信者の性癖――注意深さ、労苦、落胆、自己卑下、誠実さ――の中に、敵は信者に重荷を負わせるための隙を見いだす。その重荷とは、自分自身の無価値さや無能力さに対する恐ろしい強烈な感覚である。この感覚のせいで、信仰の中枢は麻痺し、高ぶりのあらゆる面の中で最も巧妙なものの侵入を全く防げなくなる。それは怪しまれずに信仰心の回廊の中に迎え入れられている、ほとんど唯一の類のものである――それは恵みを誇る聖人ぶった謙遜さである!最終的に、信者が生来あまりにも信じやすくて迷信的な場合、騙されて狂信に陥る可能性がある。

天上での祈り

しかし敵には、魂をより確実に確保するための、とっておきの他の策略がある。その策略により、敵は彼らの熱烈な献身を挫き、祈りにおける彼らの願いを沈黙させる。なぜなら、天上での祈りを敵は特に恐れているからである。なぜなら天上では、嘆願者を包み込む祈りの大気は、交わりの楽しみや達成の喜びだけでなく、より多くの場合、とりなしの盈満であり、山上の大気でもあるからである。この大気は、反逆的なイスラエル人のために嘆願して功を奏した時に、モーセが呼吸した大気のようである。あるいは、夜回りの四時まで御父を待ち望んでいる間、われわれの主を支えた大気のようである――その後、主は山を下りて海の上を歩き、嵐に弄ばれていた弟子たちを救われたのである。だから、優勢な天上の祈りを他の方法で破ることができない場合、サタンはその祈りを借用・模倣することにより、その祈りの核心的な目的と信仰を取り去ろうとする。そして時として、サタンはこれに成功する。明確さと確信に欠ける執拗さを、彼は喜んで容認する。それゆえ、彼は嘆願者の思いを、自分自身の思いで置き換えることにより、混乱させて奪い取ろうとする。そして時として、巧妙にも、また見せ掛けの聖さにより、魂を促して空しいサタン的提案を祈らせることに成功する。最終的に、願望の翼はあてもなく空を打ち、極度の消耗から逃れるうちに垂れ下がってしまう。

このような地獄的策略が及びうる領域の中に、クリスチャン奉仕の様々な方面における多くの失敗の理由――これ以外の理由では説明がつかない――が見いだされる。適切な事例の中から、次の事例を指摘することができる。たとえば、伝道の働きにおいて熟していない多くの実が摘み取られてしまうこと、慈善活動の目的が矮小化されてしまうこと、同じ熱心さを持つクリスチャン同士の間で考えが衝突すること、団結して祈るべき時に致命的敗北を喫することである。