第三回 御座の生活に入る方法と幾つかの妨げ

ジョージ・B・ペック

このメッセージは一九二六年に出版された「勝利者」誌の第四号に掲載されたものです。

この章を進める目的は、いわゆる御座の生活の実際的意味を示すことである。そしてこの企ては、尋ね求めている信者たち――彼らは自分たちを取り巻く悪魔的包囲網を対処できずにいることを痛切に感じている――のために平易に書くことである。

一.自分の状態に向き合いつつ、尋ね求めている信者

例として、二、三の想定される経験を選べば十分だろう。どの事例も、各人はささげきっていて、生活と奉仕において神に栄光を帰すことを熱心に願っているものとする。

事例一.疑いによるサタンの攻撃

この信者は良心的であり、時として病的なほどである。しかし、自分がそうであるかどうか、彼はたびたび自問する。しかし、ある種の経験により、彼は困惑し悩んでいる。それは、きわめて聖なる瞬間に、彼の信仰を打ちのめす悪魔的疑いの洪水である。黙想や祈り、あるいは聖書朗読に従事している時にそうなのである。そのような時、神、聖書、魂、将来の重大な諸問題に関する、きわめて狡猾で、不吉な、悪意に満ちた疑問が彼に湧き起こるように思われる。これらの疑問と戦っている間、あらゆる種類の真理に堅く立つ立場から押し流されそうになるのを彼は感じる。しかしそれらの疑問に対して、彼の良心、決意、力が常に立ち向かう。これらの困難はしばし去ったのち、常に戻って来るのだが、彼は相変わらず弱いままである。

これらの疑問は自分自身から発しているように見えるが、実は全くサタンから発していることを、彼はますます理解するよう導かれる。そして痛ましい確信が生じて、解放される望みをすべて萎えさせてしまう。自分の何らかの生理的特異性のゆえに、自分はこうした点についてサタンの無力な餌食になるしかない、と確信してしまうのである。

事例二.冒涜的暗示によるサタンの攻撃

この信者の経験によく似た経験を、バンヤンは記している。それは、彼が死の影の谷を通る巡礼をしている時のことである。そこでは、暗闇の中、悪霊どもが諸々の考えを彼の耳に囁いて、彼はそれを自分の考えと勘違いしてしまう。そしてその結果、恐怖と自責の念に満たされてしまう。長いあいだ自分で自分を苦しめた後はじめて、もしかすると、この信者は、この問題はどれも全く悪魔的であって、自分は悪くないという事実に到達するかもしれない。しかし、この事実を知って彼はある程度ほっとするが、依然として諸々の攻撃に苦しめられて、それらの攻撃を防ぐには無力であると感じる。

事例三.神秘的な印象、声、幻、愉悦等によるサタンの攻撃

この信者は長い間これらの印象や幻をすべて神からのものと見なしてきたし、これらの声も同様に見なしてきた。なぜなら、それらのものは、多くの点で、他の数々の導き――それらが神聖なものであることについて彼には何の疑いもない――を真似ていたからである。それゆえ、彼は疑問を抱かずにそれらに従う習慣に陥る。そしてついには、自分を制する力をほとんど失い、実質的にそれらの奴隷になってしまう。それらはたびたび彼を矛盾する結論に導き、馬鹿げた行いや過ちに導くため、後になって彼は困惑と後悔の中に取り残される。また、それらのせいで、神は愛すべきでない、暴君的で非道なものに思われるようになる。そして、神の善良さと臨在を疑う寸前のところにまで信者は導かれる。そのため最終的に信者は目覚めて、自分の理性・良心・意志を堅く捉えたこれらの印象、声、幻はサタンからのものにちがいないことを理解する。しかしそれでも、これらのものを聞いて注意を払う習慣が第二の天性のようになっているため、彼はそれらの力から逃れられない。

事例四.福音的・牧会的・キリスト教的奉仕を邪魔することによるサタンの攻撃

この信者は、祈り深く念入りに尋ね求めた後、自分は主に置かれた所にいること、そして、主が自分に行わせたいことをあらゆる点で行っていることを確信するが、それに見合う成果は阻まれていてつぼみのままである。そして彼は光で照らされて、これに対する他の数々の原因の背後にある原因はサタンの干渉であることを悟る。彼はサタンの狡猾さを、数々の小さな原因という蜘蛛の巣の中に察知する。例えば、偽善的な同労者の介入、経験のない働き人のしつこい相談、あるいは、中傷者による隠然たる或いは公然たる反対、陰口、噂話などである。これらすべてのものの中に、この信者は仕組まれた信仰の罠を見る。それにもかかわらず、彼の信仰は大いに制限され、彼の霊は悩まされている。

事例五.天然・恵み・賜物を捻じ曲げることによるサタンの攻撃

この信者は、奉仕のためのきわめて真摯な願いという点で困惑している。神の御旨や方法に厳密に従うことから逸れてばかりだからである。これは、他の意見に対する病的なまでの、実直で礼儀正しい敬意のためであり、あるいは、それらの欠点に対する優しい配慮のためである。あるいは、慎み深さ、遠慮、自分自身の欠点に対する自覚のためかもしれない。しかし、彼に弁解する気はないものの、彼は次のことに気づくようになる。すなわち、自分がこのようにしばしば陥る失敗、自分が神の奉仕において全く有用な者となる上で致命的な失敗は、サタンによって計画され、推進されているのである。彼には、サタンの容赦ない手が自分を取り囲んでいて、自分の感覚を弄んでいるように思われる。

事例六.試練によるサタンの攻撃

この信者は、家庭的、社会的、宗教的環境に関して、苦しみの炉の中に投げ込まれ、多くの祈りを通して、その苦しみはすべて神によって定められたものであり、神の御旨はそれを継続させることであることを学んだ。彼はこれに黙従する。しかし彼の苦悩は大きく、彼の霊の命は柔和さと忍耐に欠けているせいで妨げられてしまう。そして、彼は外側の試練には服せるものの、内側の試練には服せないことを見いだす。特に、この点において、サタンが優位に立っていること、そして、自分が他の人々に霊的な模範を示すのを妨げていることを、彼は理解する。そして彼は、不安へと促す敵の猛烈な内的促しを取り除けるなら、いかなる外的圧迫も自分を狼狽させることはないことを理解するよう導かれる。彼は晴れやかな気持ち、理解力を超えた平安を切望する。それにより、自分に定められているあらゆる試練に打ち勝つことが可能になるからである。

二.聖書を調べつつ、尋ね求めている信者

前に挙げた事例では、信者は、自分が何らかの偶像にしがみついていないかどうか、勤勉に自分を吟味したものと仮定した。また、彼は神によって光で照らされて、自分の苦悩は主にサタンの悪意のためであり、自分の進歩を邪魔して、自分を通して表される神の栄光を傷つけようとする願望によって引き起こされていることを理解したものと仮定した。

この信者は、したがって、今や神に促されて、悪魔の狡猾な力を征服するために神が定められた方法を見つけたいと願いつつ、聖書を調べる。

1)教理的事実の探求

以下のような教理的事実を彼は見いだす。

エペ二・六。われわれの地位:キリスト・イエスにあって共によみがえり、共に天上で座についている。

エペ一・三。この地位におけるわれわれの特権:「キリストにあって、天上にあるあらゆる霊の祝福をもって祝福されている」。これはもちろん、「義、平和、聖霊にある喜び」(ロマ十四・十七)を含む。

エペ六・十二。われわれの地位の近くにいるわれわれの敵:天上にいる主権者たちと権力者たち。彼らはわれわれの特権意識を奪い、われわれに自分の特権を享受させまいとする。

エペ一・二〇~二二。キリストの地位:――すでに見たように、これはわれわれのものでもある――この地位はわれわれの敵の地位を遥かに超えている。キリストは死者の中からよみがえり、天上で御父の右に座して、すべての主権、権力、力、唱えられるあらゆる名を超えて遥かに高くされた。そして、万物は彼の足の下にある。

エペ一・二二、二三。この輝かしい至高性におけるキリストとのわれわれの連携。「神は万物をキリストの足の下に置き、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだである」。

エペ一・十九、二〇。その結果、このようにキリストを高く上げたキリストに対する神の力の大きさは、われわれに対して行使されているものと同じである。「神の力強い大能の働きにしたがって、信じる私たちに対して働く彼の力が、どれほど卓越して偉大であるのかを知りますように。神はその力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、天上でご自身の右に座らされました」。

2)この事実を実現させる鍵の探求

信者は今や、キリストにある自分の地位、権利、特権に関する教理を得て、自分はそれらを知的にしか理解していないと感じる一方で、それらを経験的にも知りたいと願う。つまり、享受して、勝利したいと願う。このように促されて、彼はさらに御言葉を探求し、この状況に至る鍵であるエペ一・十六~十八を見いだして喜ぶ。「どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、彼を知る知識を得させ、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えてくださいますように。また、あなたたちの心の目が照らされて(中略)信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さを知りますように」。

3)見つけた鍵の活用

信者は今や、この新しく発見した鍵の適用に取りかかる。すなわち、自分のための祈りの中で、これらの御言葉に訴え始める。神を知る知識を得て、知恵と啓示の霊を受けられますように、と訴え始める。神の御言葉の中に述べられている聖霊の願いを祈ることによって、自分は神の御旨にしたがって祈っているのであり、「聖霊の中で祈っている」(ユダ二〇)のである、と彼は考える。それで、きわめて恵み深い返答、並外れて豊かな返答さえも得られると確信する。

4)この鍵は経験への扉を開く

この霊感を受けた祈りを用いて、日毎に神を待ち望んだ結果、望んでいた霊的理解力が与えられる、そして、信者は昔ながらの真理を新しい光の中で見ることができるようにされる。また、なじみ深い御言葉のそれまで理解していなかった尊い意味を自分の必要に対して適用し、信仰を活用して用いることができるようにされる。新鮮な光を放つものとして御霊が示される御言葉は多くあるが、信者は特に出十七・十三、ヨシ五・十三~十五、八・十八、十九、マコ十一・二二~二四、マタ十八・十九~二〇等を与えられる。

こうして聖書を通して、聖霊は、ご自身が内側に息吹いた祈りに応えて、信者の悟性を開き、そこにあるキリストに関する事柄を理解させる。そして今、聞くことによって生じた信仰が、それまで無敵だったサタンの要塞を、霊の諸々の武具で果敢に攻撃する。この霊の武具は、神によって力あるものであり、サタンの要塞を破壊する力がある。

三.サタンを対処しつつ、尋ね求めている信者

ヘブル四・十六で命じられている聖なる大胆さにより、そして、それまでは自惚れや罪としか思われなかったが、今では神によって与えられ、霊感されていると感じる、確信と決意とをもって、信者は次の四つの果敢な行動を決意する。

1)戦いの順序

最初の一歩として、信者は今から後、神の御言葉は真に不変な真実であると見なそうと決意する。それは、自分に示されたところにしたがってであり、キリストと共に王座についていることによる自分の現在の地位と特権に関してである。その地位と特権は、信者のすべての敵を遥かに超えたものである。彼は神の見解を自分自身の見解とすることを決意する。疑わずに、この瞬間から、絶えず、環境や見た目に関係なく、そうすることを決意する。自分はキリストの中にあり、自分を不幸にするサタンの力を全く超越している、と彼は考える。そして、この決意にしたがって、彼はひざまずき、信仰のこの確固たる立場に関して神と契約を結ぶ。

第二に信者は、神から与えられた自分の地位、特権、権利を受け入れた後、その時々の困難に関してそれらを経験したいという自分の要求の基礎を、この事実の上に置くようになる。言わば、彼はこの事実を、多数の障害物をひっくり返す信仰のてこを置くべき支点として用い始めるのである。

第三に、信者は自分の意志を、無条件の断固たる信仰の行動に集中する。言わば、自分の全体重を信仰のてこの上にかける。それは、信仰の祈り又は信仰の命令を発することによってであり、神に導かれつつ、確信をもって神を信じつつである。また、キリストにある自分の地位にしたがって、自分は神の御旨に従っていることを、心の中で疑わずにである。

最後に信者は、証拠やしるしを全く待たずに、「祈り求める時、すでに受けたと信じなさい」というマルコ十一・二四の神の命令に徹底的に従う。そのため、「山はすでに移った」と彼は見なす。そこで直ちに自分の信仰を働かせて、祈る代わりに賛美する。自分を愛してくださった御方を通して自分はすでに圧倒的勝利者になっていると、彼は神をほめ始める。

2)この戦いの結果

これは、信者の穏やかで晴れやかな心の状態からわかる。この心の状態は、外側の諸々の困難が直ちに消え去った場合でも、あるいは、その訓練のがしばらくのあいだ続いた場合でも、同じである。どちらにせよ、信者は勝利者であって、勝利を自覚している。勝利の現れを待つ必要があることがわかった場合でも、その間、ヘブル一・十三、十・十二、十三の模範にしたがって、御父の右で、イエスと共に待つことの幸いを信者は理解する。そしてそれ以降、自分の敵どもが万人の目の前で公然と自分の足台となる時まで、喜びつつ期待するのである……。

そして、この勝利全体の秘訣は次の点にある。すなわち、王座についておられるキリストにあって持っている自分の地位・権利・特権を理解するよう、御言葉を通して信者を照らされた聖霊、そして次に、それらの地位・権利・特権を実際に要求する信仰を信者に授けられた聖霊は、今や、信者の内なる人を力をもって強めて、それらの地位・権利・特権を実現し、サタンに対して勝利させるのである。実際にアマレク人が打ち破られるのである。

四.尋ね求めている信者と諸々の妨げ

さて、御座の生活の実現を妨げるおそれがある諸々の妨げについて指摘することにする。その幾つかの妨げの性質はささいなものかもしれないが、その影響はささいなものではない。

第一の妨げ:不完全な願い

勝利者になろうとするとき、あなたの動機はあなたが思っているほど純粋ではないかもしれない。あなたは求めるが、受けない。受けないのは、自分ののためにそれを費やそうとしているからである。使徒ヤコブが書き送った人々と同じである。神の栄光のためではなく、何らかの霊的利益のためにそれを費やすことを、あなたは願っているのである。つまり、求めるあなたの動機が、求める必要性に関するあなたの確信ほど純粋ではないかもしれないのである。それで、あなたを困惑させることをサタンは許されているのである。「神は侮られるような方ではない」からである。

あるいはまた、あなたの願いは純粋かもしれないが、低調で無益なものかもしれない。あなたは「高度な」クリスチャン経験に安んじることに満足していて、最高のものを求めていないのである。それに到達するには、自己の意志が巧妙に保留しているものさえも明け渡すという代価が必要だからである。それらの保留物は、あなたの天然的性格の中に埋め込まれているものである。例えば、好奇心、批判的気難しさ、独立心、方針、あるいは他の個人的に保留しているものである。これらは献身の初期の段階ではほとんどわからないが、今や、備えられている救いの完全な享受を邪魔するのである。

第二の妨げ:感傷的で、頭でっかちな教理知識

理論的に、あなたは自分がキリストにあって天上にあることを信じている。あなたはこの教理を聖書的であると受け入れ、それを主張して宣言する。しかし、それから実際的益を全く得ない。それは勝利や喜びの実感をあなたに与えない。この教理はサタンに対する力に関する相応の経験に自分をもたらす、とあなたは夢にも思わない。明らかに、あなたの信仰のこの間違った考えはありふれたものであり、霊的真理の知的理解をその霊的理解と勘違いしたものである。このような誤った信仰には本物のような輝きと外観があるが、化粧張りやワニスのようなものであり、表面的であって本質的ではない。

例えば、あなたは自分の天的地位を信じているが、それは多くの回心していない人々がキリストを自分の救い主として信じているのと同じことであり、あるいは、肉的な先入観を抱いている多くのクリスチャンがキリストを自分の聖別として信じているのと同じことである。つまり、それに付随する解放を経験・目撃していないのである。しかしその間、自分自身の経験から、あなたは次のことを知る。最初に義認のために、そして次に聖別のためにキリストをとらえて、喜びと自由の一連の明確な段階に入っていたとしても、自分は天上でキリストと共に王座についていることを受け入れることについては、それによる追加の益を全く自覚しないおそれがあるのである。それゆえ、あなたは今、知恵と啓示の霊が自分に与えられるように祈る必要がある。また、自分が知的に同意しているすべての真理に関して、光で照らされ、力づけられて、新たに喜べるように祈る必要がある。

第三の妨げ:先祖から受け継いだ現在の「諸々の伝統」

もしかすると、これらのものが、霊的勝利の有効範囲に関するあなたの信仰に鉄の支配を課していて、従来の伝統的な境界を超えることを禁じているのかもしれない。ああ!旧経綸だけでなく新経綸においても、「先祖から受け継いだ諸々の伝統」の邪悪な影響は、とても巧妙なものかもしれない。教会の中には防腐処理を施された数々の理論がある。それらの理論はその古めかしさのゆえに崇敬されているが、それらを疑わずに崇敬している人々は、それらと一緒に自分も防腐処理を施される経験をしているのである。

第四の妨げ:自信の残滓

これらのものが存在するのは、自己に対して死に切っていないからである。あらゆる深さの恵みを経験する必要がある。自分の歩みと道に関する意識が、キリストを意識することによって失われるようになるには、かかとに達する深さの恵みを経験する必要がある。奉仕のための力に関する自己満足が、「キリストの力は自分たちにおいて全うされる」という徹底的な弱さの感覚によって消え去るようになるには、腰にまで及ぶ深さの恵みを経験する必要がある。そして最後に、首にまで及んで頭を超える洪水が必要である。それは、知識、知恵、理屈、知的理解に関する自惚れが、われわれに対する知恵とされたキリストに関する啓示によってすべて消え去るまでである。

第五の妨げ:キリスト経験の実現ではなく、経験の実現を求めること

これは昔ながらの陳腐な過ちであって、キリストではなくキリスト以外のものを求めることである。キリストのための自分の奉仕に敵対している主権者たちや権力者たちが、どれほど強く、またどれほど頻繁に自分を攻撃しているのかを理解している信者は、キリストのために又キリストを通して毎瞬勝利する勝利者としてキリストに信頼する代わりに、勝利するための力を求めて奮闘しがちである。

第六の妨げ:聖書の不適切な理解

信仰によって天上に入ったことを理解している人々のあまりにも多くの者が、天上で成長・前進し続けることに失敗している。それは彼らが「約束の地の昔ながらの穀物」の代わりにマナを求めて日毎に聖書に向かい続けるからである。真理のマナ――それは日毎に少量だけ降って来て、露と共に消え去る――は荒野での巡礼には十分かもしれないが、霊的カナン人との戦いに召されている人々を力づけるには不十分である。

天上にある信者は、「約束の地の昔ながらの穀物」である聖書の中のキリストで養われて力づけられる時はじめて、成長して、聖書を敵に対する確かな攻撃的武器として用いられるようになる。これにより、彼は敵の詭計を暴いて、「こう記されている!」と述べるだけで敵を逃亡させることができる。

第七の妨げ:ギルガルで待機するのを無視すること

ギルガルは、イスラエルの子らが良き地に入った後、彼らにとって最初の、彼らが必要としていた安息の地だった。そこで彼らは待機して、それまで無視されてきた割礼の問題に注意を払った。無割礼のまま良き地に入ることもできたが、その状態で敵に立ち向かうことはできなかった

さて、恐るべきことに、天上には無割礼の信者がたくさんいる。彼らはキリストのための自分の奉仕を進める時、敵に勝利しようとするが空しい。彼らはエジプトの誹り――それらは様々な天然的特徴や習慣の形で彼らにしみついている――を完全に除き去ることに失敗したのである。

聖書は良き地にいる信者たちに、少なくとも三つの方面で霊的割礼の儀式を命じている。心、口、耳の割礼である。

心の割礼は高ぶりからの清めと関係している。それは、われわれの願望や愛着、動機や考え、決意や決断に関するものであり、神に対して又われわれの仲間たちに関してである(レビ二六・四一、申三〇・六)。

口の割礼。これもまた重要である。なぜなら、「心に満ちていることを口は語る」からである。また、「あなたの言葉によってあなたは義とされ、またあなたの言葉によってあなたは罪に定められる」。

イザヤ(六・五)は自分の力不足を嘆いている。汚れた口のせいで、万軍の主なる王にまみえて奉仕することができなかったからである。そして、確かに、制御されていない舌は無割礼の舌である。信仰を告白するクリスチャンたちの間に、制御されていないさまよう舌がなんとたくさん見いだされることか。

耳の割礼。エレミヤは叫ぶ、「彼らの耳は無割礼であり、彼らは聞くことができない。彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばない」(エレ六・十)。無割礼の耳は、神の御言葉と御霊の御声に対して、故意に耳を閉ざすものである。

そして今、親愛なる読者よ、主権者たちや権力者たちに勝利するのを遅らせてはならない。あなたがイエスと共に個人的に冠を受け、彼の栄光をもって輝き、彼の出現の時に彼のようになるまで遅らせてはならない。完全に打ち負かされてはならないし、御名のために耐え忍んでいる時に喜ぶことに失敗してもならない。大いなる「アーメン」であるありのままの諸々の約束を証明する証拠を求めて斥候を遣わしてはならない。むしろ、すべてのことがあなたのために働いて、遥かに卓越した永遠の重い栄光となること、そして、あなたは彼にあって圧倒的な勝利者になれることを覚えよ!