このメッセージは一九二七年に出版された「勝利者」誌の第一号に掲載されたものです。
前の章では、霊的経験の三つの典型的段階があることを見た――エジプトでの経験、シナイでの経験、天上での経験――これはカナンでの経験に似ている――である。さて、この戦いはエジプトではまだ過越の血の保護下にあり、しかしこの世の敵意として露わにされるが、信仰は霊のモーセであるキリストの内に十全性を見る。この御方は、力の象徴である神の杖を手に持ち、下って来て解放してくださる。彼は絶えざる神の導きの象徴である雲と火の柱を背にしておられる。しかし、この戦いはさらに荒野へと進み、いっそう深い執拗な肉の敵意が痛切に感じられるようになる。そして、その支配から完全に逃れたいといううめくような願いが生じる。このとき、キリストについてのモーセ的観点――半律法的観点――では不十分である。いま絶対的に必要なのは、モーセの後継者である霊的ヨシュアとしてのキリストを見ることである。肉の墓からよみがえった御方を見ることである。この御方には、律法によって責められるべき点は何もない。王的自由の中を、また命の新しさの中を歩んでおられるからである。
しかし、最終的に、カナンに入って、この戦いがますます熾烈さを増し、暗闇の君と直面するとき、信仰はキリストを、ヨシュアの本体である復活のキリスト――この御方は聖霊の力の中で証しの御霊をご自分の弟子たちに息吹かれる――以上のものとして理解する必要がある。なぜなら今や、信仰が勝利するには、王座についた救いの将であり信仰の創始者また完成者(ヘブ十二・二、改定訳)であるキリストの、覆いの無い栄光を信仰は見つめなければならないからである。
しかし、指導者に関するこの最後の予型的変更は、聖書の中のどこに見いだされるのか?復活のキリストの型であるヨシュアが、地上生活におけるキリストの型であるモーセの跡を継ぐのは明らかである。しかし、さらなる継承は予型的にどう辿れるのか?ヨシュアが最高権力の地位から降りたとき、誰が跡を継いだのか?それはヨシュア記五章の最後の部分からわかる。しかし、イスラエルの予型的歴史について、さらに一言、二言述べることにしよう。それは、クリスチャンの霊的解放の段階をよりよく評価するためである。
過越、紅海、ヨルダン川はみな、十字架の力の型であり、信者はこの力をますます理解するようになる。この第一のものは、世の滅びから解放する十字架を示す。これを見た信者は小羊の肉を食物とする。すなわち、その血によって自分を保護してくれるキリストから力を得る。この第二のものは、世の支配から解放する十字架を示す。信者はこれを理解し、今や、自分のためになされたことだけでなく、自分の内になされたことをも認識する。これにより信者は、自分がキリストにある新創造としてよみがえったことを見る。最後に、この第三のものは、肉の支配から解放する十字架を示す。今や信者は、自分自身の内に新創造があることだけでなく、さらに、自分の内にあるこの新創造は旧創造から分離されていることをも理解する。
ヨルダン川徒渉と紅海渡渉との間の教理的並行性に注意せよ。しかし、経験上の進展にも注意せよ。両者とも信者の霊的死と復活を象徴しているが、後者はこれを強化している。後者では、葬られたものとよみがえったものとの間の実際的区別を維持しなければならない、という思想を示しているからである。紅海では、霊的死と復活のこの象徴は、イスラエルが大海の中に下りてそこから上ったことの中に見られる。パロとその軍勢の力はこの大海によって滅ぼされたが、彼らはこの世の支配の典型的化身である。しかしヨルダン川では、この死と復活の象徴――イスラエル人はヨルダン川を安全に渡った――の他に、彼らの新しい命が彼らの古い命から実際的に分離されたことを示す型が追加されている。というのは、ヨルダン川渡渉のとき、イスラエル人自身の型である、十二の石の記念碑が川底に埋められたからである。これはまるで、「荒野での肉の圧政は裁かれて終わったのである。これは、パロとその軍勢が紅海の中に葬られた時、パロの世的支配が裁かれて終わったのと同じである」と、今後見なすべきことを示すかのようである。次に、別の十二の記念の石が川底から取られて、カナン側の岸辺に置かれた。それは彼ら自身を示す型であり、彼らは命の新しさへとよみがえっただけでなく、彼ら自身の死んで葬られた自己から永遠かつ実際的に分離されたのである。
しかしさらに、霊的理解のさらなる進展がここで象徴的に示されている。というのはヨルダン川で信者は、自分の霊的死と復活そして自分の以前の自己からの日毎の実際的分離が効力を発揮する道を、はっきりと理解するようになるからである。すなわち、この道はキリストの実際の死と復活によるのである。なぜなら今や信者は、経験的理解のための基礎として、次のことを教理的に理解するからである。すなわち、自分が霊的に経験することはみな、キリストが文字どおり経験されたこととなんと神々しく重なるのかを、信仰によって理解するのである。それゆえ信者は、以前は持っていなかった確信を自覚して喜びつつ、「私はキリストと共に十字架につけられました。それでも私が生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」(ガラ二・二〇、改定訳)と言うことを学ぶ。
ヨルダン川渡渉の中にこの教理的・経験的象徴が示されていることを認識するには、血が染みついた恵みの御座を伴う契約の箱――これはみな、神・人キリストの身代わりの犠牲の鮮明な絵図である――を担う祭司たちがどのように群れの前を進んで行って、その後、すべての民が渡り終わるまで、流れの真ん中にじっと立っていたのかに注意せよ。ここに絵図として、予定・成就された贖いの御業である、われわれの主の死と復活の経験が、信者が霊的に同様の経験をするための唯一の根拠として示されている。次に、どのように十二の石の最初の組――それらは川の中に残されて、「肉による」イスラエル人を象徴していた――が、祭司たちが立ったのと全く同じ場所に置かれたのかに注意せよ。また、どのように「御霊による」イスラエル人を示す別の組が、そのまさに同じ場所から取られて、カナン側の岸辺に据えられたのかに注意せよ。これは次のことを教える。すなわち、信者の霊的死と復活はキリストの文字どおりの死と復活と神々しく重なるだけでなく、信者の古い自己からの実際的分離もそのように重なるのである。そして私たちは知る。この神聖な一体化という事実を考慮して、聖霊はそれを、「肉の支配から実際的に解放された」という幸いな意識の中に信者をもたらすための、効果的な根拠とされるのである。それにより、信者は古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて新しい人を着れるようになる。そしてこうして、「自分は確かに罪に対して死んでおり、死者から生かされて神に対して生きている」と見なせるようになり、命の新しさの中で御霊にしたがって歩く願いだけでなくその能力をも持つようになるのである。
今、ヨシュア記五章における指導者の変更の場面の根底に横たわる象徴的意義をまとめる用意をした方がいいだろう。こう記されている――
ヨシュアがエリコの近くにいた時、目を上げて見ると、見よ、一人の人が抜き身の剣を手に持ち、彼に向かって立っていた。そこでヨシュアはその人のところに行って言った、「あなたは私たちの味方ですか、それとも私たちの敵の味方ですか?」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将としていま来たのです」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何を僕に告げようとされるのですか?」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所だからです」。ヨシュアはそのようにした。
すでに見たように、ヨシュアは、モーセの後継者として見たとき、復活したキリストの霊の型としての役割を果たしている。そしてこのようにヨシュアを見ると、彼という人物が次のような指導者であることが十分にわかる。すなわち、彼は信者を導いてヨルダン川――肉の支配権の死を表す――を渡らせて、天上にある復活の住まいに入らせることに成功する指導者なのである。
しかしヨシュアに関するこのような見方は、天上にいる主権者たちの要塞を打ち倒す問題になると十分ではない。このためには、ヨシュアの別の面が必要である。私たちは彼を、墓からよみがえったキリストの霊の型として見るだけでなく、主権者たちや権力者たち、力や主権を遥かに超えて、いと高き大能者の右に座しておられる、キリストの霊、神・人として見る必要がある。ゆえに、ヨシュアが主の軍勢の将に服従したことを示している先の御言葉の意義はこれにある。
しかし、ここで読者は問うかもしれない。「以前モーセからヨシュアへと明確に継承がなされたように、もしヨシュアから主の軍勢の将へと継承がなされたのだとすると、なぜ、それ以降、ヨシュアは視界から消え去らなかったのでしょうか?なぜ、この『将』が目に見える形で現存し続けなかったのでしょうか?」。
その答えは明らかである。この二つの事例の違いはみな、カナンにおけるヨシュアが聖霊の型である事実と合致する。聖霊は教会の中にあの「別の慰め主」として絶えず内住している方であり、復活・昇天したキリストを代表する方である。これはキリストが個人的に不在である、この経綸全体にわたってそうである。地上で個人的にキリストの跡を継いだ聖霊が、今やわれわれの内側で治めており、われわれを通してサタンに対して戦っておられる。しかしこれはみな、個人的に目に見えない形でわれわれの上におられるキリストに対する服従と忠誠による。今や聖霊は、目に見えないイエスの御名の中ですべてを行うことを喜ばれる。イエスの御名はすべての名の上に高く上げられたのである……。