第六回 御座の力における人の側の要素

ジョージ・B・ペック

このメッセージは一九二七年に出版された「勝利者」誌の第四号に掲載されたものです。

われわれの御座の力に必要不可欠な人の側の要素は信仰である。われわれの信仰が必要不可欠である。なぜなら、全能者が協力を保証してくださっているのは、信仰の単純さに対してのみだからである。聖書の理想的信仰――きわめて偉大な尊い諸々の約束がそれに応じようと待ち構えている――は、常に柔和で単純である一方で、とても大胆でもある。

御座の力が示される方法

御座の力が信仰を通して表されるのは少なくとも二つの方法による。その姿勢によって、あるいは、その言葉によってである。

第一に、その姿勢に関して。働く姿勢や待つ姿勢がありうる。場合に応じて、いずれかの姿勢が御座の力に対して自然なものになる。神の命令により、なにかを直ちに成し遂げなければならない時や、なんらかの障害物をすぐに取り除かなければならない時は、働く姿勢を取ってしかるべきである。待つ姿勢は辛抱強く忍耐しているときに受け入れるものであり、働きのための神の時が来ていない時か、あるいは、その時が過ぎ去った後、その結果がかなり遅れている時である。

試練は御座の信仰を行使するのにふさわしい領域である。「信仰は常に試されるが、不信仰は決して試されない」。ある機会が信仰に訪れなければならない。それは困難に直面して行動・忍耐する機会、働きや待つことによって成し遂げる機会である。証明するために、へブル書の十一章に向かうことにしよう。そこに見いだされる、信仰の力に対する証し人たちの不滅の名はみな、二つの見出しの下に分類できる。働いた証し人たちの名と、待った証し人たちの名である。ある結果の原因としてではなく契機として信仰を見るとき、この分類は、これらの尊敬すべき人たちはみな信仰を同じように活用したこととつじつまがあう。植える働きをするパウロにせよ、水を注いで待つアポロにせよ、どちらにしても神が成長させるのである。

へブル書のこの章に示されている、信仰による御座の力のこれらの姿勢の結果のいくつかに注意せよ。彼らは「数々の王国を征服し、義を行い、諸々の約束を受け、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者は強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせました。女たちは、その死者たちをよみがえらせてもらいました。他の者たちは、さらにまさった復活を受けるために、解放を受け入れずに拷問を受けました。また他の者たちは、冷酷な嘲りや鞭打ちという試練を受け、その上、縄目や投獄という試練を受けました。彼らはのこぎりで引かれ、試みられ、剣で殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、無一物になり、悩まされ、苦しめられました――この世は彼らにふさわしくなかったのです」。

確かに、これらの力強い勝利者たちは昔の時代に証しした。その時代は、信者の輝かしい身代わりである御方が死・復活・昇天により御座の生活の諸々の特権をすべての信者のために確実に獲得される前の時代であり、彼の勝利の御霊の降臨により彼の御力が分与される前の時代だった。しかし、「世の基が据えられる前からほふられていた小羊」の功績は未来だけでなく過去にも及ぶことを示唆するものである格別な経綸上の重複を、彼らは個人的に経験したのである。それゆえ、これらの記録が「記されたのは私たちの学びのためであり、私たちが忍耐と聖書の慰めにより希望を持つため」なのである。

へブル書のこれらの偉人たちの信仰の武勇伝を読んで最初に思うのは、キリスト教の初期の数世紀以降、御座の力に関する姿勢について、教会はかなり逸れてしまったようである、ということである。一般的見方では、これはそうである。しかし、多くの顕著な例外に関してはそうではない。祖国と海外の両方の地における、恐るべき逆境に対する目覚ましい伝道の勝利は、その働きと達成の姿勢により、御座の力の継続的現れを証しした。他方、待ちつつ忍耐する姿勢による御座の力の継続的現れに関しては、時折生じた迫害の期間に現れた英雄的忍耐の多くの事例が、申し分のない証しとなっている。

第二に、言葉という手段によって御座の力を現わすことに対して、われわれは敬意を払わなければならない。その述べ方には二つある。信仰の祈りと、その最も高度なものである、信仰の命令である。御座の力はきわめて偉大な尊い諸々の約束を握って、これらの発言方法のいずれかを選ぶよう信仰を励ます。「あなたたちが祈りの中で信じて求めるものはなんでも、あなたたちにかなえられます」。「一粒のからし種のような信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう。そして、あなたたちにできないことはなにもないでしょう」。聖書全体にわたって、信仰の祈りが功を奏した事例が記されている。また、信仰の命令が効果的に発せられたのは、それより僅かに少ないだけである。旧約聖書では、モーセ、ヨシュア、エリヤ、特にエリシャが、例外的ではあったが、命じて神聖な結果を生じさせる力を獲得した。しかし新約聖書では、これほどの御座の力の授与が、言わば普通になる。キリストが任命された十二使徒と七十人の弟子たちは、彼の御名の中で悪鬼どもを追い出した。それはおそらく、キリストご自身の方法にならって、一言で追い出したのであろう(マタ八・十六)。パウロがテアテラで、自分のあとを叫びながらついてくる女から占いの霊を追い出したのは、一つの命令によってだった(使十六・十八)。また、当時、このような語り方が信仰にとって自然なものだったことがわかる。それで、弟子たちが「自分たちの仲間になってついてこない」と非難した人でも、それを用いて成功したのである。主は「彼に禁じてはならない」と仰せられた。しかし、この最も高度な御座の発言方法は、悪鬼憑きの事例に対するためだけのものではなかった。われわれの主はしばしばそれを用いて、他の諸々の奇跡を行われた。また、疑いなく、使徒ペテロはこうして宮の美しの門で足なえの人を回復させ(使三・六)、パウロも同じような方法でルステラで足なえの人を回復させた(使十四・十)。同様にしてパウロ自身も、弟子のアナニヤの言葉で視力を回復してもらった(使二二・十三)。さらに、ペンテコステの日に与えられた霊の賜物の豊かさから見て、御座の発言のこの方法により、それに対応する結果がしばしば生じたことに疑いの余地はない。

今は依然として聖霊の経綸である。われわれの体は聖霊の宮である。その内住により、われわれは一つ御霊から飲み、一つからだに結ばれた。そのかしらは王座についたキリストであり、キリストは「昨日も今日も永遠に同じ」御方である。その御名の中で、われわれは神の住まいのために、御霊を通して、共に建造される。備えの状況は同じままであり、もし経験が異なるなら、それは信仰の欠如のためである。そして、この御座の言葉のこれらの方言――信仰の祈りと信仰の命令――は両方とも、この経綸の終わりまで、教会によって用いられるべく定められている。これはマルコ十一・二二~二六の節を調べれば明らかである。この個所では、その双方が密接につながっていることがわかる。

「そこでイエスは彼らに答えて言われた、『神を信じなさい。まことにわたしはあなたたちに言います。だれでもこの山に向かって、動いて、海の中に入れと言い、そして心の中に疑いを抱かず、自分の言ったことは必ず起きると信じるなら、なんでもその言ったとおりになります。』」

「ですから、わたしはあなたたちに言います。あなたたちが祈る時に願うものはなんでも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、あなたたちは得ます。」

「また、あなたたちが立って祈る時、だれかに対してなにか恨み事があるなら、赦してあげなさい。それは、天におられるあなたたちの父もまた、あなたたちの咎を赦してくださるためです。」

懸案の問題の証拠である以下の点に注意せよ。

第一に、「神を信じなさい」という命令では、彼らが持つよう命じられているのは明らかに御座の信仰である。なぜなら、一言の命令によっていちじくの木がしおれるのを彼らは目撃したばかりだったからであり、また、奇跡に関するペテロの論評はこの御言葉を示唆していたからである。次にまた、この御言葉は文字どおりには「神信仰を持ちなさい」である。これは、ベンゲルが述べているように、「神を持っている人々が持つべきもの」であり、われわれの主ご自身がまさに行使されたものである。

第二に、ここでは、信仰の中で命じる特権を経験することを使徒たちは完全に許されているだけでなく、信仰の中で祈る特権をも許されている。これらの信仰の発言には必ず結果が続く、という約束も同様に明確である。

第三に、ここでは使徒たちだけに直接語られているが、それでもわれわれの主のこれらの一連の御言葉は、使徒たちを通してすべての信者に宛てられている。これは二つの点を考えれば明らかである。第一に、「あなたたちの中のだれでも」ではなく、「だれでも(中略)と言い(中略)そして心の中に疑いを抱かず」と述べられている。これは広範な聖書的「だれでも」の部類の一つに属しており、聖霊によってイエスを主と呼ぶよう教わったすべての人に適用できる。つまり、神から生まれたすべての人に適用できる。また、緊急時における、その積極的な個人的適用は、結果について心に疑いを抱かない類の人々だけに限られる。その誤った適用の例、すなわち、再生されていない人がそのような御座の発言を試みた例が、使徒行伝十九・十六に記録されている。その箇所によると、悪鬼に憑かれた人が話し手に反撃・襲撃したのである。

しかし、キリストの御言葉はすべてのクリスチャンに一般的に適用できることは、次の点を考慮してもわかる。すなわちキリストは、信仰の祈りが持つこれらの素晴らしい可能性に関する保証を、祈る時には赦しの霊を持つ必要があるという勧めと、直接結びつけられたことである。このような勧めを、疑いなく、われわれは自分自身に親しく適用することができる。祈りの際の赦しに関するこの命令は、祈りの際の信仰に関する保証と同じく、直接的には使徒たちに宛てられているが、それは彼らが特別な使徒的能力を持っていたからではなく、クリスチャンを代表していたからにすぎない。さて、祈りの際の赦しに関するこの勧めの適用をためらうことは、われわれのだれにもできない。そうである以上、祈りの際の信仰に関するこの励ましの適用を、どうしてためらう必要があろうか。そして、「祈るとき信じよ」というこの点について適用するのを――ほとんどのクリスチャンがためらわないように――われわれもためらわない以上、驚きのあまり唖然として、どうしてさらなる適用――つまり、「命令するとき信じよ」という同類の励ましに関して――をたじろぐ必要があるだろうか?ただし、もちろん、神に栄光を帰す機会を選ぶ聖霊の支配権を認めることが必要である。

マルコによる福音書のこの節に関するこの見解、すなわち、「祈りの際の御座の信仰はわれわれの共通の遺産である」という見解を確かめるために、ヤコブの手紙五・十四~十八から導かれる同様の推論と比較せよ。この使徒が、祈りの力の例として、エリヤの例――エリヤは旱魃と雨のために交互に祈った――を挙げることにより、「病人の回復のために勝利の祈りをささげよ」というわれわれに対する彼の励ましを、どのように裏付けているのかに注目せよ。また、次の事実が強調されていることにも注意せよ。すなわち、彼がこのように効果的に祈った時、彼は他の人々よりも義人だったわけではなく、「私たちと同じような心情」の人だったのである。

しかし、マルコによる福音書の十一章の節に戻ることにしよう。この特権の一覧では、われわれはまず、言わば王座の間の内側に、まさに至聖所の中に居てしかるべきである、とどれほど見なされているのかに注意せよ。そこに、祭司である信者として、われわれは出入りし、ケルビムの間にある恵みの座からの御声を聞く。御声が語ると、それは成る。「動いて、海の中に入れ」と命じると、それは堅く立つ

次にわれわれは出て来て、言わば聖所の中に入る。金の祭壇で祈るためにその部屋の中に入る。「あなたたちが祈る時に願うものはなんでも」。

それから、最後にわれわれは正規の幕屋の外に出て、外庭の中に入る。そこでわれわれは諸々の罪の赦しを受ける――「天におられるあなたたちの父もまた、あなたたちの咎を赦してくださるためです」。

「自分自身を清めるために、あるいは、他の人々を清める兄弟としての奉仕のために、時々外庭を再訪する必要があるせいで、祭司である信者としての自分の不可侵の権利――裂かれた幕を通って御座の区域に入る権利――は失われた」と思わないようにしようではないか。

むしろ、この節に関する別の比喩的絵図に向かって、それを山の景色と呼ぼうではないか。われわれがどのように山頂から始めるのかに注意せよ。

「神を信じよ」。ここではシェキナの雲がわれわれを取り巻いている。しかし、弟子たちは変貌の山で「雲の中に入った」時、恐れて困惑したが、われわれはそうしないようにしようではないか。

「だれでもこの山に向かって(中略)と言い」云々。ここでわれわれは雲の中の御声に耳を傾ける。そこは依然として山頂である。

「あなたたちが祈る時(中略)すでに受けたと信じなさい」。今や、われわれは山腹を途中まで降りてきて、嘆願という高原の高みから可能性という景色を眺める。

「あなたたちが立って祈る時(中略)赦してあげなさい」。今や、われわれは山の麓の平原にいるわれわれの仲間たちの間にいる。そして確かに、下界で日常の諸問題、誘惑、試みに囲まれている間、変貌を目撃した後の弟子たちと同じように、われわれの山上での経験を試すために、悪鬼的勢力のなんらかの実例が必要になる。

信仰の小径のこの順序――それは神と共なるわれわれの地位から始まって、われわれ自身、われわれの仲間たち、われわれの困難を伴うわれわれの境遇へと下って行く――はの考えであって、の考えではない。われわれの不信仰はこの順序を覆す。神は、その恵みにより、われわれのことを御子の御業の功績によって天上でご自身の右の座についているものと、まず見なしておられる。しかし、ああ、あまりにも多くの時、われわれの不完全な経験のせいで、これほどの慰めと優位性が台無しになってしまうのである。そして神の見方の代わりに、われわれは自分のことを山のにいる信者と、まず見なしてしまう。そして次に、登るために努力・奮闘するのである。これはなんと要らぬことか。このようにきわめて偉大な尊い約束を通して、われわれは神聖な性質にあずかる者となっているからである(二ペテ一・四)。