第5章 人の創造

G. H. ペンバー

人の創造に関する補足的物語

今我々が考察しようとしている人の創造に関する詳細な記録は、最も興味深い主題の一つである。なぜなら、我々の種族の起源と性質について、その記録だけが正しい教理の基礎を据えられるからである。それゆえ、我々はこの記録を注意深く調べなければならない。しかし、その作業に手間はかからないだろう。なぜなら、「そして、主なる神は土地のちりから人を形造り、その鼻にいのちの息を息吹かれた。そこで人は生ける魂となった」(創世記二・七)という短い記録の中に、一切の啓示が含まれているからである。我々は三つの点を考慮しなければならない。その三つの点とは、体の形成、いのちの息の注入、人が意識に目覚めて生ける魂になったという結果である。

体の形成

第一に、主なる神は人を形造られた。すなわち、陶器師が粘土から陶器を形造るように、神は人の体を形造られたのである。そのヘブル語の動詞の意味は明らかであり、その現在分詞は陶器師に対してよく使われる言葉である。ヨブは神のこの最初の働きに言及している、「私はあなたにお願いします。あなたが私を粘土のように造られたことを思い出してください。あなたは私をちりに戻そうとされるのでしょうか?」(ヨブ記十・九)。材料は霧によって潤されていた土地から取られたちりだった。それゆえ、「あなたはちりだから、ちりに帰る」と後に述べられている。

「土地」と訳されている言葉はアダマ(adamah)であり、より正確には赤土を意味する。アダムという名前はこれに由来するようである。これは人肌の自然な色(白地に赤)に相当する。これにちなんで、理想的な美に関するソロモンの描写は、「私の愛する方は輝いて、赤く」(雅歌五・十)という言葉で始まる。

霊の注入

人の霊はその鞘の形成とは無関係である。神は最初に感覚の無い体を形造り、それからその中に「いのちの息」を息吹かれた。原文では「いのち」という言葉は複数形である。しかしながら、我々は以前これに注意しなかった。なぜなら、それはヘブル語でよく知られている卓越性を表す複数形にすぎないかもしれないからである。一般にいのちを意味するこの言葉は、めったに単数形では現れない。しかし、もし数に意味があるとすれば、それはおそらく、神の息吹が二つのいのち、感覚的ないのちと霊的ないのちを生み出した事実を言っているのであろう。各部が異なるものであることを、我々はしばしば両者の争いによって自らの内に感知する。

このいのちの息は人の霊、人の中の生命原理となった。というのは、「生かすのは霊である」と主が我々に告げておられるからである。また霊が導き入れられた方法から、霊が創造者から直接与えられたことがわかる。もちろん、それを神の霊と混同することは注意深く避けなければならない。聖書は人の霊と神の霊を明らかに区別しており、神の霊は我々の霊と共に証しする方として描かれている(ローマ八・十六)。しかし箴言の書が言うように(二〇・二七)、人の霊は主のともしびであり、神の霊によってともされることができ、人が己の心をさぐって己を知るための手段として神から与えられるのである。

魂の起源

人はこのように、物質的な要素と霊的な要素という二つの独立した要素のみから成り立っている。しかし、神が霊を土の器の中に置かれた時、それらの組み合わせが第三の部分を生み出し、人は生ける魂となった*。なぜなら、霊と体が直接交流することは不可能だからである。両者の交流は媒体によってのみなされうる。そして、アダムの中で両者が接触した結果、その媒体が直ちに生じたのである。

* おそらくこれが、「いのち(複数形)の息」という表現で複数形が使われている意味であろう。神の息吹が霊となり、同時にそれが体に作用することによって魂を生み出した。このように、神の息吹は霊的ないのちと感覚的ないのちの両方の源だったのである。

人は生ける魂となった。その意味するところは、霊と体がこの第三の部分において完全に融合したということである。それゆえ堕落していない状態では、今日我々が日常的に経験する霊と肉の絶え間ない争いを、人は全く知らなかったのである。人の三つの属性は完全に混ざり合わされて一つとなり、結合媒体である魂は人の個性の源、人の個々の存在の源となった。魂はまた鞘として、そして体を使役する手段として、霊に仕えた。「肉体は魂の体であり、魂は霊の体である」と言った時、テルトゥリアヌスは誤っていなかったようである。

しかし、次のことは興味深い。すなわち、今生では魂が我々を構成する諸要素の出会う所だが、復活した状態では霊が支配者となるであろう。なぜなら、最初のアダムは生ける魂に造られたが、最後のアダムはいのちを与える霊になられたからである(一コリント十五・四五)。また、魂の体でまかれたものは霊の体によみがえらされるからである(一コリント十五・四四)。

人の三部分性の教理は、一、二の例外を除き、訳の不正確さによってかなり曖昧にされている

このように聖書の冒頭で、我々は「魂と体(soul and body)」という慣用句に対する警告を受ける。この慣用句のせいで、人は二つの部分だけから成るという誤った信条が長いあいだ保たれてきたのである。この考えは、我々の言語に欠陥を生じさせるほど、我々の中に深く根付いている。英語には「霊(spirit)」と「魂(soul)」という名詞はあるが(しかし、両者はあまりにも頻繁に同義語として扱われている)、後者の形容詞形は存在しない。それゆえ言い換えて説明しないかぎり、魂との関係を表現することができない。ギリシャ語の「サイキック(psychic)」を英語化しようという試みも確かになされている。しかし、語形と発音が通常のものとは異なるため、日常会話では使われそうにない。けれども、そのような形容詞が欠けているために、我々の英訳聖書では人の三部分性がほとんど隠されてしまっているのである。英訳聖書では「魂に属すること」を意味するギリシャ語が「生まれながらの(natural)」とか「感覚的な(sensual)」と訳されており(一コリント二・十四、ヤコブ三・十五、ユダ十九)、英語読者は不正確な訳のせいで本来の意味から遠ざけられている。

しかし、我々が三つの部分から成ることを明瞭に述べている一、二の節がある。ヘブル人への手紙の次の節は、そのような注目すべき節である。「神の言葉は生きていて力があり、いかなる両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を識別することができます」(ヘブル四・十二)。ここでパウロははっきりと、人の非物質的部分が二つの分離可能な要素、魂と霊から成ることを述べている。また彼は物質的部分を、関節と骨髄、運動器官と感覚器官から成るものとして描いている。隠れたしみや傷がないかどうか調べるために、祭司が全焼のいけにえの動物の皮をはいで四肢を切り離したように、神の言葉には分離する力、人間の全存在を霊、魂、体に分ける力がある、とパウロは言う。

もう一つのはっきりしている節は、テサロニケ人のためのパウロの有名な祈りである。「私は祈ります。どうか神があなたがたの霊と魂と体を完全に守って、私たちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださいますように」(一テサロニケ五・二三)。

体、魂、霊の各部の機能

さて、我々は体を感覚意識、魂を自己意識、霊を神意識と呼べるであろう。体は我々に五感を与える。魂は、現在の生存状態において我々を助ける知性と、感覚から生じる感情とを含む。一方、霊は神から直接来た最も尊い部分であり、ただ霊によってのみ、我々は神を理解し礼拝することができる。

上で述べたこの最後のもの(霊)は、ただ魂の媒体を通すことによってのみ、体に作用することができる。この事実の良い例が、次のマリアの言葉である。「私の魂は主をあがめ、私の霊は私の救い主なる神にあって喜んだ」(ルカ一・四六、四七)。ここで時制の違いから、最初に霊が神にあって喜びを感じ、それから魂と交わりを持ち、その感情を肉体器官によって表したことがわかる。

しかし、回心していない人の霊は、世に罪と義と裁きについて認めさせる主の霊によって一時の責任感に目覚める時を除けば、死の如き眠りに陥っている。そのような人は神と交わることができない。魂は知性として現されることもあるし、肉欲として現されることもあり、両方を伴って現されることもしばしばあるが、この魂が回心していない人々を確かに支配している。これがユダが十九節で述べようとしていることである。この節は、「これらは分かれる者、魂によって支配されている人々であり、霊を持っていません」と訳されなければならない。回心者の場合でも、非常に残念なことに、魂と体の諸器官によって、霊の力は現在ほとんど抑えられており、その地位を奪われている。

これをまことに残念に思わない者が我々の中にいるだろうか?なぜなら、ついに我々がこの世の夢から目覚める時、我々の目が開かれて現実を直視し、「目に見えるすべてのものは色あせてゆき、たちまち過ぎ去ってしまうものである」という驚くべき確信が我々の心に閃光のように臨む時、その瞬間から、我々は「永遠のいのちを得たい」という熱烈な願いの虜になるからである。しかしこの目標に達するために、我々は如何なる導きを肉体感覚に期待できるだろう?肉体は絶えず墓に向かって行進しているのだ。いや、魂ですら、たとえどんなに利口で、どんなに研究熱心でも、決して知恵の道を見いだせない。だが、魂はしばしば知恵の道を見いだそうと試みるのである。その結論がいかに当てにならないかは、最高水準の知性の持ち主で意見が一致している二人の人を見つけることの難しさからわかるであろう。理性は、せいぜい、不確かな欺かれやすい機能にすぎない。さらに、人を盲目にする高慢が事態をますます悪化させてしまう。というのは、人がある考えを心に抱く時(その考えはおそらく、その人自身の空想の産物にすぎず、夢の城のように非現実的である)、それ以降、その人の力は自分の心像をできるだけ鮮明で本物らしくしようというたった一つの目的のためだけに使われるからである。

理性は誤りやすく、時に危険である。しかし、霊の力は直感的に誤りなく真理を認識する。

このように、我々は容易に次のことを見ることができる。すなわち、知性は誤りやすいだけでなく、もし神の霊によって導かれないなら、あらゆる賜物の中で最も危険なのである。なぜなら理性は、善を悪、悪を善と呼ぶことができ、暗闇を光、光を暗闇、苦さを甘さ、甘さを苦さとすることができるからである。それどころか、理性が魔法の杖を振れば、今生だけでなく死の川の向こうの領域さえも、バラ色の景色と素晴らしい光景で満たし、そのすべてに確かな現実感を与えることができるのである。しかしそれは、霊と体を分離する決定的瞬間が訪れる時までのことである。その時、明るい展望は一瞬の内に喪失の漆黒によって永久に消し去られるのである。

再生されて神の子供となる力を受けた人の場合でも、その知的機能は依然として無力であるため、神聖な啓示によって真理を持っているにもかかわらず、パウロが言うように、今は部分的にしか真理を知解できない。しかし、我々の真のいのちである霊が解放されて王座に戻される時、今は理解することも想像することもできない力を我々は感じるようになるだろう。我々はもはや、くすんだ理性の亡霊や移ろいゆく夢を伴う暗闇の中にはいないであろう。そして我々は、自分が夜のない世界にいること、誤らない鋭い視力──すべての贖われた者に神はこの視力を与えてくださる──を授かっていることに気づくだろう。不確かで欺かれやすい魂の推論の代わりに、汚れなき霊の特質であるあの直感的な真理の認識力を我々は与えられるだろう。

エデンの園に置かれるアダム。人の最初の試練の始まり。

このように、主は人をご自身のすがたに創造された。そして、アダムが住んで所有するために、美しい世界が用意された。我々はこの世界の中で意識に目覚めたアダムの喜びを描写することができる。当時の世界は素晴らしかったが、創造者の無限の慈しみは最高に美しくて喜びに満ちた場所をさらにアダムのために用意した。これはアダムの心をいっそう躍らせたであろう。主なる神はエデンの東に園を設け、見るによく、食べるによいあらゆる木で園を飾られた。それらの木の中には、いのちの木と善悪知識の木があった。それから彼は、彼が造った人を取って、このパラダイスの中に置き、それを耕させ、守らされた。この「守る」というヘブル語の動詞には、見張ること、防御すること、という意味もあり、敵と敵になりうる者を示しているようである。

そして今、我々の世界の最初の時代・経綸が開始された。これは人の最初の試練の時代であり、純粋さを持っている時に人がそれを保てるかどうかを見極めるためのものだった。六日間の御業により、地は混じり気のない祝福で満たされ、そこにあったものはすべて非常に良いものばかりだった。最高の支配権がアダムに与えられた。彼は純粋で罪のない者だった。しかも、そこには一つの命令しかなかった。それゆえ罪は限定され、ただ一つの違反だけが可能だった。園にあった様々な木のどれからも、人は自由に食べることができた。いのちの木さえ、人に対して開かれていた。しかし人は、一本の木、善悪知識の木を差し控えることにより、彼に万物を賜った偉大な神に敬意を表すこと、彼に授けられた無限の恵みに感謝して十分の一税を納めることを命じられた。人はこの木から食べてはならなかった。さもないと、人は自分の王国と自分の命を失うであろう。

空中の敵について、人は特に警告を受けなかったようである。園を耕し、守るようにという命令により、敵の存在が暗示されていただけだった。人にはそれ以上必要なかったのである。なぜなら、人は神の唯一の禁令をよく知っており、自分を誘惑してそれに背かせようとする敵を、それが何者でも、直ちに見抜けたからである。

二つの御名、エロヒムとエホバ

創世記一章では、このアダムとの契約についてなにも述べられていない。そこには創造と回復の記録しか記されていない。他方、補足の記録の方では、我々は人の道徳的責任を見る。それゆえ、我々は神の名称が変わるのを見るのである。創造者・支配者としてだけ述べられている時には、神はエロヒム、大能者と呼ばれているが、人との契約関係の中で現れるやいなや、神はエホバ(我々の聖書では通常「主」と訳されている)という称号を名乗られるのである。エホバという御名は、最初に紹介される時、エロヒムと一緒にされている。これは、両方の言葉が同じ方を指しているのかどうかについて、一切の疑問を払拭するためである。

さて、これらの御名が両方あてはまる節もいくつかあるが、一方が適切で他方が不適切な場合も多くあることは明らかである。聖なる著者たちはこれを常に念頭に置いていたようである。彼らが注意深く両者を使い分けていたことを示す他の証拠を、我々はまもなく目にすることになる。このように、「聖書はエロヒム資料とエホバ資料といった雑多な文書の寄せ集めである」という説の根拠として合理主義者たちが挙げる事実こそ、まさに聖書全巻の統一性と整合性を見事に示しているように見受けられるのである。

動物に名前をつけるアダム。創造された日から、アダムは言葉の賜物を与えられていた。

さらに、もう一つの無上の喜びがアダムのために用意された。優しい創造者は、アダムが一人でいることはよくないことを知っておられ、彼の喜びとなる伴侶・配偶者を彼に与えることにされた。しかし最初に、彼は野の獣や空の鳥をアダムのもとに連れてこられた。それは、アダムがそれらをどう呼ぶのか見るためだった。すなわち、アダムがそれらのどれかを「我が骨の骨、肉の肉」と呼ぶかどうか見るためだった。アダムはすべてに名前をつけたが、どれにも女という名前をつけなかった。これはもちろん、神が予期しておられたとおりの結果だった。おそらく、次のような解釈も不可能ではないであろう。神はこの試みを通してご自身の被造物のうちに一つの願い──神は最初からその願いをかなえるつもりだった──を起こされたのである。

もし人が、創造されたその日に、各々の特徴に基づいて獣や鳥に名前をつけられたのだとすると、次のことは明らかである。すなわち、言葉は、いのちの息を鼻に吹き込まれた時に、神によって与えられた賜物だったのである。それゆえ、現代の哲学者たちが提唱する言葉の段階的発達説をクリスチャンは支持できない。

女の創造。アダムとエバはキリストと教会の型。

アダムは動物界に名前をつけることによって、女が現れる前に支配権を手に入れた。女は自分自身の権利によってではなく、アダムの骨の骨、肉の肉として、被造物に対する彼の支配権にあずかった。ここに、第二のアダムとその花嫁の明らかな型を見ることができる。というのは、万物は教会のものだが、教会は自分自身の功績や権利によってではなく、万物の相続者である方の花嫁として、万物を所有するからである(一コリント三・二一~二三)。

女の創造の歴史の中に、我々は男性と女性の密接な関係、それが包含する相互的な愛の責任を見なければならない。保護が一方の義務であり、服従が他方の義務である。各々、キリストと教会の偉大な奥義を暗示しているので、いくつかの類似点を示すことにしよう。

型の詳細についての考察

第一に、主はアダムを深い眠りに陥らせることにより、彼の最後の働きを開始された。同じように第二のアダムも、彼の花嫁の創造を開始できるようになる前に、三日間死の眠りに就かれた。

最初のアダムが眠っている間に、神は彼の脇腹を開いてあばら骨を取り出し、それから女を造られた。同じように、第二のアダムが十字架上で死の眠りに就かれた時、兵士が彼の脇腹を突き刺したので、血と水が流れ出た。その血により──血を流さずに罪の赦しはありえない──教会は今形成されつつある。新しい歌を歌う時がついに来る時、「あなたは御血により、あらゆる部族、言語、人種、国々の中から、人々を神のために買い取られました」(黙示録五・九)が長老たちの叫びである。

そのあばら骨を取り出した後、神は体を閉じられた。二本目のあばら骨は取り出されなかった。後に多くの女たちがアダムから生まれたが、ただ一人の女だけが彼のために造られた。第二のアダムについても同じである。彼もまた、ただ一人の天的な花嫁、長子たちの教会、彼の再来*の時に彼のものである人々を持つであろう。黙示録十九章から二一章に記されている出来事の順番からわかるように、空中すなわち第一の天に彼が臨在しておられる間に、このからだは完成されるであろう。そして、千年王国に先立つ大破局の直前に、彼の婚姻が執り行われるであろう。その後、大群衆が彼によって救われるであろう。王たちの娘が彼の愛する女たちの間にいるであろう。しかし彼の右には、オフィルの金を身につけた女王が立つであろう(詩篇四五・九)。

* もしくは「臨在」。拙著「大いなる預言」の中の臨在と出現に関する章を見よ。

「主なる神は男から取り出したあばら骨で女を造られた」。しかし、この最後の句は決して原文の適切な訳ではない。それは、「女を建造された」と訳されねばならない。新約でもこのような句が使われており、「建造する」「徳を立てる」といった言葉が教会に対して頻繁に用いられている。これは注目すべき共通点である。

女を造った時、神は彼女をアダムのもとに連れてこられた。同じように神は今、選びの民を霊の中で天の花婿のもとに導かれつつある。父が引き寄せてくださらないかぎり、だれもキリストのもとに来ることはできない(ヨハネ六・四四)。神はまもなく、完成された花嫁を第二のアダムのもとに自ら連れてこられるであろう。そしてついに神は、「父よ、お願いします。あなたがわたしに与えてくださった者たちを、わたしのいるところにわたしと一緒におらせてください。それは、あなたがわたしに与えてくださったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」(ヨハネ十七・二四)という祈りに答えられるであろう。

妻を受けるやいなや、「これこそついに、我が骨の骨、我が肉の肉」とアダムは叫んだ。第二のアダムも、彼はぶどうの木であり、我々はその枝々であることを、我々に告げておられる(ヨハネ十五・五)。また、彼の使徒はさらにはっきりと、「なぜなら私たちは、彼の体、彼の肉、彼の骨の一部分だからです」(エペソ五・三〇)と断言している。

それからアダムは続けて言った、「彼女を女と呼ぼう。彼女は男から取られたのだから」。イシ(ish)はヘブル語で男を表す言葉であり、イシャ(isha)は女を表す。彼女はアダムの性質にあずかった。それゆえ、彼女は彼の名にちなんで呼ばれるのである。キリストは来臨の時、彼を待ち望んでいる人々の体を彼の栄光の体の様へと変え、彼らを彼の性質にあずかる者とされるであろう。そして、「わたしは彼の上にわたしの新しい名を書き記そう」(黙示録三・十二)という勝利者に対する約束を成就されるであろう。

最後に、「それゆえ、人はその父と母を離れて妻と結び合い、二人は一体となるのである」という言葉は、それを女にあてはめた場合、「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ十・三七)という主の御言葉に通じる。さらにまた、神秘的な花嫁に対する次の訓戒とも通じる、「娘よ、聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。そうすれば、王は大いにあなたの美を慕おう。彼はあなたの主であるから、あなたは彼を礼拝せよ」(詩篇四五・十~十一)。キリストによって救われたけれども、長子たちの教会に属さない者たちは、おそらく彼らが生まれた地に住み着いてしまい、昔ながらの住まいを離れて天の住まいに入るよう召されないであろう。これを覚える時、これらの御言葉はますます重要な意義を持つ。

このように、アダムとエバの歴史が来たるべき素晴らしい事柄を予表していること、そしてそれがキリストとその教会にまつわる結婚の奥義を述べていることを、我々ははっきりと見ることができるのである。